音楽家の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

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★パブロ・カザルス/Pablo Casals 1876.12.29-1973.10.22 (スペイン、アル・バンドレイ 96歳)2000&14 チェロ奏者
Cementiri De El Vendrell, Tarragona, Cataluna, Spain


25歳の頃 人類史上最高のチェリスト!





バルセロナといえばガウディ バルセロナ・サンツ駅から出発 終点のひとつ手前まで乗車する長旅



アル・・バンドレイ(エル・ベンドレル)のカザルス像 この銅像は表情が素晴らしい!





カザルスの生家 1階は写真や楽器を展示 上階が生活圏。カザルスのベビーベッド





カザルスの墓は彼の故郷に(2000) 「ヒシッ」墓石はチェロの形をしていた! 14年後(2014)に再巡礼

カタロニアの美しい青空とカザルス 名チェリストであり、信念の平和主義者 後方から見るとチェロ型とわかる

「音楽と政治は別」「アートに政治を持ち込むな」、そんな言葉を昨今はよく見聞きする。だが、史上最高のチェリストと称えられるパブロ・カザルスは、そうした言葉とは真逆に生きた。「音楽家には道徳的責任がある」とファシズムや核軍拡と全存在で戦った。
1996年1月14日の夜、日テレの教養バラエティ『知ってるつもり!?』で名チェリストのパブロ・カザルスが特集された。当時、僕は20代。まだネットがない時代であり、それまで「無伴奏チェロ組曲」の演奏をラジオでは聴いていたものの、人物像はよく分かっていなかった。それゆえ、ガンジーやヘレン・ケラーなど偉人が紹介される番組で、なにゆえチェロの演奏家が取り上げられるのか、興味津々で見ていた。放映中、カザルスが貫いた人道主義に何度も涙腺が決壊。これほど信念を持って民主主義や平和のために戦った音楽家がこの世にいたのかと胸を打たれ、カザルスの演奏から伝わる温かさや芯の強さが、人生に裏付けされたものであると知ってますます感動が深まった。

「音符をただ音にするのではない、音符の意味を表現するのだ」。パブロ・カザルスは1876年12月29日にスペイン東部カタルーニャ地方タラゴナ県の小村アル・・バンドレイ(エル・ベンドレル)で生まれた。フルネームはパウ・カルロス・サルバドル・デフィリョ・デ・カザルス。パブロのカタルーニャ語表記「パウ」で「平和」を意味する。アル・・バンドレイはカタルーニャ州の州都バルセロナから約70km。11人兄弟の次男(成人したのは3人のみ)。父カルロスは貧しい教会オルガン奏者。
父に音楽の手ほどきをうけて4歳からピアノを始め、5歳でヴァイオリンやオルガンを弾きこなし、6歳で「マズルカ」を作曲した。
1888年(11歳※誕生日が12/29なので年齢を1歳若く記載)、コンサートで初めてチェロの音を聴き、「こんなに美しい音色の楽器を聴いたことがない」と興奮、家族からチェロをプレゼントされると楽器の虜になった。父は音楽で食べていく苦労を知っており、カザルスを大工にしようとしたが、母は楽才をのばすべきと反対した。そして母とバルセロナに出て、名門バルセロナ市立音楽院に入学、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。以降、カザルスは10年強をかけて革新的なチェロ奏法を編み出していく。カザルスが登場するまで、チェリストは脇を締め小さくなって弾くのが常識で、音楽院でもそう教えていた(中には肘が上がらぬよう、脇に本を挟ませて弾かせる教師もいた)。カザルスは脇をひろげ指を立てて弦を抑えることで、音色が明るく外向的になることを“発見”し、型にとらわれない自由な演奏スタイルを確立させる。入学の半年後、町はずれのカフェ・トストで週3回、1日3時間演奏者として働き始めると、少年カザルスのチェロ演奏がたちまち評判になって、遠方から聞きに来る客も現れた。作曲家アルベニスは演奏後にかけより抱きしめた。
1890年(13歳)、バルセロナの古い楽器店でホコリだらけのバッハ(1685-1750)の『無伴奏チェロ組曲』全6曲の楽譜と運命的な出会いをする。この曲は約150年間も注目されず、シューマンが一度編曲しただけだった。全曲を聴くには退屈で味気ないと見なされ、演奏会では組曲の一部分だけが取り上げられた。カザルス自身はこの曲を誰かが練習している光景を見たことがなかったが、彼はこの6曲の真価を見抜き光を当てた。同曲の研究と練習に励み続けるも、人前で弾く勇気がでるまで12年もかかったという。後にこの曲は「チェリストにとっての旧約聖書」と呼ばれるようになった(“新約”はベートーヴェンのチェロ・ソナタ)。音楽院のチェロ教師は「もはや教えることは何もない」とカザルスを称える。
※晩年の回想「私は興奮にうち震えながら(無伴奏チェロ組曲を)弾き始めた。それは私にとって最も愛おしい音楽になった。当時私は13歳だったが、それから80年間、その発見の驚異はずっと私の中で大きくなり続けている。あの組曲が私の前にまったく新しい世界を広げてくれたのだ」。

1893年(16歳)、カザルスはより本格的に音楽を学ぶべく、パリ留学の為の奨学金を申請する。奨学金の募集枠は一名だったが、同年カザルスは音楽院を見事に首席で卒業し、これでパリに行けると確信していた。しかし、フタを開けてみると最終的に選ばれたのは、街の有力者の息子であった。何らかの不正が行われたことは明らかで、若きカザルスは社会に絶望する。
「その事件以来、私は自分の周囲の醜さに突然気付き始めた。不正な暴力、不平等、貧富の差。人々は利己主義で身を固めている。なぜこのような悪が存在するのか。それに答えすら出せない音楽が一体何の役に立つのか。音楽が無力だとするなら、自分など生きていても仕方がないではないか」
虚無感に包まれ、落ち込んでいるカザルスに、母ピラールはこう語りかけた。「誰の心にも悪魔と天使が住んでいます。大切なことはあなたがどちらを選ぶかなのです。あなたは自分でその答えを見つけねばなりません。全てはあなたの心の中にあるのです」
たとえ社会に不正があろうが、肝心なのは心を正しく持つこと。この言葉を受けて、カザルスは自分にとって音楽とは何なのか考え抜く。「芸術家も、あらゆる職人も結局は人間という大きな存在の一部分にすぎない。だとすれば、大切なことはこの人間という大きな存在にどのような姿勢でいどむかという事だ。音楽家は音楽を通して人間と出会ってゆく。音楽を通して自分を語る。そう、音楽は人生へのひとつの挨拶なのだ」。
カザルスは聴き手の魂と1対1で向き合う音楽を通じ、全存在をかけて他者との交流を始めた。マドリードに出てアルベニスの紹介で音楽好きのモルフィ伯爵(摂政の秘書。夫人はリストの弟子)の支援を得、御前演奏でクリスティーナ女王に気に入られ高額の奨学金が支給された。以後3年間をマドリードで過ごす。

  カザルスの両親

1896年(19歳)、弦楽器の音楽教育に定評のあるブリュッセル王立音楽院へ転入。だが“スペインの田舎者"とチェロの教授に笑い者にされて衝突、2日間でベルギーを去る。同年、「世界的な名声を得るにはパリで成功せねばならない」と考えたカザルスは、スペイン王室からの奨学金を辞退し、パリのオペレッタ劇場で働き始める。だが現実は甘くなく、貧困の中で赤痢を発病。失意のなか3年ぶりにバルセロナに戻ると、市立音楽学校の教師に欠員がありすぐに採用された。
1899年(22歳)、成功を夢見て再びパリに出たカザルスにビッグ・チャンスが訪れる。モルフィ伯爵の推薦で大指揮者シャルル・ラムルーと面会を果たし、演奏を聴いたラムルーは「運命の子よ、神が与えし子よ」と感嘆した。カザルスはパリ3大民間オーケストラの一つ「ラムルー管弦楽団」のソリストに抜擢され、ラロの『チェロ協奏曲』でデビューを飾り大成功をおさめる。世界にカザルスの名が広まり、ロンドンではヴィクトリア女王の御前でサン・サーンスの協奏曲を演奏した。
この2度目のパリ時代に、サロンで作曲家のサティ(当時33歳)、作家のゾラ、プルースト、ドーデ、後に共演者となるピアニストのコルトーらと知り合った。
1901年(24歳)、アメリカに最初の演奏旅行。
1902年(25歳)、バッハ『無伴奏チェロ組曲』の楽譜に出会ってから12年。カザルスは初めてこの曲の公開演奏を行い、長く埋もれていた古曲を完全な形で復活させた。「私は12年間、日夜この曲を研究し弾いた。私がこの組曲の1つを演奏会で公開する勇気が出るまで12年かかり、私も25歳になっていた」。『無伴奏チェロ組曲』はカザルスの代名詞となった。(資料によっては公開演奏を1904年としているが、カザルスの“12年"“25歳"を信じると当年になる)
1904年(27歳)、ルーズベルト大統領に招かれホワイトハウスで演奏。
1905年(28歳)、1歳年下のピアノ奏者アルフレッド・コルトー(1877-1962)と、4歳年下のヴァイオリン奏者ジャック・ティボー(1880-1953)と三重奏団を結成しパリで最初の公演を行い、ロシアでも演奏した。この「カザルス三重奏団」は20世紀前半を代表する室内楽トリオとして喝采を浴びていく。深い精神性をたたえたカザルスのチェロ、詩的で情感のあるコルトーのピアノ、優雅かつ繊細なティボーのヴァイオリンが融合した音色は音楽史上のひとつの奇跡といわれる。
1908年(31歳)、ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場し、ここから指揮者としての活動も始まった。同年、父カルロスが55歳で他界。
1911年(34歳)、弟エンリケ(19歳)にスペイン陸軍から召集令状が届く。カザルスはその時の母ピラールの言葉を後に回想している。「母はこう語った。“お前は誰も殺すことはありません。また、誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり殺されたりする為に生まれたのではありません。行きなさい、この国から離れなさい"と。弟はアルゼンチンへ脱出し、18年間の亡命生活を送った。母は息子の命を救おうとしたのではない。間違ったことはしない、正しいと思ったことをする、という原則を守っただけなのだ。母はいつもこう言っていた。“特定の法律はある人達を守りはするけれど、他の人々には危害を与えることもある。法律ですら善悪の判断は自分でしなければならない"と。もし、世界中の母親が息子に向って私の母と同じことをしたなら、世界から戦争はなくなるだろう」

1914年(37歳)、第一次世界大戦が勃発。同年、36歳のソプラノ歌手スーザン・メトカーフ(1878-1959)と結婚し、戦乱のためパリを離れてアメリカに一時亡命する。夫婦生活は15年続き1929年から別居、正式な離婚は1957年。(結婚年は資料によって1904年説があるが、それは2人が出会った年)
1916年(39歳)、スペインの作曲家グラナドスが英仏海峡でドイツ潜水艦の魚雷で死亡。

1918年(41歳)、11月に第一次世界大戦が終結。
1919年(42歳)、故郷カタルーニャに戻り、翌年楽団員88名の「パウ・カザルス管弦楽団」をバルセロナに創設し、自ら指揮者となってカタルーニャ文化の発展に尽力した。同楽団は内戦が始まるまで16年間で363回の演奏を行う。
1930年(53歳)、7年間続いてきたプリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権が倒される。
1931年(54歳)、スペイン共和国(第二共和政)が成立し、カザルスはカタルーニャ自治政府誕生を祝う記念式典で自らのオーケストラを率いてベートーベン『第九』を指揮。
同年、カザルスの人格形成に決定的な影響を与えてきた最愛の母ピラールが77歳で他界。
1933年(56歳)、ドイツでヒトラーが台頭しナチスが政権を掌握。反ナチスのカザルスはドイツでの演奏を拒否したが、三重奏団のコルトーはナチスに協力的で演奏を希望したために衝突し、カザルスは反発して袂を分かった。カザルスの後任でチェリストのピエール・フルニエが三重奏団に加わった。

1936年(59歳)、この年から1939年にかけて、カザルスは生涯ただ一度となるバッハ『無伴奏チェロ組曲』の全曲録音を開始。7月、カザルスがパウ・カザルス管弦楽団とベートーヴェン『第九』のリハーサルを行っていると、スペイン内乱の勃発と退避命令を伝えるメモが渡された。公正な選挙で樹立した左派連合「人民戦線」の共和政府に対し、フランコ将軍率いる軍部がクーデターを起こしたのだ。楽団員は最後まで第九のリハを続けることを求め、リハ後にカザルスは「世の中が平和になったときにもう一度第九を演奏しよう」と告げて別れた。
国民同士が銃口を向け合う内戦状態に突入したスペイン。フランコ軍を支持したのは、スペイン王党派や保守派、地主層などの富裕層で、一方の共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者などのほかに、地方のバスク人やカタロニアの自治を主張するグループだった。バルセロナやマドリードでは市民、労働者が武装してバリケードを築きフランコ軍と戦った。
軍事独裁政権を目指したフランコは、独のヒトラー、伊のムッソリーニから大量の最新武器や兵員の援助をうけた。一方、共和国政府軍には反ファシズム、自由のために作家ヘミングウェー、ジョージ・オーウェル、アンドレ・マルロー、カメラマンのロバート・キャパなど、世界中から約4万人もの人々が国際義勇軍として参加。義勇兵の出身国と人数は仏1万人、米3千人、英2千人、亡命独人5千人、亡命伊人3千人、その他57カ国に及んだ。ヘミングウェーは後に長編『誰がために鐘は鳴る』(1940)で米義勇兵の活躍と死を描いている。
1937年4月26日、フランコ軍に激しく抵抗していたスペイン北部バスク地方に対し、フランコは見せしめのためヒトラーに爆撃を要請した。選ばれた町の名は“ゲルニカ”。この人口5千人の小さな町はドイツ空軍機の大空襲を受け壊滅した。爆撃と機銃掃射は逃げ惑う市民に向けられ、史上初の無差別攻撃となった。ゲルニカの火災は3日間続いたという。
独伊空軍の1300機に対し共和国側には中古の飛行機100機しかなく、徐々に戦線は後退し始め、エブロ河の戦いでは共和国軍10万人のうち生き残ったのは3万人しかいなかった。
カザルスは演奏活動を中断し、全世界へラジオで訴える。「スペインを見殺しにしないで下さい!スペインで独裁者の勝利を許せば、今度はあなた方自身が彼らファシストのいけにえになるでしょう!」。だが、近隣の英仏両政府はドイツとの衝突を恐れ中立政策をとった。この選択が大きな誤りであることを歴史が示している。世界はこの後、第2次世界大戦へ雪崩れ込んだのだ。ヒトラーいわく「スペイン内戦は我が独軍の最新兵器の実験場に最適だった」。

