※執筆にあたって
この西郷編を書くにあたって、世界人物辞典(旺文社)、エンカルタ百科事典など、多くの資料を参照しましたが、なかでも西郷をあらゆる角度から研究した超入魂サイト《敬天愛人》さんを最も多く参考にし、またご好意で文章を一部引用させて頂きました。管理人さんの西郷への愛の深さには、ただただ脱帽するのみです!

世界巡礼烈風伝・32の巻
(10日目その1)


一夜明け、JP南鹿児島駅前から始発のバスで南州墓地へ向かった。“南州”とは西郷隆盛が名乗った号だ。

『西郷隆盛、かく生きたり』(前編)


1827年、下級武士の子として薩摩に生を受ける。後に西郷の命を奪うことになる大久保利通は、彼と同じ町内に住んでおりガキの頃からの親友だった。

16歳になって最初についた要職は、農政系役所の書記だった。彼の上役は城下でも有名な硬骨の武士で、重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に
「虫よ 草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」
と書いて辞職した。ここでいう虫は役人であり、草は農民である。国の根本をなすものは農民である、という上役の信念は若い西郷の胸に熱く響いた。

彼が24歳になった頃、新藩主に島原斉彬(なりあきら)が就任したが、この交代劇に際し“お家騒動”が起こった。

話は斉彬の就任前にさかのぼる。斉彬は学問を愛し進歩的な思想を持ち、当時の日本を取り巻く諸外国の事情にも通じてるうえに性格は開放的で明るく、多くの藩士が早くから彼が藩主になる日を待ち望んでいた。ところが現藩主の父親の方は正反対の性格で一切の変化を嫌い、それはもう異常とも思える保守ぶりだった。

やがて、息子が40歳になってもまだ家督を譲ろうとしない藩主にしびれを切らした一部の家臣たちが、一日も早く斉彬を藩主にするため藩内で活動を開始した。これが父親の逆鱗(げきりん)に触れ、斉彬擁立の運動に加わった者は流刑、死罪とことごとく処罰された。切腹を命じられた人物の中に、西郷家と縁の深かった赤山という武士がいた。西郷は赤山の見事な切腹の様子を聞き、切腹の時に赤山が着用していた血染めの肌着を受取ると、終夜その肌着を抱いて泣き通した。
こうした青年時代の出来事が、彼に権力に対する憤りを感じさせ、その反抗精神を育んだといえる(この騒動で大久保も父は島流し、自身は免職処分となっている)。

結局はこのお家騒動や鎖国中に薩摩藩がこっそり琉球と密貿易してたことが幕府の耳に入り、幕府は藩主交代の勧告を出した。新藩主、斉彬の時代が来た。

斉彬は待ってましたと言わんばかりに嵐の如く藩の大改革に着手する。蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄用溶鉱炉の設置、ガラスの製造、ガス灯の設置、製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良、紡績事業等々、挙げていけば切りがないほどの、当時の技術水準から考えれば信じられぬ勢いで改革を推進した。斉彬が江戸時代随一の名君であり、英明君主であったと言われているのはこうした理由からだ。

「藩政において自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」
斉彬は新しい人材登用にも力を入れ、こうした布告を出した。ここで我らが西郷の登場となる。

西郷は農政に関する意見書を山のように書き、藩庁に提出しまくった。いかに農民が重税に苦しみ困難な生活を強いられているかを切々と訴えた。また、先年のお家騒動で処罰された正義の武士達が、未だ流刑や謹慎を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書に書いた。これらは斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知る。

斉彬は最初の参勤交代に西郷を連れて行くことにした。彼を将来の薩摩藩を背負って立つ人物として仕込もうと考えていたのだ。そして江戸で、国内の政治情勢、諸外国の事情、当面の日本の問題等を彼に叩き込んだ。182センチ113キロという当時の常識では考えられぬ巨体の彼が、小さくカチンコチンになって斉彬の話を聞く姿はとてもユーモラスな光景だ。斉彬も西郷と話すのはとても楽しい時間だったらしく、
「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音が違った」
と薩摩では伝えられてる。