1939年(62歳)、内戦開始から3年。最後までもちこたえていた東部バルセロナ、首都マドリードが相次いで陥落し、共和国政府は敗北した。約100万人の生命を奪い、60万人が難民と化し、人民戦線20万人が処刑されるという膨大な犠牲を払って内乱は終結した。スペインには軍事独裁政権が誕生し、フランコは憲法を廃止すると共に自らを終身国家元首に任じて総統となり、支持基盤の国民運動党以外の党をすべて非合法化し解体、カタルーニャ語の使用を禁じた。カザルスはフランコ軍のバルセロナ侵攻直前に脱出し、ファシスト政府を嫌ってフランスに亡命、スペイン国境に近いピレネー山脈の寒村プラド(旧カタルーニャ領)に身を寄せた。そして60万人の難民同胞の為に、演奏活動で得た財産を投げ打ち、各国に救援声明を出して難民救済に奔走する。だが、世界は同年秋のドイツ軍ポーランド侵攻から世界大戦へ突入し、スペインを気にかける余裕がなくなった。
1942年(65歳)、平和への祈りを込めてカタロニア民謡『鳥の歌』をチェロ独奏用に編曲。1944年に『鳥の歌』をBBC放送にて初演。
1945年(68歳)、5月にドイツが降伏し、欧州における第2次世界大戦が終結。カザルスは歓喜し、翌月からロンドンで演奏活動を再開した。ところが、カザルスの戦いは世界大戦の終戦と共に終わらなかった。ヒトラーやムッソリーニが死んでいく中で、フランコだけは戦後も独裁者として居座り、諸外国もこれに協調したのだ。各国は内戦で疲弊したスペインが第2次大戦で中立を守ったことを評価した。カザルスはフランコの横暴にほぼ孤軍無援で戦い続け、各新聞に「なぜ、フランコは政権を続けるのか」と抗議広告を出した。
そして11月、“演奏活動停止"を全世界に宣言した。「私が持っている武器はチェロだけだ。だから、フランコと協調する国では、もう演奏はしない。(どの国も容認しているので)私はもう…演奏はやめた」。音楽家としての栄光を捨て、最も愛している自身の芸術を封印してしまった。芸術家にとって自らの表現手段を封印すること以上に苦しいものはない。カザルスはプラド村に2度目の亡命を行った。同年、ケンブリッジ大学とオックスフォード大からの名誉博士号を固辞。

1946年(69歳)、毎月のように各国から高額なギャラを示したコンサートの依頼書が届くがカザルスはすべて無視する。「フランコ政権を認めるという大きな過ちを犯している国々に、私はのこのこと出掛けて行くことなど出来ない」。
カザルスの演奏の素晴らしさを知っている1歳年上の哲学者アルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965)はこう助言する。「あなたは抵抗よりも音楽的な創造をもっとするべきです」。カザルスの返事は「創造し、抵抗する。両方ではいけませんか。抵抗は、時には最も難しく、最も必要とされる創造行為です」。カザルスを尊敬する何人ものチェリストがプラドを訪れレッスンを受けた。
1949年(72歳)、米国に続いてソ連が原爆を開発。カザルスが伝えてきた音楽や人間に対する深い愛情、暴力や不正への抗議をあざ笑うかのように、世界は大量破壊兵器の開発競争に入っていく。
1950年(73歳)、バッハ没後200年。音楽家たちはカザルスをプラド村から引っ張り出すのは無理でも、カザルスのところへ音楽家が集まれば演奏会は可能と考え、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダー(家族がアウシュビッツで死んでいる)の説得によってカザルスを音楽監督とする『バッハ記念音楽祭〜プラド音楽祭』が開催される。カザルスが出した条件は「プラドから一歩も出ないこと」「収益はすべて病院に寄付すること」の2点。同音楽祭は2年後にパブロ・カザルス音楽祭と改称された。時代を代表する音楽家、アイザック・スターン、ルドルフ・ゼルキン、ヨーゼフ・シゲティらが音楽祭に出演した。
1951年(74歳)、カリブ海のプエルトリコ出身で、チェロをニューヨークで学ぶ14歳のマルタ(マルティータ)・モンタニュス(1936-)が、プラド音楽祭でカザルスに弟子入りを志願した。彼女がまだ若すぎることから、「弟子入りは学校を卒業してから」と回答。
1952年(75歳)、米国が史上初の水爆実験を実行。この水爆「マイク」は、原爆を起爆装置にして水爆を爆発させるという究極の兵器であり、その威力は広島型原爆の250倍(10.4メガトン)に達した。実験場所となったマーシャル諸島のエルゲラップ島は粉々に吹き飛んで世界から消滅し、直径2キロのクレーターが残った。

1953年(76歳)、カザルス三重奏団の元メンバーで、20世紀前半を代表するフランスのバイオリニスト、ジャック・ティボーが来日途中に飛行機事故によりアルプス山中で他界。享年72。
※ティボーはパリ音楽院を首席で卒業。1903年、カーネギー・ホールでニューヨーク・デビュー。1905年、コルトー、カザルスとともにトリオを結成。30年間トリオでの活動を続けた。1943年、女性ピアニストのマルグリット・ロンと共に若手音楽家の登竜門ロン=ティボー国際音楽コンクールを創設。
1954年(77歳)、18歳になり学業を終えたマルティータが再びプラドを訪れ、改めて弟子入りを志願、今度はカザルスも許可した。マルティータはプエルトリコの首都で開催されたチェロ・コンテストで千ドルの賞金を獲得した実力者で、その演奏技術にカザルスは驚いた。マルティータは仏語や英語にも長け、次第に秘書も務めるようになる。
1956年(79歳)、亡き母ピラールと愛弟子マルティータの故郷であるプエルトリコを訪問。この時、母が生まれた家で60年後に生まれたのがマルティータの母で、しかも両者は誕生日まで同じであることが判明する。奇跡のような偶然にカザルスとマルティータは運命的なものを感じ、深く心が結びついていく。
1957年(80歳)、プエルトリコの首都サンフアンに移住し、8月3日にマルティータと結婚。カザルスは80歳、彼女は20歳であり、60歳差婚だった。そしてプエルトリコを活動拠点とし、当地で毎年「カザルス音楽祭」を開催していく。同年、日本人チェリストの平井丈一郎が師事、後に一番弟子となる。

1958年(81歳)、シュバイツァー博士と米ソに核実験禁止を訴える共同声明を発表。この年コルトーと四半世紀ぶりに和解し、コルトーの引退コンサートでベートーヴェンの『チェロソナタ第3番』を一緒に演奏した。
1959年(82歳)、先妻のスーザン・メトカーフが他界。享年81。
1960年(83歳)、自作カンタータ『エル・ペセーブレ(まぐさ桶)』を初演。以降、各地で同曲を33回指揮。『鳥の歌』初演。
1961年(84歳)、10月30日、ソ連が史上最強の水爆「ツァーリ・ボンバ」の核実験を敢行。その核出力は広島型原爆(15キロトン)の3300倍となる50メガトンに達し、爆発時の衝撃波が地球を3周した。11月、ケネディ大統領の招待でホワイトハウスにて『鳥の歌』を演奏。同年、一番弟子の日本人チェリスト・平井丈一朗(たけいちろう)のため来日し、東京や京都で指揮、公開レッスンを行う。日本はスペイン独裁政権を容認したため、信念に従いチェロは演奏せず。
※平井丈一朗の父で作曲家の平井康三郎は童謡『とんぼのめがね』で有名。
1962年(85歳)、キューバ危機が起き、世界大戦の一歩手前まで行く。同年、アルフレッド・コルトーがスイスのローザンヌで他界。享年84。
※コルトーはパリ音楽院でショパン最後の弟子に師事。音楽院を首席で卒業後、ワーグナーに心酔し、1902年に『ニーベルングの指環』の「神々の黄昏」のパリ初演を指揮。カザルス三重奏団で1930年代半ばまで活動。ショパン演奏の大家となる。
1963年(86歳)、カザルスが軍縮派として大きな信頼を寄せていたケネディ大統領が暗殺され、米国はベトナム戦争の泥沼へ陥ってゆく。
1968年(91歳)、人種差別と非暴力で戦っていたキング牧師が暗殺される。
1971年(94歳)、「国連の日」である10月24日にニューヨーク国連本部に招かれ、国連平和賞が授与される。国連会議場にて約30年ぶりに海外でチェロを演奏し、アンコールにカタルーニャ民謡『鳥の歌』を奏でた。『鳥の歌』の演奏に先立ち、カザルスはこうスピーチした−−
「今日は人生において最も輝きに満ちた日です。もう何年もの間、私は皆さんの前でチェロを奏でませんでした。しかし、今日はカタルーニャの短い民謡を1曲演奏します。この曲は『鳥の歌』と呼ばれています。空の鳥…宇宙の鳥は、ピース(平和)!ピース!ピース!と歌います。この曲はバッハやベートーベンなどの偉大な音楽家たちもきっと愛したでしょう。美しい曲です。それに私の祖国カタルーニャの魂なのです」。

カザルスは国連訪問に際し、以下の声明文を発表した。「なぜ私が今日ここに来たのか。それはこの長い年月、私が自分自身に課してきた制限や道徳感に変化があったからではありません。今日、人類すべてを脅かしている巨大な恐るべき危機に比べれば、他の全てのことは二の次だと思ったからです。誤ったナショナリズム、他のものを一切認めない狂信、自由の欠如と不正さは、不信感と嫌悪感を増大させ、集団的な危険を日々増大させています。さらに、核兵器による世界の不安も日々増しています。これらの解決の為には、全ての人々によって戦争の無益さと非人道性を基盤とした対話がなされなければなりません」。
1973年10月22日、カザルスは心臓発作によりプエルトリコで永眠。96歳まで生きたが、存命中に独裁者フランコは倒れなかった。彼は遺書にこう記した。「私の遺体はフランコが倒れ自由が祖国に戻ったとき、カタロニアに運んで欲しい」。カザルス音楽祭はマルティータが実行委員会の総裁に就き、1979年まで音楽監督を務め現在も開催されている。
1975年、他界の2年後、マルティータ(39歳)はユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。ユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。20世紀を代表する米国のピアニスト、ユージン・イストミン(1925-2003/50歳)と再婚。同年、フランコ総統が死去し、スペインは民主主義国家として再生の道を歩み始め、1978年にカタルーニャ自治州が発足、自治権が戻った。
1979年11月10日、カザルスの遺体は故郷・バンドレイに帰還し、『鳥の歌』の演奏が流れるなかチェロをモチーフにした墓石のもとに埋葬された。
2003年、ユージン・イストミンが他界し、カザルスと同じアル・・バンドレイの墓地に白亜のモダンな墓が造られた。マルティータがどちらの夫の墓に入るのかは分からない。
2007年、カザルスとマルティータが暮らしたニューヨークのアパートに残された文書類(ケネディやユーディ・メニューインらとの書簡や自筆譜)が、「遺産はすべてカタルーニャに」という遺志に基づき没後34年ぶりに故郷に返還される。

カザルスから世界の子供たちへ「学校はいつになったら2プラス2は4とか、フランスの首都はパリとかではなく子供たち自身が何であるかを教えるのだろう。子供たちよ、君は驚異だ。二人といない存在だ。君はシェークスピアにもベートーベンにも、どんな人にもなれるのだ。だからこそ、君と同じ存在である他人を傷つけることなど出来ないのだ。敵対するものは殺すべしという掟がはびこる時代に生きなければならなかったことを私は悲しく思う。祖国への愛、それは自然なものである。では、なぜ国境を越えて他の国々の人々を愛してはいけないのか?私たち個々の人間は全てひとひらの木の葉に過ぎず、全人類が樹なのである」

「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」(フルトヴェングラー)
「カザルスが非常に偉大な芸術家であるということを、私が今さら宣言する必要はどこにもない。なぜならこの点に関しては、すでに世界の意見が一致しているからだ」(アインシュタイン)
「彼の演奏を聴いて深い印象を受けたが、それはまさに、彼が深みのある人間だからこそなのだ」(シュバイツァー)
「音楽家には道徳的責任がある」(カザルス)

【墓巡礼】
史上最高のチェロ奏者、人道主義者として大きな足跡をのこしたカザルス。
2000年11月20日、午後2時。僕はスペイン、カタロニア地方のバルセロナからRENFE(スペイン国鉄)の近郊線に乗り、列車が揺れるまま身をまかせていた。約60キロほど南西に進んだ先の「アル・・バンドレイ」という小さな町を目指して。そこに“スペインの良心”と言われた音楽家、パブロ・カザルスの墓があるからだ。
彼の墓が生まれ故郷のアル・・バンドレイにある、それだけは日本を出る前に事前調査で分かったが、田舎町ゆえ地図を眺めてもスペインのどこにアル・・バンドレイがあるのか不明だった。バルセロナに入ったその朝、さっそく観光局を訪れ場所を尋ねてみた。オードリーに似たその可憐な職員は、「・バンドレイはけっこう近いの。ここから列車で1時間ほどのところよ」と、ヒマワリのようなスマイルで答えてくれた!
“そんな近くに眠っているのか!”。墓マイラーとしての長年の経験上、正確な場所を知らずにその国を訪れ、いきなり“1時間ほどの距離”だと言われる確率は限りなくゼロに近い。約1時間、これは奇跡に等しかった。僕はすぐさま地下鉄に乗って、バルセロナの国内列車のメインゲート、国鉄サンツ駅に向かった。
バルセロナは大都市だがあまり英語は通じず、切符を買うのも一仕事。巨大なサンツ駅で勝手が分からず目が泳いでいると、いろんな人が声をかけ助けてくれた。僕はそこであらためてカザルスの偉大さを思い知った。つたないスペイン語で懸命に説明しなくても、少しチェロを弾くジェスチャーをするだけで「オーッ、・バンドレイのカザルスだな」と相手に通じてしまうのだ!カザルスが動作に特徴のあるチェロ奏者で良かった。作家や科学者だとジェスチャー難易度Dだもの。

電車は1時間に1本。無事に切符はゲットできたが、そこから時刻表があってないようなスペイン国鉄とのバトルが始まった。14時7分発と教えられたが、その時刻に列車は入ってこず、2分後に入って来た列車は違う行き先だった。同じホームに様々な行き先の列車が到着するのでボーッとしているわけにはいかない。列車が入って来る度に運転席のドアをアグレッシブに叩きまくり、ノートに大きく・バンドレイと書いてホームから見せ、マルかバツかをジェスチャーしてもらった。3本目にやっと運転手にマルをしてもらい、額の汗を拭いて乗車した。
“もし乗り過ごしてしまったらどうしよう…”乗ったはいいが、新たな不安が僕を包んだ。スペイン語の車内放送は早口でさっぱり分からないし、車内にある路線図はバルセロナのすぐ近くまでしか載っておらず、・バンドレイまであと何駅あるのか見当もつかない。1時間ほどで着くと聞いていたので、50分が過ぎた頃からハラハラドキドキ、停まる度に必死の形相で駅名をチェックした。そしてこの作業は列車が遅れたため40分続いた…。無事に・バンドレイの駅に降り立った時は、しばらくヘナってしまった。しかし、余裕をこいてる時間はない。時計は15時半を指しており、すぐに墓地探しに移らねばならなかった。11月下旬の冬期なので、墓地の門が17時に、否、ヘタをすると16時に閉まる可能性があった。幸い、駅に小さな観光カウンターがあったので、係の男性に墓地の方向を質問。英語は通じなかったがここでもチェロを弾くジェスチャーがきいた。まだ学生に見えるその若い担当者は、墓地までの略図を書き、歩いて15分ほどと教えてくれた。
“あと15分後に、夢にまで見たあのカザルスに会える!”外に飛び出た僕は、地図を片手に駆け出した。途中、5人の前でチェロを“弾き"、さらに走り続けると、とうとう畑のド真ン中に白壁で囲まれた墓地が見えて来た!“もうすぐ、もうすぐだ!”いやがうえにも興奮は高まる。スピードはマッハを超えた。門をくぐり速攻で探知活動に突入。墓地内は意外と広かったけど、墓レーダーをイッキに臨界点までフル稼働させ、風を読み、耳を澄ませ、心眼でカザルスの墓を探した。そして多数の墓からわずか3分強で墓石を探し出し、その瞬間、自分がニュータイプだと確信した!…というのは大袈裟で、きっと人々に慕われていたから正門付近だろうと見込んで向かったら、本当に入ってすぐの所に彼は眠っていた。しかも、墓石はチェロの形をモチーフにしていたので、遠目にも簡単に分かった。僕はすぐさま石棺に覆い被さり、全身でカザルスに会えた喜びを伝えた。

2014年に再巡礼。この時は5歳の息子と墓参。バルセロナからアル・・バンドレイまで駅の数は16個あり、子どもがひとつひとつ駅を数えてくれたので、14年前のように駅に着く度に不安げに駅名を確認することはなかった。

※故郷アル・・バンドレイの生家は見学可能。カザルスが最初に手にした楽器であり父が幼いカザルスのためにヒョウタンをくり抜いた一弦チェロや、教会オルガン奏者だった父親が音楽の手ほどきをしたピアノ、木製のゆりかごなどを展示。
※生家近くのノヴァ広場の噴水に演奏するカザルス像がある
※アル・・バンドレイの海岸沿い(サン・サルバドール)に、避暑地として過ごした別荘が「パウ・カザルス記念館」として公開。17コーナーに手紙や平和活動を称えられたメダルなどを展示。
※生家のすぐ近くに父親がオルガン奏者を務めたサンティシム・サルバドール教会が建っている。時々、カザルスも代理で演奏したとのこと。
※プエルトリコの首都サンファンの晩年の家はカザルスの記念館になっている。チェロ、愛用のパイプ、肖像画などを展示。入場無料。
※カザルスはイタリアの楽器製作者マッテオ・ゴフリラー(1659-1742)が晩年の1733年に製作したチェロを愛用。ストラディヴァリウスについては「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」とのこと。
※現代のカザルスと評されるチェロ奏者オンツァイ・チャバもゴフリラーを愛用。



★グレン・グールド/Glenn Gould 1932.9.25-1982.10.4 (カナダ、トロント 50歳)2000&09 ピアニスト
Mount Pleasant Cemetery, Toronto, Ontario, Canada Plot: Section 38, No. 1050/375 Mount Pleasant Rd







背後がグールド家の墓、
手前はグレン単独の墓
グールドが眠るカナダの墓地は公園に近い。
サイクリングやジョギングをする人がいっぱい
THEIR DEARLY LOVED SON
「愛する息子グレン・グールド」とあった


2000 2009
墓に彫られていた楽譜、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』は子守歌。
グールドは安らかに眠っていることだろう

1歳のグールド。かわいい! 少年グールド。犬と仲良く連弾

  

23歳で衝撃のレコード・デビュー!グールドの手ですべてのクラシックが新曲に

天衣無縫のピアニスト、グレン・グールド!彼がピアノに向かうとあらゆるクラシックの古典が新曲になった。グールドは僕のヒーローであり、No.1愛聴ピアニストだ。その愛すべき人柄や数々の「伝説」を、生涯と共に紹介しよう!

グールドは1932年9月25日にカナダ・トロントで生まれた。父は毛皮商、声楽家の母方の遠縁には作曲家グリーグがいる。3歳から母にピアノの手ほどきを受け、1940年にわずか7歳でトロント王立音楽院に合格した。音楽理論を学びめきめきと演奏技術が上達し、12歳でトロントのピアノ・コンクールに優勝する。
1946年(14歳)、トロントでベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第4番(第一楽章)』を演奏してコンサート・デビューし、同年秋にトロント王立音楽院を創立以来最年少となる14歳で卒業、しかも成績は最優秀だった。翌年、初の個人リサイタルを行う。
1955年(23歳)、1月ワシントンDCの公演でアメリカ・デビューを果たし、ワシントン・ポスト誌は「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と絶賛。同月のニューヨーク公演で米国CBSを唸らせ、同社と終身録音契約を締結。ファースト・アルバムとして、アリアと30の変奏で構成されるバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を録音した。
翌1956年(24歳)、『ゴルトベルク変奏曲』が発売されると、従来のバッハ作品のストイックなイメージを覆す、弾けるように躍動感あふれる演奏が大センセーションを巻き起こす。タイム誌は「風のような速さの中に歓喜を感じる」と評し、アルバムはルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得、世界的に注目を集め、同年のクラシック・レコードの売上ベストワンを記録した。保守的な批評家はグールド独自のバッハ解釈を糾弾したが、彼は時代の寵児となった。
同年、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ『第32番』を収録。
※1955年版バッハ『ゴルトベルク変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=GH-AVPVdYuM
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第32番』第2楽章 https://www.youtube.com/watch?v=UMYHKFU7-2M
1957年(25歳)、グールドは初の欧州演奏旅行に出発。時代は冷戦まっただ中であり、北米の音楽家として戦後初めてソビエト連邦で公演を行った。この公演はクチコミで満席になり「バッハの再来」と讃えられ、東欧圏を含めてさらに名声が高まった。ドイツではカラヤン指揮ベルリン・フィルとベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』を共演する。同年、バーンスタイン指揮コロンビア交響楽団とベートーヴェン『ピアノ協奏曲第2番』共演。
1959年(27歳)、ザルツブルク音楽祭に出演。北米大陸出身のピアニストが、保守的なドイツ、オーストリアの楽壇で喝采を浴びたことは画期的だった。同年、バッハ『イタリア協奏曲』を収録。
※『イタリア協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=qfq0PdbQtPY
1960年(28歳)、名盤として知られるブラームス『間奏曲集』を収録。同年、作曲に挑戦し『弦楽四重奏曲Op.1』を書く。
※ブラームス『間奏曲集』 https://www.youtube.com/watch?v=Az9c8Skylhk
※『弦楽四重奏曲Op.1』冒頭  https://www.youtube.com/watch?v=8nsNEhNWGlQ
1961年(29歳)、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルとベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』共演。
1962年(30歳)、ライブでブラームス『ピアノ協奏曲第1番』をバーンスタインと共演し、自分のテンポを貫く。指揮者の指示に従わないグールドにバーンスタインは閉口する。
1963年(31歳)、歌曲『じゃあ、フーガを書きたいの?』を作曲。

●32歳で演奏会を中止

1964年、32歳のときに人気の絶頂で突然コンサート活動の中止を宣言し、3月28日のシカゴ公演を最後に聴衆の前から姿を消してしまう。それまで世界各地で計253回の演奏会をこなし、世界的ピアニストとして引っ張りだこだったグールドのコンサート引退表明は、衝撃となって世界を駆け巡った。グールドには「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」という神経質な性格もあったが、最大の理由は音楽家としてのポジティブな向上心にあった。

グールドいわく「聴衆の中には、ピアニストがいつ失敗するだろうかと手ぐすね引いて待っている連中がいる。彼らはローマ時代に闘技場に集まった群集や、サーカスの綱渡り芸人が足を踏み外すのを心待ちにする観衆と同じだ。その結果、演奏家は失敗を恐れるあまり、いつもコンサート用の十八番のレパートリーを演奏することになる。すっかり保守的になって、もしベートーヴェンの(ピアノ協奏曲)3番が得意曲だったら、4番を試してみるのが怖くなるというように」「レコーディングによってコンサートの地獄のストレスから演奏家は解放される。演奏会の為に同じ曲ばかり練習するのではなく、新しい楽曲にどんどん挑戦してゆけるし、失敗を恐れずにありとあらゆる解釈を試せる」。
以後、グールドはレコードスタジオ、ラジオ、テレビなど観客のいない場所で録音専門のピアニストとなって自己の芸術を高めていく。同年、トロント大学法学部より名誉博士号を授与。

1965年(33歳)、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を3年がかりで収録完了。夏場にホッキョクグマが暮らすカナダ北部チャーチルへ旅行する。
1966年(34歳)、ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団とベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』を収録。同年、米国人作曲家ルーカス・フォスの妻で、グールドの1歳年上の画家コルネリア・ブレンデル=フォス(1931年生/当時35歳)と恋に落ち、二児の母であるコルネリアに結婚を申し込んだ。彼女の気持ちも大きく傾いていく。
1967年(35歳)、コルネリアが2人の子を連れトロントに転居してくる。グールドは喜び2人は愛を育んだが、コルネリアはグールドを襲った神経症の発作に動揺する。病院での治療を勧めたが、グールドは自分が病人であると認めず、コルネリアは子どもたちのことを考えてプロポーズを断り、週末はカナダ国境の近くに住んでいる夫の元へ子どもを会わせる生活が始まる(車で1時間半の距離だった)。
同年、カナダ放送協会(CBC)がグールド製作のラジオドキュメンタリー「北の理念(The Idea of North)」を放送。その後も“孤独三部作”となる「遅れてきた者たち」「大地の静かな人々」が放送された。この年、ベートーヴェン『月光ソナタ』を収録(情感もヘッタクレもない超高速月光)。
1970年(38歳)、モーツァルト『ピアノ・ソナタ第11番 トルコ行進曲』を収録、演奏の遅さが話題となる。
※モーツァルト『トルコ行進曲』終楽章 https://www.youtube.com/watch?v=ZYUi8S61eAc

1971年(39歳)、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第1巻』を5年がかりで収録完了。
1972年(40歳)、カート・ヴォネガットのSF小説を映画化した『スローターハウス5』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)の音楽を監修、本作はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。同年、5年間続いていたグールドとコルネリアの蜜月は終わる。コルネリアの夫が仕事でニューヨークに転居し、従来のように子どもたちを週末に会わせることが出来なくなったことから、彼女はグールドに心惹かれながらも夫の元へ帰った。グールドは諦めることができず、ニューヨークまで追っかけてトロントに戻るよう懇願した。死後に見つかったグールドの手紙には「それでも世界の誰よりも好きで、一緒に時間を過ごすだけで天国にいる気分になった」と書かれていた。グールドは別れた後も2年間毎晩のように彼女に電話をかけ、やがて彼女に説得されて電話をやめたという。
1973年(41歳)、優雅なバッハ『フランス組曲』(全6曲)収録完了。 https://www.youtube.com/watch?v=JJMl9FdffYs
1976年(44歳)、演奏技術を要求されるバッハ『イギリス組曲』(全6曲)を5年がかりで収録完了。
https://www.youtube.com/watch?v=UueQWNjv7_k&list=PLyrS5_ErY3KSZ4dIdMFA7cvJqPqdAn0kC
1977年(45歳)、地球外知的生命体への人類からの“挨拶”として、惑星探査機ボイジャー1号&2号にグールド演奏のバッハ『平均律第2巻前奏曲とフーガ・第1番ハ長調』のレコードが針と一緒に積み込まれ、打ち上げられた。
※グールドの『平均律第2巻第1番』。なんでNASAは有名な第1巻・第1番にしなかったんだろう? https://www.youtube.com/watch?v=7c_uorJ9f7o
1981年(49歳)、レコードデビュー以来26年ぶりにバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を再録音する。グールドはデビュー・アルバムが過大評価されすぎと感じていた。同年、ラジオで夏目漱石『草枕』の第1章を朗読。グールドは漱石の『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を20世紀の最高傑作小説に選んでおり、『草枕』は異なる訳者のものを4冊も持っていた。
※1981年版バッハ『ゴルトベルク変奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=NvtoaHaG6ao

●突然の死

1982年、1月にブラームス『2つのラプソディー』、2月にブラームス『4つのバラード』、9月初頭にリヒャルト・シュトラウス『ピアノ・ソナタOp.5』を収録。これが最後のピアノ録音となった。
※ブラームス『4つのバラード』 https://www.youtube.com/watch?v=gECYL1-BEmc
※リヒャルト・シュトラウス『ピアノ・ソナタOp.5』 https://www.youtube.com/watch?v=xemgqKGl9VE

9月8日、トロント交響楽団を指揮しワーグナー『ジークリート牧歌』を演奏。意図せず音楽家人生の最後を指揮者として締めくくることになった。9月27日、激しい頭痛に襲われた後に脳卒中で倒れ、トロント総合病院へ搬送される。1週間後の10月4日、脳に損傷が見られ父親は生命維持装置を外すことを決断した。享年50。一説にはアスペルガー症候群の治療薬の飲みすぎで脳卒中になったとも。最晩年、その枕もとには書き込みだらけの夏目漱石『草枕』と聖書があった。10月15日にセント・ポール英国国教会で葬儀が行われ3千人以上が参列する。
生涯独身で愛犬バンコーと暮らしていたことから、遺産の半分をトロント動物保護協会に、残りの半分を救世軍に遺贈した。後世に残した最後の映像記録は、奇しくもデビュー・アルバムと同じ『ゴールドベルク変奏曲』だった。没後、カナダでグレン・グールド賞が創設され、メニューインや武満徹が受賞した。

●重度の潔癖症

ゴッホ、ベートーヴェン、ダリ、平賀源内…昔から天才と変人は紙一重と言われてきた。グールドも間違いなくその一人。彼が奇人と呼ばれたのは、まず独自の風貌にある。極度の寒がり屋で、夏でも厚い上着の下に分厚いセーターを着込み、ヨレヨレのコート、マフラー、毛皮の帽子を身につけていた(大抵は黒一色)。ズボンはだぶだぶ。常に厚い手袋をはめていたが、手袋の理由は防寒だけではない。グールドいわく「もしもの時の防衛用」。異常なまでに潔癖症(細菌恐怖症)の彼は他人との接触を極端に嫌い、握手さえ「万全を期して」避けていた。電話の向こうで咳が聞こえ「風邪がうつる」ので切ったという話まで残っており、それが冗談と思えないところがグールドならでは。また、いつも大瓶のポーランド産ミネラルウォーターと大量のビタミン剤(5瓶分)を持ち歩き、周囲から大丈夫と言われても絶対に水道水を飲まなかった(ロシア公演では晩餐会への出席を拒否!)。非常に少食で1日に1回のみ、普段は少量のビスケットとフルーツジュース、サプリメント(ビタミン剤、抗生物質)しか取らなかったという。深夜3時のレストランで毎回同じ席で同じものを食べていた。