その翌年、大事件が起きる。ペリーの黒船が来航したのだ。


浦賀に来航した4隻の蒸気船は国内に大混乱をもたらした。
その後も続々と来航する諸外国の圧迫に対し、幕府は確固とした方策を持っておらず、その場しのぎの方策で対応していた為に諸外国の嘲笑と侮りを受けていた。そして幕府が諸藩や朝廷に何の相談もせず、独断で通商条約を結んだことに対して、全国的に幕政への反発が起こった。

外圧が迫るこの日本をどうひとつにまとめあげていくか、斉彬や西郷は真剣に思い悩んだ。もう、幕府とか藩とかそういう小さな範囲で物事を考えてる場合ではなかったからだ。

やがて、斉彬は思い切った秘策を計画した。それは、斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の命令を受け、強大な兵力を背景に、井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫るというものだ。これは一種のクーデターだった。斉彬は、もう尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うにはこの軍事行動しかないと考え、この計画の実行を決定した。


●西郷の入水


西郷は斉彬の意を汲んで先に京都入りし、朝廷に働きかけを開始した。ところがそんな彼のもとに斉彬急死の悲報が舞い込む。急性の死病にかかったというのだ。おりもおり、江戸では井伊直弼が安政の大獄という反体制派の大弾圧に繰り出した。長州藩士を始め、幕府に反抗する者は根こそぎ逮捕され多くの者が処刑された。この恐怖政治に各藩は震え上がった。

京都にいても身の危険を感じた西郷は、親友の京都清水寺の住職と共に鹿児島へ脱出する。ところが薩摩藩では斉彬が死んだことによって先代の藩主が返り咲いており、状況が一変していた。保守派の前藩主によって、斉彬が興した近代工業は全て廃止され、薩摩藩内は火を消したように静まり返っていた。

西郷にも捕縛命令が出ていたため、幕府との対立を恐れた藩側は彼らをかくまうことを拒否、ついに薩摩藩からも追われる身となった。2人は進退極まり、鹿児島湾へ投身自殺を試みた。時に西郷30歳の冬であった…。

西郷は入水を目撃した者に引き上げられ、奇跡的に生き返った。しかし、友は絶命していた。共に身投げした相手が死に、自分だけが生き恥をさらしている…武士として、これほどの恥辱はなかった。西郷は、自殺から一ヶ月後に書いた手紙に
「私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上だ」
と書いている。西郷家では、西郷の周辺から刃物類を一切隠した。

そして、苦しみに苦しんだ末、西郷は一つの考え方に行き着く。
「こうして自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命があり、だからこそ、こうして天によって命を助けられたのだ」
彼は信念に殉ずる決心をした。
 
最終的に安政の大獄による西郷への処罰は、南方への島流しと決定された。


西郷が奄美大島に流された3年の間に、時代の波は大きくうねる。恐怖政治を行なっていた井伊大老が、江戸城桜田門外で脱藩藩士18人にメッタ斬りにされた。大老といえば将軍職の次に権威があり、幕内のトップ中のトップ。最高職の井伊直弼が、白昼、それも登城という公務中に江戸城前で惨殺されたこの事件は、幕府の威光がもはや地に落ちてしまったことを世に知らしめた。

薩摩藩の藩主は、名君・斉彬(なりあきら)の死後に返り咲いた前藩主も亡くなり、新たに島津忠義になっていた。忠義は非常に内気な性格であった為、実際の藩政は斉彬の弟にあたる久光がしきっていた。久光は歴史の表舞台に出たいと思い、兄の斉彬がかつて計画したように兵を率いて上京し、幕府に独断政治をやめよと進言する計画を立てた。
このとき藩の中核にいた大久保利通は、上京作戦のブレーンとして西郷が欠かせぬと、彼を流刑先から呼び戻すことを強く提案した。それが認められて西郷は再び薩摩の大地を踏んだ。

ところが登藩した西郷が口にしたのは、上京の中止を促すものだった。計画を立てた3年前と今では情勢が変わっており、京都や大阪は幕政に異を唱える脱藩志士の吹き溜まりと化しているので、今兵を率いて上京すると彼らを刺激して収拾がつかなくなるというのだ。

つまり薩摩軍内部の統制はとれても暴走する他藩の志士を抑えることは不可能であり、そのような混乱下で朝廷や幕府と交渉できるわけがない、と西郷は懸念したのである。それ以前に西郷の胸中には、名君として全国に名をとどろかせた斉彬だからこそ世論を味方にできるが、久光では役者不足だという気持ちもあった。