  グールドといえばこの服装 1974年・トロントにて(42歳)


●ピアノが歌い、椅子が歌い、グールドも歌う

演奏スタイルも奇抜だった。演奏前に洗面所にこもり、両手をお湯に半時間浸して温めた後、彼がステージで腰掛けるのは有名な『グールド専用椅子』。彼は父親が作った床上35.6cmの極端に足の短い特製折り畳み椅子をいつも持ち歩き、この専用椅子でなければ演奏を拒否した。時々録音にキーキー音が入ってるのはこの椅子の“歌”だ。そして、椅子が異常に低い為に、彼が座ると胸の高さに鍵盤がくる。手首は鍵盤の「下」だ。演奏時は物凄く猫背になり、今にも鼻が鍵盤にくっつきそう。口の悪い批評家はその特異なスタイルを指して「猿がオモチャのピアノを叩いているようだ」と冷やかした。彼は音楽に没入すると体を揺らしながら演奏するが、その揺れは曲のリズムと合っていない。

  鍵盤が目と鼻の先!長身なのに子どものよう(50歳)






リハ中にオケをほったらかしにして30分も高さを調節し、
指揮者セルを激怒させたことも。
グールドはタイム誌が掲載した当エピソードを否定して
いるが、椅子の高さを調整したことは認めている。
体感時間の問題であり、セル本人が証言していること
からも、これに近い出来事はあったと思う。

グールドは和声よりも対位法を重視したことから、ペダルをほとんど踏まず、音楽の構造美を表現した。それゆえショパンではなくバッハのカノンやフーガを熱愛し、単色の音色とリズムを強調して対位法を際立たせるため、スタインウェイ製ピアノを改造しタッチを軽くしていた。“ペダル無用”とこれ見よがしに足を組んで演奏することもあった。

極めつけは、演奏しながらのハミング!グールドのCDにはこんな注意書きが書かれている。『グールド自身の歌声など一部ノイズがございます。御了承下さい』。ピアノの音色と共に、朗々と歌い上げるグールド。彼の唸り声や鼻歌に、録音の技術スタッフが怒って「楽譜に歌のパートはないぞ!」と指摘すると、「感情を抑えて、黙りこくって演奏なんか出来ない!」と逆ギレ。イジワルなインタビュアーに「演奏しながらなぜ歌うんですか?」と聞かれた時は、「あなたは私のピアノを聞いていないのか?」と逆にやりこめた。

  歌いまくりのグールド

動画〜グールドの鼻歌(3分)。途中で立ち上がり最後は演奏大爆発!(バッハ/パルティータ2番)

●指揮者よりエライのさ

幾多の指揮者を激怒させたのは、演奏中に片手があくと、その手で指揮を始める癖だった。個人リサイタルならともかく、オーケストラとの共演でも振り続けるので、「ステージに2人も指揮者はいらない」と指揮者の怒りを買った。帝王カラヤンは「君はピアノより指揮台がお似合いだ」と嫌味を言い、バーンスタインは「もうやってられない」とベートーベンのピアノ協奏曲全集の録音を途中でボイコットした。評論家にも指揮癖を非難されたグールドは一言、「手を縛って演奏することは不可能だ」。

  スタジオ録音でもやっぱり“指揮”している

バーンスタインは情熱家肌であり、その分グールド絡みの逸話も多い。駆け出しのグールドをバーンスタインがNYフィルに招いた時のこと。20代半ばのグールドはカーネギーホールへ出番2分前に着く大物ぶりを見せ、セーターのまま舞台に出ようとするのでバーンスタインは必死で阻止したという。最も有名なのは1962年にブラームス・ピアノ協奏曲第1番で組んだ時の「ライヴ弁明事件」。当時バーンスタイン44歳、グールド30歳。本番直前までバーンスタインのテンポにグールドが従わなかったことから、演奏前にバーンスタインが客席に向かって「今から始まる演奏のスピードは私の本意ではない。ここから先はグールド氏の責任だ」と、前代未聞の敗北宣言をしたのだ。頑固なグールドに根負けし、指揮者が演奏者に合わせた形になった。後日のグールド「あのスピーチの時、僕は舞台裏で笑いをこらえるのに必死だった。無理を聞いてくれたバーンスタインに感謝した」。グールド、あんたすごいわ。







練習中に火花を散らすバーンスタインとグールド。
バーンスタインはグールドの音楽論に一目置いていて
「グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮で
間違いがない」とも言っている

「グールドはバッハの最も偉大な演奏者である」(スヴャトスラフ・リヒテル)
「グールドは私にとって永遠のアイドルだ」(ウラディーミル・アシュケナージ)
「グールドより美しいものを見たことがない」(レナード・バーンスタイン)
「結局、彼は正しかった」(ユーディ・メニューイン)
「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」(グールド)
「私はピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」(グールド)

※ショパンを弾かないピアニストも珍しい。グールドはショパンを「感情過多」と軽蔑し、たった1曲(ピアノ・ソナタ第3番)しか演奏しなかった。彼に言わせるとモーツァルトも装飾性を「グロテスク」と断罪、さらに「死ぬのが遅すぎたのだ」とも。グールドはモーツァルトが指定した装飾記号を無視するなど、悪いところを「直してあげて」弾いたという。グールドが意図的に反復記号を無視するため、そこは彼の才能を認めるリヒテル他からも批判された。
ショパン『ピアノ・ソナタ第3番』 https://www.youtube.com/watch?v=arfYFtc7hlw
※前期ロマン派の正規録音作品はジュリアード弦楽四重奏団とのシューマン『ピアノ四重奏曲op.47』のみ。
シューマン『ピアノ四重奏曲op.47』 https://www.youtube.com/watch?v=koEho0UBI0g
※愛用のピアノは1945年製スタインウェイを改造したもの。晩年はヤマハの音も好み、最後のゴルトベルクの収録はヤマハで行った。
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第17番 テンペスト』貴重な動画 https://www.youtube.com/watch?v=J4DxTCT0R8c
※ベートーヴェン『創作主題による32の変奏曲』貴重な動画 https://www.youtube.com/watch?v=bVrUaiL2gz8
※ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第28番』の第1楽章を「ベートーヴェンの作品で1番好きである」と述べている。だが正規の録音はない。
※自宅の郵便受けをファンにドライバーで壊されかけたことがあり、グールドは日頃から「誰かに見張られている」と恐れていた。
※グールドは日本映画『砂の女』(勅使河原宏監督)を100回以上見たという。
※グラミー賞を4度受賞。
※グールドとフォス夫人コルネリアの関係はリンク先が非常に詳しい

●墓巡礼〜グールドに逢いたくて

2000年7月、僕はグールドからもらった沢山の感動の御礼を伝える為に、彼が眠るカナダ・トロントに向った。当時は本格的にネットが普及する前で、分かったのは「トロントに墓がある」ことだけで、墓地の場所も名前も分からなかった。だが、グールドといえば国民的音楽家であり、トロントにさえ行けば容易に墓前にたどり着けると予想していた。ニューヨークでガーシュウィンやバーンスタインの墓参を終えた後、マンハッタンの長距離バスターミナルから深夜便に乗車。予定では早朝にカナダとの国境にあるナイアガラの滝を見学する計画だったけど、運転手さんの「間もなくトロント、間もなくトロント」のアナウンスで飛び起きた。あれ?ナイアガラは?うわっ、寝過ごしたか!っていうか、国境でパスポート見せてませんが!?現在はチェックが少し入るらしいけど、2000年の時点ではそれくらいユルユルだった。あまりに多くの人が日常的に国境を行き来するため、パスポートにスタンプを押すとアッという間にページが埋まるため、今でもスタンプは押さないとのこと。
トロントはカナダ南東部オンタリオ州の州都で、280万人が暮らすカナダ最大の他民族国際都市。“トロント”は先住民の言葉で「人の集まる場所」。バス停のあるダウンタウンは市庁舎やトロント大学、多くの商業ビルが建ち並び賑やかだ。ランドマークは高さ553mのCNタワー。
時計は朝8時。とにもかくにも、グールドの墓地の名前を調べるためにダウンタウンの観光案内所に向かった。到着すると若い男女のスタッフが2人いたので、英語に自信がない僕はピアノを弾く真似をしながら「グレン・グールドさんのお墓はどこですか」と尋ねた。2人は顔を見合わせ「あなた聞いたことある?」「僕は知らない」。そして「トロントにお墓があるの?」と逆に質問された。え?えーっ!?まさかの展開だ。確かに亡くなって約20年、彼らはまだ幼稚園か小学生、ピンとこないのも無理はない…とはいえ、あのグールドですよ、あのグールド…。
僕は大通りに出てビル街で立ちすくんだ。まいった。情報が集まる観光案内所で何も手掛かりがないとなると、いったいどうすれば…。途方に暮れていると、視界に巨大CDショップ『HMV』の建物が目に入った。「HMVにはワンフロア丸ごとクラシック・コーナーがあるはず、何か手掛かりがあるかも」。藁をも掴む思いで入店し、エスカレーターでクラシック売り場へ。開店直後でお客さんはほとんどいない。レジには若い女性店員が1人。「あのう、グールドの墓がトロントにあると聞いたのですが、どこにあるかご存知ですか?」。女性店員は「グールドは私も好きだけど、墓は聞いたことないです」。ガーン、もう駄目だ。軽い目眩をおぼえレジカウンターに両手をついていると、左肩を背ろからポンポンと叩かれた。立っていたのは中年の男性店員。「お墓って聞こえたんだけど、グールドの墓だよね?フッフッフッ…私が教えてあげよう」。なんと!その店員は墓所を知っていた!そしてよく見ると、首からグールドのブロマイドを掛けているではないか!大ファンがここに!彼は「口で説明するより書いた方が早い」と地図を手書きしてくれ、一番近い地下鉄駅から墓地に最寄りのDavisville駅まで駅が何個あるとかお役立ち情報も書き込んでくれた。墓地の名前は「マウント・プレザント(Mount Pleasant)墓地」と判明した。現在はカナダ国定史跡とのこと。嗚呼、ありがとうございます!
















グールド・ファンの親切な店員さん!
胸元に“あのお方”のブロマイドが光る

それから1時間後、ダウンタウンの6km北にあるマウント・プレザント墓地にたどり着いた。そして、今度はその墓地の広大さに仰天した。墓地の端から端まで2.5kmあり、横断するだけで30分以上かかる。管理人さんいわく「20万人以上が埋葬されてます」「に、に、にじゅうまん?」。グールドの墓石は「section 38, row 1088, plot 1050」にあり、事務所でもらった墓地マップを片手に20分ほど探し回った。そしてついに夢にまで見た彼の墓前へ。グールドの墓にはピアノの形のレリーフと、彼の音楽芸術の代名詞とも言える『ゴルトベルク変奏曲』の楽譜(最初の3小節)が刻まれていた!頭の中で彼の音楽が流れ始め、胸がいっぱいになり膝をつく。両親の隣に埋葬され、両親からの「愛する息子グレン・グールド」との言葉もあった。『ゴルトベルク変奏曲』は子守歌とも伝えられてきた。墓石に刻む楽譜としてこれ以上相応しいものはない。この墓標の下で安らかに眠っていることだろう。ありがとう、グレン・グールド。

思わず耳を澄ませたくなる
(2000年7月、トロントにて)
素晴らしい音楽を有難うございましたッ!
(2009年7月)

※再巡礼の際、トロントのCBCラジオ・ビル前のベンチに設置されたグールドの座像を訪れた。等身大のグールドと同じベンチに座れるなんて、彫刻と分かっていてもテンション爆上げ。ひっきりなしに人が座ってはツーショットの記念写真を撮っていた。グールドは愛されてるね。

(参考文献:映画「グレン・グールド27歳の記憶」「グレン・グールドをめぐる32章」、エンカルタ総合大百科、ブリタニカ百科事典ほか)


●浅田彰氏によるまとめ〜グールドの5大特徴
(1)行儀の悪い座り方
(2)極端に低い椅子・高さ35cm
(3)弾きながら歌う
(4)曲のリズムと合わない体の揺れ
(5)自分の演奏への指揮

《市民の憩いの場〜グールド像百景》

トロントのCBCラジオ・ビル。
この前にグールドの座像が設置されている
厚着でコロンコロンの
有名なこの写真が→
こうなった!

トロント市民を見守るグールド





立ち止まって見つめるマダム 同じポージングで至福のショット 若い女性にモテモテのグールド



家族連れが男の子とグールドの記念写真をパシャリ この子、最初は帽子を触ってたけど… 「チーズ」で鼻に指を突っ込んでた!(笑)

※グールドの入門にはベスト盤CD『リトル・バッハ・ブック』が良い曲ばかりでおすすめ!(もち、本人の歌声入り)
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★レナード・バーンスタイン/Leonard Bernstein 1918.8.25-1990.10.14 (NY、ブルックリン 72歳)2000 指揮者
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, Kings County, New York, USA Plot: Section G, Lot 43642








ディズニー・ランドみたいな正面ゲート。非常に古い墓地だ この丘の上にレニーは眠っている

バーンスタイン家の墓域! 手前左がレニー、お隣はフェリシア夫人





米国人の墓、特にユダヤ人の墓には
小石を積むという風習がある (2000)
約10年ぶりに巡礼。石が周囲をグルリと囲んでいた。
ヒマワリの黄色が芝生の緑に映えていた (2009)
墓の側には長椅子がありゆっくり語り合える

20世紀を代表するアメリカの指揮者で作曲家・ピアニスト。愛称レニー。ライバルのカラヤンと共に20世紀後半のクラシック音楽界をリードした。1918年8月25日、マサチューセッツ州ローレンスに3人兄弟の長男として生まれた。両親はロシアから米国に移住したユダヤ人で父は理髪店を経営していた。子ども時代はラジオから流れる様々な音楽、ワルツ、ジャズ、ポップス、クラシック、何でも夢中になって聴いた。
14歳の時、教会の慈善公演のチケットを父が貰ってきたので、初めてクラシックの演奏会を聴きにいった。その時の曲目がラヴェルのボレロ。「初めてのコンサートで、オーケストレーションのお手本のような曲を聴いたのです。稲妻に打たれ、どうしても音楽が、作曲がやりたくなった」(バーンスタイン)。
ハーバード大学で音楽を専攻して作曲を学び、卒業後にフィラデルフィアのカーティス音楽院に進み、作曲家ウォルター・ピストンに作曲を、ハンガリー出身の指揮者フリッツ・ライナーとロシア出身の指揮者クーセビツキーに指揮を師事した。
1937年(19歳)、ラヴェルのピアノ協奏曲のソリストとしてピアニスト・デビューを果たす。さらに作曲と指揮の才能が開花していく。
1942年(24歳)、ユダヤ教の影響を受けた『交響曲第1番 エレミア』を作曲し、ニューヨーク批評家賞を受賞。
1943年、25歳でニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者ロジンスキーの指名を受け副指揮者となる。そして運命の転機がいきなり訪れた。同年11月14日、ドイツ出身の大指揮者ブルーノ・ワルター(マーラーの直弟子)が体調を崩し、急遽代役として無名の新人だったバーンスタインが指揮をすることになった。曲目はシューマン『マンフレッド序曲』、リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』、ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー 第1幕前奏曲』など。リハーサルをする時間はない。そして本
番…結果は大成功!このライブはラジオで全米に生中継されたため、その情熱的な指揮が大評判となり、バーンスタインは一夜にしてスターとなった。当時のアメリカには米国生まれの指揮者がまだ少なく(他国からの移住者ばかり)、バーンスタインはアメリカ音楽界の期待を一身に集めた。

大戦後、プラハ、ロンドン、ウィーン、ブダペスト、パリなど欧州各地で客演し、好評を得たことから、レニーは驚きを手紙に綴った。「30歳にも満たないユダヤ人という不利な条件にもかかわらず慕われているようです」「ブダペストがこんなに沸いたのはトスカニーニ以来だそうです」。イタリアでは「もう一人のレオナルド」と讃えられた。
1944年(26歳)、ミュージカル『オン・ザ・タウン』作曲。ニューヨークで24時間の上陸許可を与えられた水兵3人の恋愛騒動を描き、1949年に『踊る大紐育』として映画化された。同年、バレエ音楽『ファンシー・フリー』作曲。
1945年(27歳)から3年間ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督を務め、教育者としては1948年から7年間バークシャー音楽センターで指導し、並行して1951年から5年間ブランダイス大学で教えた。
1948年(30歳)、10歳年上の指揮者カラヤン(1908-1989)と初めて出会う。ライバルではあったが互いの才能を認めていた。
1949年(31歳)、『交響曲第2番 不安の時代』を作曲。
1951年(33歳)、チリ出身の女優・ピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚し3児に恵まれる。一方、バーンスタインはバイセクシュアルであることを隠していない。
1952年、オペラ「タヒチ島での騒動」。本作は1983年に「クワイエット・プレイス」へと拡大される。
1953年(35歳)には、ミラノ・スカラ座の客演指揮にアメリカ人として初めて招かれた。同年、ミュージカル『ワンダフル・タウン』作曲。ノリノリの音楽。
1954年(36歳)、プラトンの『饗宴』に着想を得た『セレナード』を作曲。各楽章にソクラテスなど『饗宴』の登場人物の名を冠している。この年、テレビの音楽ドキュメンタリーでベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行い話題になる。これが教育番組『青少年コンサート』に繋がっていく。同年、映画『波止場』(主演マーロン・ブランド)の音楽を担当。また、著作『音楽のよろこび』を刊行。
1956年(38歳)、ヴォルテールの小説を原作にしたオペレッタ『キャンディード』を作曲。バーンスタインと脚本担当のリリアン・ヘルマンは赤狩りで迫害された者同士であり、原作の反骨精神に共鳴した。同年、NYフィルとルイ・アームストロングが共演、『セントルイス・ブルース』を演奏した。

1957年(39歳)、バーンスタインは作曲家としても才能を華々しく開花させ、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』(振付ジェローム・ロビンズ)の音楽を書き上げる。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』を題材に、ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人の不良グループの抗争が生む愛と死を描いた。ブロードウェーには「悲劇はヒットしない」というジンクスがあったが、バーンスタインの数々の傑作ナンバーとロビンズの鮮烈な振付で記録的ヒットとなった。特に挿入歌『トゥナイト』は世界中の人々に愛される名歌となった。本作は1961年に映画化されたこともあって、バーンスタインの名は世界各地でクラシック・ファン以外にも広まった。
1958年(40歳)、名門ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の初のアメリカ生まれの常任指揮者(翌年音楽監督)となった。両者の相性は抜群で、1200の公演、200以上の録音をし、ニューヨーク・フィルは世界有数の楽団に成長した。NYフィル団員「バーンスタインには独特なカリスマ性があり、感動が伝わってきて何かが起こる」。同年、バーンスタインはニューヨーク・フィルの客演指揮者にカラヤンを招き、カラヤンは演奏会を8回指揮した。
ニューヨーク・フィルの常任指揮者時代、バーンスタインは後進の指揮者の育成に乗り出し、「補助指揮者」に採用した小澤征爾、クラウディオ・アバドなどを育てた。
1959年(41歳)、著作『バーンスタイン音楽をかたる』を刊行。
1960年(42歳)、ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の主要曲を集めて編曲した、オーケストラのための演奏会用組曲「『ウエスト・サイド物語』からのシンフォニック・ダンス」を作曲(初演は翌年)。全8曲が切れ目なく演奏される。
※バーンスタイン指揮による『「ウエスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンス』 https://www.youtube.com/watch?v=X8qM1ZCoQls

1961年(43歳)、ニューヨーク・フィルを率いて来日コンサート。以降、1970年、1974年、1979年にニューヨーク・フィルと、1985年に「広島平和コンサート」出演、そしてイスラエル・フィルを率いての2回、1990年にロンドン交響楽団と訪日している(計7回)。
1962年(44歳)、テレビ番組『青少年コンサート、音楽鑑賞の新しい試み』を文章とレコードにまとめ好評を得る。バーンスタインは音楽の啓蒙活動も熱心に展開し、テレビを通して子どもたちにクラシックの魅力を分かりやすく解説した。例えば、レシタティーブの役割を解説する際は、「鳥肉が1ポンドあたり3セント値上がりしたよ」「何て物価が高いのでしょう」という夫婦の会話をモーツァルト風、ヴェルディ風、ワーグナー風に演奏してコミカル
1963年(45歳)、『交響曲第3番 カディッシュ』を作曲。“カディッシュ”はアラム語(古代ペルシャの公用語、キリストも話したという)で「聖なるもの」の意。同年にケネディ大統領が暗殺されたことから、ケネディへのレクイエムとして捧げられた。アメリカ初演時、拍手が15分以上も鳴り続けた。
1964年(46歳)、多忙極まり「作曲の時間を取るため」に1シーズンの休みを取った。
1965年(47歳)、合唱とオーケストラのための『チチェスター詩篇』作曲。
1966年(48歳)、初めてウィーン・フィルハーモニーの客演指揮に招かれた。60年代、保守的なウィーン・フィルは伝統を重んじるあまり、客演には特に厳しいことで知られていた。後年(1986年)のレニーの回想「ウィーン・フィルとは初めにオペラをやりました。1966年の「ファルスタッフ」のことはよく覚えています。お互い神経質になっており、時間を節約できるようリストを作っていきました。音の細かい変化や難しい箇所などを指揮する前に説明しました。まもなく団員がざわついているのに気づきました。まだ音を出していなかったので、幹部から「早くやろう」と(フルートを吹くジェスチャーで)サインが出て、私もようやく事態を理解し、「始めよう」と言いました」。
ウィーン・フィルのメンバーに対し、バーンスタインは謙虚に言葉を繋いだ。「モーツァルトは皆さんの音楽です。ウィーン気質やフレージングなど私が学ぶことは多いと思います。伝統から外れているときはどうぞ教えて下さい」「ウィーンの音楽家はモーツァルト、ワーグナーの世界に生まれ、市民権を持つが、私はガーシュウィンやコープランドの国で生まれ、欧州における私の地位は養子みたいなものです」。

1969年(51歳)、かねてから『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を作曲したいと思っていたバーンスタインは、作曲の時間を確保するためにニューヨーク・フィルと契約を終える。同フィルから終身桂冠指揮者の称号をおくられた。以降は特定のポストにつかず、ウィーン・フィル、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団、イスラエル・フィルと組んで名演を残した。

バーンスタインは音楽家としての名声をバックに、核軍縮、人権擁護、教育問題、エイズ対策など、様々な社会運動に取り組んだ。1969年、ニューヨークのベトナム反戦集会でこうマイクをとった。「政府は言う。“安易な方法は取らない、ベトナムから撤退しない、そんなことをすればベトナムは共産化されてしまう…”。虚勢を張り、歴史をゆがめ、軍事大国のイメージを保とうとしている。それこそが“安易な”方法だ」。

かつて、作曲家マーラーは他界の年、1911年2月までニューヨーク・フィルの指揮者としてタクトを振っていた。バーンスタインはマーラーが同じユダヤ人であること、指揮者であり作曲家という共通点もあり、マーラーの音楽の虜になった。1960年代、レニーはニューヨーク・フィルとマーラー全集を録音したことでアメリカにおけるマーラーの擁護者となった。バーンスタイン「マーラーを演奏していると自分で書いたような気がしてくる」。
1970年代に入ると、バーンスタインはウィーン・フィルとマーラーの音楽を演奏しようとした。
「マーラーの町(ウィーン)でマーラーのオーケストラとマーラーの曲をやろうとしたんです。しかし、偉大なるウィーンではマーラーは禁止されていました。団員達はマーラーを知らず偏見を持っていました。長ったらしく、騒々しく、不必要に複雑で、感情過多の音楽だと彼らは思っていました。リハーサルであまりに抵抗するので、私の怒りが爆発しました。マーラーは自分達の町の音楽家ですよ?」

【ウィーン・フィルとのマーラー『交響曲第5番』リハーサルから、バーンスタインの発言】
「リハーサルであることは分かっている。しかし何の為のリハーサルですか。音符が弾けることは分かる。しかしマーラーの心は一体どこだ。この嘆くようなトレモロを最大限に表現しないと。そんな感じではマーラーは弾けない。マーラーじゃない!何のためのリハーサル?だいたいの感じを掴むため?その程度の稽古でいいと思いますか?苦しさを乗り越えてマーラーを演奏するんです。練習するしかありません。8時間労働が何だ!やるのか、やらないのか。これではマーラーにならない」
「フォルテが1つ書かれていたらその通り演奏して下さい。弦楽器も楽器が壊れるくらい激しく。そうでないとマーラーにならない。平凡に演奏したら退屈な音楽になってしまいます。この曲にノーマルはありません。フォルティッシモはこの上なく強く」
「私が合図するまで待って下さい、急がないで下さい」
「私のスコアを使っていますか?自分のスコアを使っているのか?同じ資料でないと混乱する」
「ディミヌエンド(デクレッシェンド)ど書いてあるのに誰もその通りにやっていない」
「ヴェローチェ!(速い)」
「ドルチッシモ!(きわめて優しく)」
後年の回想。「とてもやりにくかった。(私に対しウィーン・フィルの団員の間で)翻訳できないような言葉がささやかれていました。しかし、ひとたびマーラーの魅力を知り、聴衆の反応がどんなにすごいかを知ると、自分達が神聖なものをたたえる器であることに気づいたのです。ブラームスと同じく神聖な音楽だということに…」
こうした“戦い”を経て、バーンスタインとウィーン・フィルはマーラー作品の歴史的名演を重ねていった。

1970年(52歳)、公民権運動を支援するため、ニューヨークの自宅で急進的黒人政治組織ブラックパンサー党の資金調達の会合を開く。
1971年(53歳)、ウィーン・フィルとマーラーの交響曲第9番をライブ収録。同年、歌手・ダンサー・演奏家たちのための『ミサ曲』を作曲。“サイモン&ガーファンクル”のポール・サイモンが詩の一部を提供するなど、ジャンルが特定できないバーンスタインらしいミサ曲で、娯楽性と信仰の危機など宗教的モティーフ    を統合した。
1973年(55歳)、イギリスのイーリー大聖堂でロンドン交響楽団とマーラー『交響曲第2番 復活』の名演を残す。
1974年(56歳)、バレエ音楽『ディバク』作曲。
1977年(57歳)、友人ロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督に就任したことを祝い、政治的序曲『スラヴァ!』を作曲。政治集会のパロディ。"Slava"はロストロポーヴィチの愛称であると同時にロシア語の歓呼の言葉。
1978年(60歳)、27年連れ添ったフェリシア夫人がガンで他界。バーンスタインは献身的に看護した。バーンスタイン「フェリシアは輝かしく優しく聡明な女性で、天使そのものでした」。
1979年(61歳)、ベルリン・フィルと1度限りの共演が行われ、マーラー『交響曲第9番』が演奏された。
1985年8月(67歳)には被爆40周年として「広島平和コンサート」を開催。同年、グラミー賞生涯業績賞を受賞。
1988年(70歳)、ウィーンで行われた老カラヤンの演奏会に「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」とお忍びで足を運び、舞台裏でカラヤンと交流した。バーンスタインとカラヤンは合同演奏会の計画を練るほどの仲になっていた。同年、ウィーンフィルの長老達は“我らがレニーのために”と、親密の証としてジャズを覚えバーンスタインが作曲したジャズ要素の強い『前奏曲、フーガとリフ』を演奏した。
1989年(71歳)、7月にカラヤンが他界(享年81)。バーンスタインは演奏会で2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後のカラヤン追悼演奏会(ウィーン・フィル)でベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の弦楽合奏版を指揮した。11月にベルリンの壁が崩壊し、翌月にベルリンで催されたクリスマス・コンサートで、バーンスタインは東西ドイツ&アメリカ&ソ連&イギリス&フランス各国のオーケストラの混成メンバーを指揮してベートーヴェン第九を演奏。第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude(歓び)”を“Freiheit(自由)”に歌詞を変え、東西冷戦終結を祝った。同年、連作歌曲『アリアとバルカロール』を作曲。
1990年(72歳)、6月、民主化を祝うチェコスロバキアの「プラハの春」音楽祭で再び“Freiheit(自由)”バージョンの第九を指揮。さらに後進の育成にも力を注ぐべく札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバルを開始。だが体調不良により、8月19日、タングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団とのブリテン『4つの海の間奏曲』、ベートーヴェン『交響曲第7番』の演奏を最後にすべてのコンサートをキャンセル。10月9日に指揮活動からの引退を表明。その5日後、10月14日にニューヨークの自宅で肺癌のために亡くなった。享年72歳。
1992年、バーンスタインが務めるはずだったウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮をカルロス・クライバー(1930-2004)が代行した。クライバーはバーンスタインより12歳も年下だったが、バーンスタインはクライバーの指揮に魅了され、クライバーのプッチーニ『ラ・ボエーム』を聴いて「最も美しい聴体験の一つ」と讃えたという。
バーンスタインは巨匠となっても各国で学生オーケストラを指揮し、若い演奏家たちの指導に従事した。クラウディオ・アバド、小澤征爾は彼の弟子。最後の弟子は佐渡裕だ。佐渡裕「バーンスタインはひどい演奏もしたけれど、奇跡のように素晴らしい演奏もした。天才とは奇跡が起きる確率が高い人なんです」。