意気揚々と出発する気持ちでいた久光は、たかが一藩士の西郷に面と向かってこのことを指摘され非常に気分を害した。泡を食った大久保は慌てて西郷を説得し、
「おはんが(おぬしが)、そこまで言うなら」
と、何とか彼を上京作戦に同意させた。

西郷に出た命令は「先発して長州下関で情報を収集し、そのまま久光軍の到着を待て」というものだった。長州に入ってみると西郷の不安は的中した。久光は単に幕府へ進言しに行くだけなのに、薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いした急進派藩士らが、続々と京都・大阪に集結しているとの情報が飛込んできた。

このまま久光の行列が上京すれば大惨事が起こるかもしれない、何とか未然にそれを食い止めなければ、と西郷は待機命令を無視し、急遽関西へと向かった。大阪に入った西郷は騒ぎ立てる浪士達を落着かせ、軽はずみな行動を戒めていたが、そんなことを久光が知る由もなかった。

下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷にプッツン。何と久光は、西郷の捕縛命令を下したのだ。久光の激怒を知った大久保は西郷と神戸の須磨海岸で密会し、彼に向かってこう言った。(ここにある“吉之助”とは仲間内での西郷の呼び名だ)

「久光公のお怒りは尋常ではごわはんから、もしかすると、吉之助どんに切腹を命じるかも分かりもはん。こうなったのには、オイ(自分)にも大きな責任がごわすから、吉之助どんだけを死なすわけには、いきもはん。オイも一緒に死にもす。吉之助どん、オイと一緒に刺し違えて死にもそ」
大久保は本気だった。
しかし鹿児島湾の一件から、西郷はここで死ぬわけにはいかなかった。

「今、おいとおはんが二人とも死んだら、薩摩藩の今後はどうなりもすか、天下のことはどうなりもすか。死ぬときは、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばって堪えなければならない時は、こん今ごわすぞ。恥を忍んで、我慢する時でごわすぞ」

捕縛された西郷は薩摩へ護送され、今度は奄美大島よりさらに遠い沖永良部島に流刑された。


●寺田屋事件


久光は京に入った。西郷が送還されたことにより統制者を失った急進派藩士らは、久光の入京を機に倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画し、京都伏見の寺田屋に集結し始めた。その数、20数人。一部の過激な者達によって、自分の計画を邪魔させられるのを恐れた久光は寺田屋に集まった志士に藩兵を差し向けた…「解散せぬ時はそれ相応の処置を取れ」と厳命して。

驚いたのは志士たちだった。久光をバックアップするつもりで決起したのに、当の久光が兵を派遣してくるとは…!しかも皮肉なことに寺田屋へ集まった者の中心は、有馬新七を首謀とした薩摩の急進派藩士だったのだ。

寺田屋に着いた藩兵は、顔なじみである有馬たちに軽挙な行動は慎むように通告した。しかし有馬は
「事ここに至ってはもはや中止は出来ん」
と君命(くんめい)をあえて無視すると返答。藩兵らは、君主の命令に逆らうと自分の身が危うくなるので後に引けなかった。彼らは「君命でごわす」と叫び、同胞であった有馬らに斬りかかる。こうして身内同士が相討つという、有名な寺田屋の惨劇が起こったのだ。

有馬の最後は壮絶を極めている。彼は藩兵の大物、道島五郎兵衛を壁へ押し付けてその上に覆いかぶさり、仲間に
「オイごと突け、オイごと刺せ!」
と絶叫したのだ。有馬と道島は同時に突き抜かれた。こうした悲惨極まりない光景が寺田屋で繰り広げられ、急進派全員が捕縛もしくは斬殺された。

この久光の非情な鎮圧は志士たちを大いに失望させたが、幕府と朝廷は治安最優先という久光の姿勢に絶大なる信頼感を持った。同じ薩摩藩の若者同士が斬りあったこの寺田屋騒動で、喉から手が出るほど欲しかった御上(おかみ)の信頼を久光が得たことは、余りにも皮肉な結果であった。


西郷2度目の流刑先は高温多湿の沖永良部島。牢は吹きざらし、雨ざらしで、彼に死ねと言わんばかりの久光の処罰であった。

さて西郷不在の間に世間はどう変わったか。久光の上京作戦に、薩摩が倒幕に踏み切るものと小躍りした多くの志士は、いきなりの寺田屋倒幕派大弾圧に絶句。出鼻をくじかれた形になった京都の志士たちに、続いて暗黒の時代が訪れる。幕府の狂犬軍団「新選組」の結成だ。