〔バーンスタイン、かく語りき〕
「誰かと分かち合えない感動は私にとって無意味だ」
「20世紀の脚本は書き出しから失敗だ。ギリシャ劇とは対照的です。第1幕、欲望と偽善が世界大戦をもたらし、戦後の不公正と狂気へと続き、にわか景気、堕落、全体主義となった。第2幕、欲望と偽善が大量殺戮をもたらし、戦後の不公正と狂気へと続き、にわか景気、堕落、全体主義となった。第3幕…欲望と狂気…この先一体どうなるのか」
「マーラーは第2ヴァイオリンの端の人にもソリストと同じレベルの演奏を求めている」
「若い人は理解している。(マーラーの)終末的な音楽の良さをね」
「私の作曲の師はアーロン・コープランドだ。コープランドと出会うまで、彼をヒゲのはえた聖書の預言者のような人物と想像していた。音楽がそうだからです。初対面のとき、37歳のやせてチャーミングで人なつっこい人が“はじめまして、アーロンです”と言ったときは卒倒しそうでした。新しく書いた作品を彼に持っていくと“ゴミ箱行きだな。これじゃあスクリャービンの物真似だ、やり直し”と言うこともあれば“いいね!”と言うこともあった」

音楽で世界中の人々を抱きしめようとしたレニー。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者。彼は指揮者として同時代のカラヤンと並ぶ名声を得ただけでなく、作曲家としてもクラシック、ミュージカル、バレエ、オペラ、映画音楽、ポピュラー音楽など幅広く活躍した。青少年への音楽教育者としても知られている。
ライブ映像として残されているマーラーの交響曲第2番のフィナーレ、第5番のアダージェット、第9番終楽章は、僕はもう大袈裟でなく、音を消してレニーの表情を見ているだけでも感動して泣ける。すべてをさらけ出し、限界を突破しての感情移入、全身全霊を込めて演奏しているのが伝わってくる。
欧州の大指揮者に多い無口で頑固なイメージとは異なり、アメリカを体現するかのような陽気で気さく、おおらかな性格のレニー。指揮に没入するあまり指揮台でジャンプすることも多かったが、それは決して表面的なパフォーマンスではなく、マーラーやベートーヴェンの作品に対する解釈が高く評価された。音楽史上、希有なスター性を備えた指揮者だった。たくさんの素敵な音楽の贈り物をありがとう、レニー。

※チェリビダッケ「バーンスタインと私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」。
※毎日煙草を5箱(100本)も吸い、ウイスキーを丸1本飲んでいたという。体を壊すがパワーを生むらしい。

〔墓巡礼〕
僕は1985年9月のバーンスタイン&イスラエル・フィルの来日公演を大阪フェスティバル・ホールで聴いた。曲はマーラーの第9番。当時の僕は情緒不安定な高校3年生。それはもう、驚天動地の音楽体験だった。人間がこんなにも美しいものを生み出せるのかと卒倒しかけた。2階の最後列から、はるか彼方でタクトを振るマエストロの一挙手一投足を目に焼き付けんと、瞬きするのも惜しいほど見つめ続けた。第9番の演奏が終わると会場は割れんばかりの拍手に包まれた。幕が下りて大半の観客が帰った後も、50人ほどの観客が残って延々と拍手をしていた。僕も1階に降りてステージのすぐ前で拍手をし続けた。なんというか、ステージに誰もいないのが分かっていても、圧倒的感動を与えてくれた目の前の空間へ感謝の拍手が止まらなかった。そして奇跡が起きた。舞台袖からレニーだけがひょこっと出てきてくれた!マエストロはステージ衣装ではなく黒いマントをつけていた。そして僕の2メートルほど前まで近づいて来て、残っていた観客に笑顔で軽く手をあげ、そして帰っていった。失神するかと思った。観客の間から「うおおおお!」とどよめきが起きた。えらい場面に立ち会ったと、互いに顔を見合わせた。
その5年後、1990年にレニーは旅立った。初めて墓参したのは2000年。フェスティバル・ホール以来、15年ぶりの再会。レニーが眠るニューヨーク・ブルックリンのグリーンウッド墓地はマンハッタンから地下鉄で簡単に行ける。「25 St」駅で
降りて200mほど南東に歩けば、ディズニー・ランドの城のような正面ゲートが見えてくる。広大な墓地ゆえ、管理人事務所で地図をもらい墓前に向かった。バーンスタイン家の墓域は小さな丘の上にあった。ユダヤ人の墓には小石を積むという風習があり、レニーの墓にはいくつも小石が置かれていた。マエストロの墓石に手を置き、音楽に感謝すると共に、フェスティバル・ホールで最後に出てきてくれたその優しさがどれほど嬉しかったか、心を込めて御礼を言った。

〔参考資料〕『レナード・バーンスタイン 音楽の贈り物』(ザ・ギフト・オブ・ミュージック)



★フルトヴェングラー/Wilhelm Furtwangler 1886.1.25-1954.11.30 (ドイツ、ハイデルベルク 68歳)2002&15 指揮者
Bergfriedhof Heidelberg, Heidelberg, Heidelberger Stadtkreis, Baden-Wurttemberg, Germany


今も崇拝者は多い

神戸で見つけた喫茶
フルトヴェングラーに感涙

古都ハイデルベルクに眠る 右隣の井戸が目印 墓前まで案内して下さった地元の方



墓地は広大でなかなか墓が分からなかった。
何人も尋ねてやっとこさたどり着く(2002)
13年ぶりの再巡礼(2015)
前回と花の色が違うため別の墓に見えた
聖書の一節が墓石の周囲に刻ま
れている「最も大いなるものは愛」

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler)は1886年1月25日にベルリンで生まれた。父アドルフは考古学者で、陶器の破片から年代特定を行う重要性に最初に気づいた人物。15歳から作曲を学び始め、20歳で現ミュンヘン・フィルによるブルックナー『交響曲第九番』を指揮して楽壇デビュー。その後、チューリヒ歌劇場やシュトラスブルク歌劇場で下積みを重ね、1911年に25歳でリューベックの音楽監督に就任する。
1922年(36歳)、1月に他界したベルリン・フィルの指揮者アルトゥール・ニキシュの後任としてベルリン・フィルの第4代常任指揮者に就任。またライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者も兼任した。1926年、フルトヴェングラーにとって初の録音となる『運命交響曲』をベルリン・フィルと演奏。翌1927年、フェリックス・ワインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者にも就任する。
1931年(45歳)、初めてバイロイト祝祭劇場に登場し、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を指揮。
1933年(47歳)、3歳年下のヒトラーが首相に就任。フルトヴェングラーはナチス不支持だったが、ベルリン国立歌劇場でワーグナー『ニュールンベルクのマイスタージンガー』を指揮した際、ヒトラーの握手にこたえてしまい写真を撮影される。
1934年(48歳)、3月12日にドイツの新進作曲家パウル・ヒンデミット(当時39歳/1895-1963)の交響曲『画家マティス』をベルリン・フィルの手で初演。大成功を収めたことから、フルトヴェングラーは秋からの新シーズンでオペラ版『画家マティス』をベルリン国立歌劇場で初演する段取りを進めた。ところが8月19日にヒトラーが総統となって独裁権を掌握すると、ヒンデミットの新作オペラが上演禁止処分となった。これまでヒンデミットはドイツ人でありながらナチスに従わず、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を録音するなどヒトラーの怒りを買っていたからだ。ヒンデミットに「退廃芸術家」の烙印を押して弾圧するヒトラーのやり方に憤ったフルトヴェングラーは、同年11月25日付けの『ドイツ一般新聞』に「ヒンデミット事件」と題する投稿を寄せた。
フルトヴェングラーは「ヒンデミットは現代と未来のドイツ音楽にとってなくてはならない人物」「いかなる理由があろうとヒンデミットを切り捨てることは許されない」と全力で擁護し、「根拠のない言いがかりをつけるな」とナチス批判を展開した。この声明に怒ったナチス政権の宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスはベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場からフルトヴェングラーを追放しようとし、ナチスの御用新聞は一斉にフルトヴェングラーとヒンデミットをバッシングした。12月5日、フルトヴェングラーは、ベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官および帝国音楽院副総裁などあらゆる公職を辞任。ヒンデミットはトルコに亡命した。妻がユダヤ人だった指揮者のエーリヒ・クライバーは、この状況に危機感を抱き、ベルリン国立歌劇場の楽長の地位を捨てて息子カルロスを連れアルゼンチンに亡命した。

ドイツの音楽界から世界的大指揮者フルトヴェングラーがいなくなったことは、国際社会におけるナチス政権のイメージダウンに繋がった。また、ベルリン・フィルの演奏レベルも下がり始め、危機感を持ったナチス政権はフルトヴェングラーに対する圧力を弱めたことから、3カ月後の1935年3月にフルトヴェングラーは“客演指揮者”としてベルリン・フィルに復帰した。翌年、イタリアのムッソリーニ率いるファシスト政権と対立していた指揮者トスカニーニは、ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にフルトヴェングラーを指名したが、ナチスの妨害を受けて話は流れる。
1938年(52歳)、オーストリアをドイツに併合したナチス政権がウィーン・フィルを解散しようとしたため、フルトヴェングラーはこれを阻止。
1939年(53歳)、ヒトラーがポーランドを侵略し第二次世界大戦が勃発。多くの音楽家がナチスに抗議してドイツを離れたが、ベルリン・フィルには多くのユダヤ人演奏家がいたため、フルトヴェングラーはあえてドイツに残ることで、ユダヤ人音楽家を保護しようとした。国際社会はナチス政権下で音楽活動を続けるフルトヴェングラーを「ナチスに迎合している」と批判したが、ユダヤ人音楽家の亡命の手助けなど、ドイツ国内だからこそできる人道支援を続けた。
1945年(59歳)、ベルリンは空襲が日常化し、モーツァルトの演奏中に警報が鳴り避難することもあった。大戦末期、フルトヴェングラーはナチスへの非協力態度(ユダヤ人作曲家メンデルスゾーンを演奏会で取り上げるなど)が目に余るとして、ナチス高官ハインリヒ・ヒムラーからついに逮捕命令が出る。ナチス高官の中には熱烈なフルトヴェングラーファンがいて、暗に亡命を勧められた。2月、ゲシュタポ(秘密警察)に命を狙われるに至り、フルトヴェングラーはスイスでのウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスに亡命する。5月8日にドイツ降伏。フルトヴェングラーは戦争末期まで演奏活動を続けていたことからナチス政権への協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける。
1947年(61歳)、ナチ支持者ではないという無罪判決が下り、2年ぶりに音楽界に復帰。

1951年(65歳)、敗戦から6年を経てバイロイト音楽祭が再開され、その記念演奏会でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、伝説の名演となる。
1952年(66歳)、ベルリン・フィル創立以来初となる「終身指揮者」に就任。
1954年11月30日、バーデン=バーデンにて肺炎により他界。享年68。エリーザベト夫人はフルトヴェングラーの棺を、東西冷戦下のベルリンではなく、古都ハイデルベルクの彼の母の墓の隣りに埋葬することにしたた。フルトヴェングラーはドイツ最古のハイデルベルク大学(1386年創立)の名誉教授でもあり、当地に縁があった。実際、ベルリンにはこの7年後(1961年)に“ベルリンの壁”が構築されており、墓地の場所によっては墓参できなくなるところだった。12月4日にハイデルベルクの聖霊教会で葬儀が執り行われ、ベルリン・フィルがモーツアルト『フリーメースンのための葬送曲』でマエストロを見送った。弔辞はカール・ベーム。フルトヴェングラーは街の東側の山の斜面にあるベルクフリートホフ(Bergfriedhof、山の墓地)に埋葬された。
フルトヴェングラーの墓石には左右の縁に沿って新約聖書の「コリント人への第一の手紙 第13章」が刻まれている。左が「NUN ABER BLEIBT GLAUBE,HOFFNUNG,LIEBE,DIESE DREI.(そうして永遠に残るものは信仰、希望、愛、この3つである)」、右が「ABER DIE LIEBE IST DIE GROSSTE UNTER IHNEN.(その中で最も大いなるものは愛である)」。
2013年、妻のエリーザベトが102歳で他界。

フルトヴェングラーはベートーベン、ワーグナー、ブラームスなどドイツ音楽の演奏で高評価をえた。特に弦楽パートの響きを磨き上げ、力強い表情の豊かなオーケストラの音色を引き出すことに成功した。一方、フルトヴェングラーの指揮棒は海がうねるように動くため、演奏者はリズムが取りにくく、日本では「振ると面食らう」とジョークでたとえられた。
残された主な録音盤は、ベートーヴェンの第3番『英雄交響曲』が「1944年ウィーン・フィル/放送録音」と「1952年ウィーン・フィル/スタジオ」の2種、第5番『運命交響曲』が「1937年ベルリン・フィル/スタジオ」、「1947年ベルリン・フィル/ライヴ」、「1954年ウィーン・フィル/スタジオ」の3種、『第7番』が「1950年ウィーン・フィル/スタジオ」、『第九』が「1942年ベルリン・フィル/ライヴ」、「1951年バイロイト音楽祭/ライヴ※2種類」、「1954年フィルハーモニア管弦楽団/ライヴ」の4種。ワーグナーは『ニーベルングの指環』全曲が「1950年スカラ座/ライヴ」「1953年ローマRAI放送/放送録音」、『トリスタンとイゾルデ』が「1952年/スタジオ」、『ワルキューレ』全曲が「1954年ウィーン・フィル/スタジオ」。あとはシューベルトの『交響曲第9番ザ・グレイト』が「1942年ベルリン・フィル/ライヴ」、シューマンの『交響曲第4番』が「1953年ベルリン・フィル/スタジオ」などが現存する。
映像でも1954年ザルツブルク音楽祭のモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』、1942年の慰問演奏会でのワーグナー『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕前奏曲、ナチ高官列席の『第九』が残る。
※フルトヴェングラーはテンポの決め方を質問された際、「それは音がどう響くかによる」と答えた。これを聞いた指揮者のチェリビダッケは、ホールの音響を無視してメトロノームの数字のみで決めたテンポ設定は無意味と悟ったという。
※音楽評論家・吉田秀和のフルトヴェングラー評「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」。
※同じ墓地にハイデルベルク大を卒業した社会学者マックス・ヴェーバーの墓がある。

【墓巡礼】
初めてフルトヴェングラーを墓参したのは2002年。フランクフルトから鉄道で古都ハイデルベルクに入った。1386年創立のドイツ最古の大学がある街。旧市街の東側、駅から約1kmの山の斜面に広がるベルクフリートホフ(Bergfriedhof、山の墓地)にフルトヴェングラーは眠っていた。墓石の場所を聞くために管理人事務所を探し始めたが、平地の墓地ではないため視界が限られており、広い墓地のどこに事務所があるのか分からない(2015年の再訪時には立派な案内地図の看板があった)。そこで墓地の麓でフルトヴェングラーの墓を知ってそうな人を探していたら、年配の男性が自転車で通りかかった。「ああ、知ってるよ」といきなりのビンゴ。ところが山の墓地であり、口ではうまく場所が伝わらない。その親切なお爺さんは「私についてきなさい」と墓前まで案内して下さるという。問題は自転車。斜面だらけだ。「僕が押します」とジェスチャーすると、お爺さんは「大丈夫」と段差になるとヒョイと自転車を担いで前進、また前進。10分ほどしてマエストロの墓所にたどり着いた。僕はお爺さんに何度も「ダンケ・シェーンン(ありがとう)」と繰り返し、「フルトヴェングラー、バイロイト、イッヒ・リーベ、ベートーヴェン・ナンバーナイン」とめちゃくちゃな言葉でフルヴェンLOVEを伝えると、お爺さんはニッコリ笑って「バイロイト。ブンダヴァー(素晴らしい)」。握手を交わして別れ、僕はフルトヴェングラーと対面した。数々の名演奏に感謝すると共に、反ナチスの姿勢とその勇気に心から敬意を表した。
フルトヴェングラーの墓を挟んで、左側に母と妹、右側にエリーザベト夫人が眠っている。隣接して水道施設があるのでそれが目印になるだろう。
※著名人が眠っているドイツ・オーストリア・スイスの墓地はだいたい墓所マップの看板が正門の近くにある。お陰で管理人事務所が閉まっている時間帯でも自力でたどり着ける。世界中の墓地がこうなって欲しいと切に願う。

(大戦中にドイツで活動し続けたことについて)「ベートーヴェンが演奏される場所ではどこでも人間は自由です。彼の音楽はゲシュタポ(ナチの秘密警察)も手だしのできない世界へと人間を連れ出してくれます。偉大な音楽はナチの非情な思想に真っ向から対立するので、私はヒトラーの敵です」(フルトヴェングラー)



★カルロス・クライバー/Carlos Kleiber 1930.7.3-2004.7.13 (スロヴェニア、コンスィツァ村 74歳)2005 指揮者
Cemetery of Konjsica, Konjsica, Slovenia※首都リュブリアーナの郊外




なんという気持ちのいい笑顔!見てるだけで爽快になる!
(ベートーヴェン交響曲第4番)




精神的求道者のような
最後の巨匠だった。
リハーサル映像が現存しているのは人類全体
の幸運!(少しポール・ニューマンにも似ている)
1992年のニューイヤーコンサートにて。とても
リラックスした穏やかな表情だなぁ。(当時62歳)















墓の側にクライバー記念館がある。
館長のマルコさんがカルメンを流してくれた
クライバーの墓はお花がいっぱい!

奥さんが亡くなった半年後、後を
追うようにカルロスも旅立った
帰途も駅まで見送って
くれた情の厚いマルコさん

2004年のある7月の朝。新聞の片隅に「カルロス・クライバー死去」という7行の短い記事を読み、全身から力が抜けてしゃがみ込んだ。1983年の秋頃、当時高校2年の僕はたまたま立ち寄ったレコード屋で、外国人の指揮者が歓喜の表情で指揮棒を振っているポスターを見た。宣伝コピーは『ここでカルロスのタクトが火を噴いた!』。人生でこれほどの笑顔を見たことがなく、僕はポスターの前に立ち尽くした。「クラシックは人間にこんな表情をさせる音楽なのか!」と度肝を抜かれた。“自分は一生のうちに何度こんな笑顔をできるだろう?”、 クラシック・ファンになればこんな体験が待っているのかと、一枚のレコード・ジャケットをきっかけに縁遠かったクラシックを聴き始めた。お気に入りの曲からクラシックの世界に入っていくのが普通で、写真をきっかけにクラシックを聴き出す例はあまりないと思う。
そして…クライバーさんの笑顔は真実だった!それまで僕がクラシックに持っていたイメージは“退屈”“地味”“長い”“根暗”というものだったけど、そんなクラシック観が激変した。涙するほど美しく、同時に超刺激的&エキサイティングな世界が、音符の向こうに待っていたッ!もし、あのジャケットに出会っていなかったら、クラシックに目覚めるのはもっと遅かった、あるいは一生目覚めなかったかも知れない。そういう意味でも、クライバーさんは僕にとって命の恩人だ。
クラシックを聴き始めると、クライバーさんがレコード化した曲がベートーヴェンの「交響曲第4番」ということに好奇心を刺激された。「運命」や「第九」のような知名度はない。“有名な曲だけが名曲じゃない、知られてない傑作が山ほどある”ということを、クライバーさんは教えてくれた。目の前にあっても見えていなかった、芸術という無限に広がる美と感動の海の存在を、クライバーさんが教えてくれた!
 
1986年、クライバーさんを「生き神様」と崇めたてていた19才の僕は信じられないニュースを聞いた--「カルロス・クライバー来日決定!大阪フェスティバルホールのプログラムは、ベートーヴェンの4番と7番!」。これを驚天動地というのだろう。僕はチケット発売日の何ヶ月も前から、横断歩道は黄信号になったら無理に渡らない、電車には駆け込まない、腐りかけた食べ物を強引に食べない等、生活上のあらゆる危険を避け、非常に慎重に生き始めた。チケット発売日は始発列車で梅田に乗り込み、店頭販売分をゲットした!!
 
チケットを手に入れてからは、新たな心配で生きた心地がしなかった。毎日毎日、新聞でクライバーさんが病気になったり、事故にあってないかを調べた。というのも、クライバーさんの存在が生前から伝説化していたのは、演奏会の回数が極端に少ない(過去5年間で指揮をしたのは5日間だけだった)ことに加え、その完全主義ゆえに、少しでも体調が不良だったり、本番当日までに120%満足のいく仕上がりにならなければ、演奏会は即刻キャンセルされたからだ。コンサート当日になっても、幕が開いて自分の目で姿を確認するまでは、聴衆は誰も安心できなかった。クライバーさんは「指揮をした」という事実そのものがビッグニュースになる、現代では唯一の指揮者だった!
※クライバーさんはまた、オペラの最中に観客の拍手で流れが中断されることを嫌い(それが感動による拍手であっても)、各座席には「全幕が終了するまで絶対に拍手をしないで下さい」と注意書きが配られていた。
 
そして運命の5月15日18時半!舞台上にはバイエルン国立歌劇場管弦楽団のメンバーを従えたクライバーさんの姿があった。神は降臨した!!聴衆はクライバーさんを嵐のような拍手で迎えた。演奏はこれからだというのに、隣席の老夫婦は「よかった、ちゃんと来てくれた。本当によかった…!」と、もう終わったかの如く満足気な会話。僕がクライバーさんを知るきっかけとなった交響曲第4番が始まると、“これは現実だよな?現実なんだよな!?”と、指揮台の上で蝶の様に舞うクライバーさんの後ろ姿を、ひたすらジッと見つめていた。
2曲目のパワフルな第7番は興奮し過ぎて、断片的な記憶しか残っていない。ベートーヴェンの作った曲の中でも、最もハチャメチャ&ド迫力な終楽章は、「うおーッ」「ふぬーッ」「グガーッ」「ドヒーッ」そんな言葉が全身を駆け巡ってるうちに終わった。僕の魂はベートーヴェンの最後の一音が鳴り終わった時に、音符と共にミューズやアポロンら芸術神の世界へ連れ去られてしまった。
15分経っても鳴り止まぬ拍手の渦の中で呆けていると、クライバーさんはアンコールの声に応えて登場し、優雅で軽やかな喜歌劇『こうもり』序曲と、“クライバー火山大爆発”のポルカ『雷鳴と電光』の2曲を演奏してくれた!大編成オーケストラで演奏される『雷鳴と電光』は、指揮棒から放たれる電光が文字通り僕の脳を直撃し、最後の方は身体からプスプス煙が上がっていた。隣席の老夫婦は「長生きはするもんだねぇ」としみじみ。
 
★生前から聴衆、音楽家の双方より神格化されていたカルロス・クライバーは、1930年7月3日にベルリンで生まれた。父は20世紀前半を代表する指揮者の一人、エーリヒ・クライバー(1890-1956)。ウィーン生まれの父エーリヒはマーラーの指揮に感動して指揮者を志し、1923年に33歳でベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。1926年、エーリヒはアルゼンチンで客演し、その際に米国大使館職員、ユダヤ系アメリカ人のルース・グッドリッジと惹かれあい後日結婚する。1930年、エーリヒが40歳のときにカール(カルロス)をもうけた。
1932年7月、選挙でナチ党が第一党の座を占め、1933年1月にヒトラーが首相に就任。翌月ナチスは自演のドイツ国会議事堂放火事件を起こして左翼を大弾圧し、同年3月、ヒトラーは全権委任法を国会承認させて立法権を手に入れ、どんな法律も議会抜きで制定できるようになる。
1934年8月19日、ヒトラーが総統となって独裁権を掌握。11月、ナチスはユダヤ人と親しく交流する作曲家パウル・ヒンデミット(1895-1963)を弾圧し、オペラ版『画家マティス』を上演禁止にする。ベルリン・フィルの名指揮者フルトヴェングラー(1886-1954)はこれに怒って「ヒンデミット事件」と題する抗議声明を新聞に寄せ、ベルリン・フィル音楽監督を辞任。またナチスはアルバン・ベルク(1885-1935)の作品に「退廃音楽」のレッテルを貼り、ベルクの『ルル交響曲』初演を禁じたことから、ナチスの芸術への介入に怒ったエーリヒは、『ルル交響曲』演奏禁止命令の5日後に国立歌劇場音楽総監督を辞任し、フルトヴェングラーと共闘した。
翌1935年、エーリヒはユダヤ系の妻を守るために5歳の息子と共に家族でアルゼンチンに亡命。その際に子どもの名前をドイツ名のカールからスペイン語のカルロスに改名した。翌年、パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並ぶ「世界三大劇場」のひとつ、コロン劇場(テアトロ・コロン)の首席指揮者となる。エーリヒは13年間この職を務めながら、南米各地のオーケストラで客演した。戦争が終わり、1948年、ロンドン・フィルに客演したことを機に欧州楽壇に復帰する。
 
一方、エーリヒの姿を見て育ったカルロスは自身も音楽に魅了され、20歳からブエノスアイレスで音楽の勉強を始めた。だが、父が音楽の道に進むことを反対したため、1952年、22歳でスイス・チューリヒの工科大学に進学。結局、音楽への情熱を抑え切れず、同年にアルゼンチンのラ・プラタ歌劇場で初めてオーケストラを指揮した。翌1953年、23歳でミュンヘンの劇場で無給の見習い指揮者となり、24歳でポツダムの劇場でオペレッタを指揮し欧州デビューを飾る。この頃、カルロスは親の七光りと思われるのが嫌で、この頃は「カール・ケラー」と名乗っていた。
一方、父エーリヒは1954年には古巣であるベルリン国立歌劇場の監督に任命されたが、同劇場を所轄する東ドイツの社会主義政権と意見が対立し辞任。1956年(カルロス26歳)、モーツァルト生誕200年となる1月27日当日に、エーリヒは客演旅行で訪れたチューリヒにて56歳で客死した。
 
カルロスは1960年に30歳でライン・ドイツ・オペラの指揮者に就任、ヴェルディの『椿姫』を振った。
1964年(34歳)からチューリヒ歌劇場指揮者を任され、期待の若手として注目される。
 
1968年(38歳)にミュンヘンのバイエルン国立歌劇場となり、リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』で大成功を収め、名声を手に入れた。カルロスは5歳から約15年間、青春の日々をアルゼンチンで過ごしており、ラテンアメリカの陽気な歌心と厳格なドイツ正統派の精神の両方を併せ持った指揮者として、聴衆を魅了した。カルロスはバイエルンで『ばらの騎士』を生涯に通算82回演奏する。
1970年(40歳)、南ドイツ放送交響楽団(現シュツットガルト放送交響楽団)とヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇『こうもり』序曲、ウエーバーの歌劇『魔弾の射手』序曲のリハーサルと本番の様子をテレビ収録し、貴重な映像資料として後世に残る。 
※この映像から喜歌劇『こうもり』序曲のリハーサル風景を以下に紹介。当時の南ドイツ放送交響楽団は大半の団員が年配者。若いカルロスが自らの音楽的要望を伝える為に、お世辞を言ったり脅かしたりしながら必死で格闘している姿が伝わり、カルロスの親しみやすい人柄が分かる。
 
〔カルロス・クライバーかく語りき〕
「オーボエは何かを語るかのように。例えば何か不幸な歌詞をつけて…“嫌だな、またこの曲か…”とかね」
「グロッケン(鐘)の音は少し大きいかも。済まないがちょっと離れてくれますか?舞台の奥に物置の様な場所があるから」※そこへ入れということ!この時の映像にはスゴスゴとグロッケンをひきずっていく団員の姿が映っている。
「バイオリンは弦に触れる前にきちんと準備して下さい。既に音が出ていたかの如くまず弦が振動していなければ。その後初めて響きに到達するんです。荒っぽく弦を押さえないで。皮膚に触る時、まず産毛を感じてから初めて肌に手が触れる、あの感触で。いきなり握手をして“今日は!”と言う様な表現はここにはそぐわない」
「くすぐるように!」
「皆さんの演奏が勝り、私が無用になること、そんな演奏が私の夢です」
「ここでは皆さんの想像の世界の美女の心を捕らえて下さい。彼女は皆さんのバイオリンの音色に酔いしれること請け合いです」
「まだ表情不足です。ここは気まぐれにそっぽを向いて去って行くように…もちろん難しい表現ですが、どうしてもその表現が必要なのです」
「私は皆さんに何かを求めて欲しいのです。それを味わったり、表現の方向性ときっかけを私は与えるだけにしたい」
「“8日間も一人きり”と彼女は歌う(※オペラ「こうもり」の歌詞)。“一体どうすればいいの”と言って空涙を流す訳だが、女性には一種の真実だ。嘘泣きでも涙は涙だから。心からの様に“神よ何故こんな苦しみを…”と歌う。この大袈裟な感じが必要なのです」
「ここにも泣きを入れて!たっぷりと!」
「この14番(楽譜にふってある番号)は難しすぎて、私にはきちんと振り切れません」※素直すぎ!(笑)
「まだ説明するから楽器は構えないで!」
「大切なのはこの密かな猥雑な感じを出すことです。小太鼓は悪巧みを始める様に忍び込んできて、この“悲劇かな?いや喜劇だ!”という支離滅裂な配合を巧みに。すべてバランス曲芸です。テンポを守り過ぎないで!」※“支離滅裂な配合を巧みに”なんて言われても(汗)。太鼓に“テンポを守るな”なんて言う指揮者は初めて見た。
「コントラバスは最初から強すぎず、徐々に大きくしていくように。始めはほとんど弾かないぐらいに…そう、例えば皆が何かを合わせている横でコッソリ他の曲を練習する時のように。それって、オペラの練習でよく聴くんだけどね」
「もっと各自が曲の内容を把握しなくては!しっかりアンテナを張って。皆さんはひとつのオーケストラでしょう?寄せ集めの群集でも指揮者のご機嫌伺いでもない。各自が音楽の展開を推測する楽しみと義務を持っているのです」
「ここは本物の“スーパー・スタッカート”で!針の様に鋭い“スタッカーティッシモ”でッ!」
「もっと大きく!フォルティッシモ!こんな質問をされるかもしれない--“ヨハン・シュトラウスをこんな音量で?”。なぜ大きくていけないんだ?一度は発散しよう!」
「フルートとクラリネットはもう少し私に…楽しんで吹く姿を見せて下さい」
「さっきから止めてばかりで申し訳ないが、皆さんはアカデミックすぎます。ここは軽くて硬い空手チョップのように。そういう音楽を聴くと本当に楽しい」
「私は呑み込みが遅い人間だが、何が足りないか分かってきた。8分音符がニコチンの少ない煙草の煙のように物足りない。もう少し毒気がなければ。酔った時を思い出して…ただし、歩けない程には飲み過ぎないで。まだ運転が出来るくらいの酔い加減でね(団員から笑い)」
「ホルンは旋律以外の後打ちが単純すぎます。私がその部分を歌うから感じを掴んで、それに合わせて下さい。ラララ〜♪」
 