新選組は「泣く子も黙る新選組」といわれるほど、連日の如く志士の暗殺を繰り返し、安政の大獄の容疑者、開国論を唱える者、その他邪魔になる者は全て斬殺した。最も有名なのが1864年6月5日午後10時に起きた池田屋襲撃事件。新選組30名が、京都池田屋で密会中の急進派藩士たちを襲撃、近藤や沖田はその場で7名を斬り殺し、20数名を捕縛した。

池田屋事件で最も犠牲者を出した長州藩は逆上し、大軍の藩兵を京に送る。京都防衛を任されていた会津藩は薩摩藩に出兵を要求、久光は家臣からこの混乱した状況をさばけるのは人望の厚い西郷しかいないと突き上げをくらい、2年ぶりに島流しを解く。さっそく京都に派遣された西郷は、御所の防衛を任命された。彼の気持ちは複雑だった。“これは新選組を管理する会津藩と、復讐を誓う長州藩の私闘ではないか”と。

戦いの火蓋が切って落とされた後も彼は薩摩軍を動かさなかった。しかし、怒り狂う長州軍の前に会津軍はあっけなく壊滅し、勢いに乗って御所前の薩摩軍に襲いかかった(当時13歳だった明治天皇は、宮中に銃弾が飛んで来るので気絶したという)。激戦の末、西郷の巧みな采配に長州軍は兵を退いた。

すっかり調子に乗った幕府は長州征伐命令を出す。
西郷も薩摩藩の代表として征伐軍に参加するが、欧米列強から激しい外圧を受けている現在の日本の状況を考えれば、内戦を起こしている場合でないと主張。武力を使わずに交渉で長州軍を降伏させるべきだと、自ら交渉の為に長州の地に乗込んだ。

当時の長州藩内では、京都で戦った薩摩への恨みが骨髄にまでしみわたっており、下駄の裏に「薩賊(さつぞく)」と記して歩く者がいたほどで、過激な長州藩士らは
「関門海峡は薩摩にとって三途の川だ。渡れるものなら渡ってみろ」
とまで言い放ち、長州という場所は薩摩人にとって死地に等しい場所だった。その状況下で直談判のため丸腰でやって来た西郷に、長州藩幹部は仰天する。

西郷は高杉晋作率いる最強部隊・奇兵隊本部で熱心に説得を続ける。
「日本の国家存続の為に降伏案を受け入れてくれ」
と頼み込み、見事に平和的解決に導いた。

ところが!ほどなくして幕府は第二次長州征伐を発令した。第一次の降伏案が生ぬるいというのである。
西郷は赤鬼の様に怒る。
“長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、再征しようとする幕府の傲慢さは許せん。長州再征は幕府と長州の私闘だから薩摩の出兵は拒否する!”
幕府はまさか京都で大活躍した薩摩軍が出兵を拒否するとは夢にも思っていなかったので、大パニックになった。

…これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えた土佐藩の脱藩藩士がいた。その名を坂本龍馬という!


※プチ整理〜倒幕を目指す志士の吹溜りと化した長州藩に幕府の征伐指令が下る。西郷は「黒船続来の今、内戦は避けるべきだ」と長州に乗り込んで血気にはやる彼らを説得、降伏案を受け入れさす。しかし平和的解決に不満ブリブリの幕府は第二次長州征伐を発令、西郷は幕府にキレた。そんな西郷に龍馬が接近する。


黒船にビビリまくりの幕府とは正反対に、下関海峡や鹿児島湾で外国船に平気で大砲をブチ込む薩長両藩。この2藩の同盟が倒幕可否のキーワードだと、龍馬はかねてから考えていた。

幕府側の征伐が目前に迫った長州にとって龍馬からの薩長同盟案は渡りに船だったが、3年前に京都で薩摩軍に苦渋を舐めさせられており、わだかまりが簡単には拭えない。また、西郷は同盟の必要性をとうの昔から感じていたが、藩主島津久光が長州をライバル視して悪感情を持ち続けていた為、西郷の独断では同盟に踏み切ることが困難だった。

ここで龍馬は一計を講じる。
幕府は当時、『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、長州は貧弱な武装で幕府軍との決戦に挑まざるを得なかった。そこで彼は西郷に「薩摩の名を長州に貸してはどうか」と提案したのだ。つまり薩摩の名義で長州に武器を調達しよう、というわけだ。

「名前を貸すだけなら何も問題なかろう」と西郷は快諾する。おかげで長州には喉から手が出るほど欲しかった最新鋭のイギリス製武器がどっさり届き、高杉晋作は手を叩いて喜んだ。これがきっかけとなり両藩は急接近してゆく。

いよいよ最後の詰め、京都に双方の首脳が集まって同盟の調印をする運びとなったが、ここで問題が起こった。両藩とも同盟する心の準備はできているのだが、
“我が藩と同盟して欲しい”
という最後の一言が、プライドが邪魔をして自分から言えない。先に申込んだ側が表面上は“お願いする”立場になるからだ。

西郷までがモジモジしており、時間だけが無為に過ぎて行く。トップ同士の会見が始まって11日目。所要のため遅れて京入りした龍馬は、いまだに同盟が結ばれていないことに仰天、
「何をやっているのか!?」
と半ギレで会場に乗込む。

「薩長同盟は、薩摩や長州だけの一藩の問題ではなかと!これは日本全体の問題じゃ!」
「ぬおっ」
この8歳年下の龍馬の一喝に西郷は覚醒、
「いずれ滅びる幕府と手を組むよりは、我らの手で日本の運命を切り開こうではござらんか」
と、薩摩藩から長州藩に同盟を申し込んだ。こうして歴史はさらに急速に動き出す。

この翌年、龍馬は京都近江屋で斬殺される。暗殺者は不明。現場に新選組の下駄や刀のサヤが落ちていたことから当初新選組の犯行と思われたが、
「あまりにもわざとらしい遺留品ではないか」
と、隊長の近藤は否定した。京の人々も
“目立ちたがり屋の新選組なら暗殺せず堂々と名乗りをあげるはずだ”
と噂しあった。現在は、無血革命に傾きつつあった龍馬を、急進的倒幕派の志士らが排除したという説が有力だ。

やがて第二次長州征伐の火蓋が切って落とされた。幕府はアテにしていた諸藩中最強の薩摩軍が作戦に参加しないことに面食らっていたが(西郷自ら筆を取って、長州再征に反対する拒絶書を幕府に提出していた)、ここまで来ては後には引けぬとメンツの為に長州藩へ強引に攻め込んだ。高杉ら長州軍は兵数で劣るもの、薩摩藩ルートで密入した新式銃&大砲で徹底的に近代化しており、幕府軍に連戦連勝。特に士気の高い奇兵隊(高杉隊)は無敵だった。
結局、終始長州軍優勢のまま将軍家茂が謎の死を迎え停戦。その後、新たな将軍職に徳川慶喜が就任する(この半年後に高杉は肺結核の為に27歳で絶命)。

武闘派の薩長が同盟したことを知った幕府はパニックになった。慶喜は政権さえ朝廷に返上すれば、薩長軍が江戸に侵攻する大義名分は消えると考え、土佐藩が提案した『大政奉還』を受け入れ支配権を放棄した。これによって形式的には徳川300年に終止符が打たれる。

形式的、と書いた。これは数百年ぶりに突然政権を任された朝廷は政治を運営する能力を持ちあわせておらず、右往左往したあげく国政の実権をやっぱり幕府に委任せざるを得なかったからだ。もちろん策士の慶喜はこれを初めから狙っていた。

「甘か!現在の日本の状況はこげんことで打開することは困難でごわす!」
大政奉還から1ヶ月後の1867年12月9日、西郷や大久保ら倒幕派代表者は京都御所に入り、幕政の復活を阻止する為に有力藩による新政府樹立を宣言する。この王政復古の大号令で幕府、摂政、関白の全てが廃止され、同時に慶喜の領地没収、及び官位剥奪が決定された。こうして幕府は政治的に息の根を止められた。残る問題は依然として慶喜が持っている巨大な軍事力だった。

ときに男・西郷隆盛、40歳の出来事であった。

(つづく)ついに江戸城開城!←クリック!

P.S.龍馬暗殺の当日は、奇しくも彼の33回目の誕生日。


      

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