1973年(43歳)、ウィーン国立歌劇場にて『ばらの騎士』『トリスタンとイゾルデ』でデビュー。
1974年(44歳)、ウィーン・フィルとベートーヴェン『交響曲第5番“運命”』を録音、ドラマチックで情熱的な演奏が絶賛された。同年、バイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を指揮し、1976年まで3年連続で同作品を任される。また、この年にバイエルン国立歌劇場と共に初来日し『ばらの騎士』を指揮。ロンドンのロイヤル・オペラでもデビューするなど大いに活躍した。
1975年(45歳)、三大歌劇場のミラノ・スカラ座に『ばらの騎士』でデビュー。
1977年(47歳)、サンフランシスコ歌劇場でヴェルディの『オテロ』を指揮し、初めてアメリカの舞台に立った。
1978年(48歳)、シカゴ交響楽団を指揮。※これがアメリカデビューとする資料もある。
 
1979年(49歳)、ウィーン・フィルの定期演奏会を初めて指揮。
1981年(51歳)、2度目の来日公演。ミラノスカラ座とヴェルディ『オテロ』、プッチーニ『ラ・ボエーム』を演奏。
1982年(52歳)、カール・ベーム追悼コンサートでバイエルン国立管弦楽団を指揮、ベートーヴェン『交響曲第4番』をライブ収録。名盤として話題を集める。世界各地で輝かしい成功をおさめる一方、カルロスはこの交響曲第4番の解釈を巡って名門ウィーン・フィルと衝突し、「なぜこの通りに出来ないんだ!」とリハーサル中に指揮棒を叩き折り立ち去ったという。両者は6年後に和解した。
 
1983年(53歳)、アムステルダム・コンセルトヘボウとベートーヴェンの交響曲第4番&第7番を演奏。
1986年(56歳)、3度目の来日公演。この時はバイエルン国立歌劇場管弦楽団とベートーヴェン『交響曲第4番』『第7番』、ウェーバー『魔弾の射手』序曲、モーツァルト『交響曲第33番』、ブラームス『交響曲第2番』といろいろ取り上げ、アンコールでヨハン・シュトラウス二世の喜歌劇『こうもり』序曲を演奏した。ウィーン・フィルとケンカしていなければ、ウィーン・フィルと来日していたという。※筆者はこの年の来日公演を大阪で聴きました。
1988年(58歳)、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にプッチーニ『ラ・ボエーム』でデビュー。同年、4度目の来日公演。ミラノスカラ座のプッチーニ『ラ・ボエーム』を指揮。
1989年(59歳)、仲直りしたウィーン・フィルと有名なニューイヤー・コンサートで共演。指揮が全世界に中継された。
1992年(62歳)、他界したレナード・バーンスタインの代理で再びニューイヤー・コンサートを指揮する。一方、カルロスは初めてウィーン・フィルと来日する予定だったが体調不良でキャンセルとなり、シノーポリが代役を務めた。カルロスは箱根の温泉や和食を好み、何度かお忍びで日本を旅行し、この年、来日中のチェリビダッケと遭遇している。
1994年(64歳)、5度目かつ最後の来日公演。リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』をウィーン国立歌劇場と東京で6回公演し、最終日の10月20日の演奏が、生涯最後のオペラ公演となった。カルロスいわく「生涯最高の『ばらの騎士』の演奏ができた」。
 
以降の最後の10年間は、演奏会がゼロという年も多く、世界中の音楽プロモーターがカルロスを引っ張り出そうとしたが、練習回数無制限、ギャラ無制限という破格の条件を付けても、よほど気が乗らない限り出てこなかった。カルロスの出不精について、帝王カラヤンが「ヤツは冷蔵庫が空っぽにならないと演奏会に出てこない」とからかっている。
50代後半から指揮の回数が2、3年に数公演というペースになり、「クライバーが指揮をした」というだけで世界のニュースとなっていった。
最後の舞台は1999年(69歳)のバイエルン放送交響楽団との共演。
以降、没するまでの5年間は人前に姿を現すことがなく、夫人の故郷スロヴェニアで癌の闘病生活を送る。
2003年、12月にバレエダンサーの夫人が66歳で他界。同年、20年前に収録したベートーヴェン交響曲第6番「田園」のライヴ版が突如CDリリースされる。この演奏はカルロスが息子にせがまれ渋々指揮したという。
2004年7月13日、半年前に亡くなった夫人の後を追うように癌で他界。享年74。亡骸は4日後に埋葬された。生涯にわたってフリーの立場で活動し、音楽監督に就任しなかった。他界の2カ月後、ウィーン・フィルは定期演奏会でカルロスを追悼するためニコラウス・アーノンクールの指揮でモーツァルトの『フリーメイスン葬送音楽』を演奏した。21世紀に没した“最後のマエストロ”だった。
 
カルロスが熱狂的に音楽ファンから愛された最も大きな理由は、音楽と向き合う姿勢から深い誠実さが伝わってきたからだ。父エーリヒはベルリン国立歌劇場音楽監督時代に、ベルクのオペラ『ヴォツェック』を初演までに137回も練習したというエピソードがある。その血を受け継いだのであろう、カルロスもリハーサルに膨大な時間を費やし、本番までに満足できなければ公演をキャンセルするなど、究極の完全主義者と呼ばれた。だが、けっして暴君として楽団員の上に君臨したのではなく、自己が求める音楽的な高みにオーケストラの演奏レベルが達する事が出来なければ、「作品と作曲者への冒涜」となるとして、音楽と真摯に向き合った態度が生んだ公演中止だった。
クラシック音楽には星の数ほど作品があるが、カルロスは一曲を完成させるまで、作曲家本人の自筆譜を研究するなど練りに練るため、レパートリーが極端に少ない。演奏記録が残っているのは30曲にも満たない。特定楽器のソロの演奏者ではなく、様々な作品と触れる機会が多い指揮者であるのに、少数の限られた楽曲しかタクトを振らなかった。人気曲をいろいろ録音してレコードを売れば莫大な利益が入ってくると分かっていても、カルロスはお金のために自己の芸術を表現することは一度もなかった。
 
〔 カルロス・クライバー 全レパートリー27曲 〕
●ハイドン…交響曲第94番「驚愕」   ●モーツァルト…交響曲第33番、第36番「リンツ」
●ウェーバー…魔弾の射手       ●シューベルト…交響曲第3番、第8番「未完成」
●ブラームス…交響曲第2番、第4番 ●ヨハン・シュトラウス…こうもり、ウインナーワルツ
●プッチーニ…ラ・ボエーム       ●R.シュトラウス…英雄の生涯、ばらの騎士
●バタワー…イギリス田園詩曲第一番 ●ベルク…ヴォツェックからの三つの断章
●ドヴォルザーク…ピアノ協奏曲   ●マーラー…大地の歌   ●ビゼー…カルメン
●ワーグナー…トリスタンとイゾルデ ●ヴェルディ…椿姫、オテロ ●ボロディン…交響曲第2番
●ベートーヴェン…コリオラン序曲、交響曲第4番、第5番「運命」、第6番「田園」、第7番
このうち、スタジオ録音はベートーヴェン「運命」「第7番」、ブラームス「第4番」、シューベルト「第3番&未完成」、ヴェルディ「椿姫」、ウエーバー「魔弾の射手」、ヨハン・シュトラウス2世「こうもり」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の9曲のみ。
 
上記のように、チャイコフスキー、バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーン、ブルックナー、シューマンの曲は、一曲もない。またモーツァルトにしても有名な交響曲第40番や「ジュピター」がないし、ドヴォルザークは「新世界」がない。ブラームスの交響曲第1番、マーラーの全交響曲、ワーグナーの「指輪」、ラヴェルの「ボレロ」など、音楽史の金字塔がごっそり抜け落ちている。裏を返せば、楽譜を血肉となるまで読み解き、作曲者の真意を完全に理解したという確信が持てない曲を、彼が振ることはないということだ。カルロスが指揮台に立った時は、それだけで120%名演になることが約束されたようなもの。それゆえ、クラシック・ファンや批評家だけでなく、多くの音楽家仲間からも絶対的な信頼を得ていた。
厳選されたレパートリーを極限まで掘り下げ、時には圧倒的なスピード感と切れ味抜群のリズム感で聴衆を熱狂させ、また時にはとろけるように優美な音色と鮮やかな色彩感で、聴衆だけでなく楽団員までも恍惚&至福の世界に導いた。その指揮棒は、バレエのごとく優雅かつ流麗に宙を舞い、誰もが認めるカリスマだった。
 
※正規に発売された音源はわずかだけど、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、ブラームスの交響曲第4番は、過去にも未来にもカルロスの演奏を超えるものはないと思っている。僕が個人的に最も無念なのは、カルロスがベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」、そして人類史上最大最高の名曲、第九番「合唱つき」を振らないうちに旅立ってしまったことだ!なんてこった!カルロスは周囲からどれだけ「第九」の指揮を請われても、「今の私ではまだ振れない」「時期尚早だ」と首を縦に振らなかった…。謙虚すぎるよ(涙)。ベートーヴェンがこの世界と人類を黄金の精神で全肯定した第九を、音楽を通して生命の賛歌を歌い上げていたカルロスが指揮していれば、宇宙消滅の日まで語り継がれる伝説の名演になるハズだった…。
 
1989年にカラヤン、1990年にバーンスタイン、1997年にショルティという、偉大なマエストロたちが亡くなり、ついにカルロスまで去った。カルロスが亡くなった2004年7月13日で世界は大きく変わったのに、その死はテレビや新聞でトップ・ニュースになることもなく、国連が喪に服そうと呼びかけることもなく、人々はいつもと変わらぬ日常を送っている。天体の運行も変化ナシ。太陽は今日も東から昇り西へ沈む。これでいいのか。地球はたとえ数分間だけでも自転を止めて黙祷すべきだッ! (>_<) ワーッ
普通の指揮者なら、リハーサルで「ニコチン」や「空手チョップ」を引き合いに出さない。だけど、僕が演奏家ならこんな人の指揮の下で演奏したいし、聴衆としては同じ曲を聴くのならこういう熱いハートを持った指揮者の演奏を聴きたい。カルロスが生れてきてくれて、人類は本当に幸運だった。もしあの世があるのなら、そこでこそ「第九」を聴かせてもらいますッ!!
 
●墓巡礼
墓巡礼を長く続けていると、奇跡のような偶然が重なってたどり着けた、そんな墓も多い。カルロス・クライバーはその典型。
2004年7月にカルロスが他界した後、僕はどこにお墓が建てられるのか、ネットで情報を探し続けた。半年ほど経って海外の墓マイラー交流サイトで「クライバー氏の墓はスロヴェニアの首都リュブリアーナの郊外、コンスィツァ村」と書かれているのを発見した。「ス、スロベニア?」。スロベニアの方には申し訳ないが、すぐに場所が浮かばない。世界地図を広げると、イタリアの西側に位置し、旧ユーゴスラビアから1991年に独立した新しい国だった。面積は2万平方キロで北海道の4分の1ほど、人口は栃木県と同じくらいの約200万人。首都のリュブリアーナも地図で確認できた。問題はコンスィツァ村だ。あまりに小さな村で地図には載っていなかった。今ならネットですぐに場所も分かるけれど、グーグルマップ日本版が公開されたのは2005年7月14日であり、それ以前は外国の村の場所を特定するのは極めて困難だった。
「とにかくスロベニアに行くしかない、あとは現地調査だ」。飛行機で欧州に向かい、鉄道でイタリアからスロベニアに入った。この国はカルロス夫人の故郷。首都リュブリアーナで下車し、鉄道案内所でコンスィツァ村の最寄り駅を聞いた。答えは「そんな村は聞いた事がない、バスで行け」。僕は言われるがまま、駅前のバスロータリーに向かい、案内所で村に向かうバスがあるか聞いた。窓口にいた無精ヒゲのワイルドな中年男性は「知らない村だ」と肩をすくめた。ローカルの地理情報に誰よりも詳しいはずのバス案内所の人が知らない…僕は「リュブリアーナの郊外」というネット情報自体が嘘ではないかと疑い始めた。すると、その中年男性が「あっ」という表情をして人さし指を立て、「ちょっと待て、そう言えば…今朝のこの新聞に…あった!」と見せてくれたのが、『クライバー記念館(Spominska Soba CARLOSA KLEIBERJA)が昨日開館』という小さな記事。なんと一回忌に合わせて村に建てられたというのだ!「ほら、ここにお墓が近くにあると書いてある」。スロベニア語はまったく読めないけど、男性のその言葉に心が踊った。記事を切り取ってくれたので、大切にパスポートの間に挟む。時間は午後5時。今からだと仮にバスがあったとしても、帰りの最終バスに間に合わないらしく、安宿を探して1泊した。
翌朝、首都最大の旅行案内所が8時にオープンすると聞き、7時半に宿を出た。“あの新聞記事はコンスィツァ村の場所を調べる大きな手掛かりになる”、そう思うと自然と早足に。
 
観光案内所に入ると他に観光客はおらず、男女の職員が談笑していた。さっそく例の新聞記事を見せると、「ふむふむ、クライバー記念館…」とパソコンで調べてくれたが、今ほどネット回線が整っていないため検索に時間がかかった。15分ほどしてて、女性職員が「あったわ!」と、同館の公式サイトを発見、男性職員が記念館に電話をかけ行き方を尋ねてくれた。
やはりコンスィツァ村には公共交通機関が通っていなかった。電話はしばらく続き、僕の不安げな表情を見た男性職員が、受話器を片手で持ったまま、右手の親指を立てて“安心しろ”とサインを送ってくれた。電話を切ると「OK、よく聞くんだ」と説明が始まった。「クライバー記念館の館長が、君を最寄の鉄道駅から車で送迎してくれることになった。リティヤ(LITIJA)駅に着いたらこの番号に電話するんだ。駅から村までは20kmだ」。仰天した。なんて優しいんだ!
リュブリアーナ駅に戻り、ローカル線に乗って30分、首都から30km東のリティヤ駅に到着した。
僕はホームに降りて絶句した。電話も何もない無人駅だった!しかも土砂降りの雨。“どうやって館長に電話すれば…”。待合室の壁面に貼られたスロベニアの地図の前で、「Konjsica(コンスィツァ)」の文字を探したが…見つからない。途方に暮れて「これは困ったな…」と呟くと、突然背後から日本語で「ドウシマシタ?」と声をかけられた。「えっ!?」。そこには青い瞳のイケメン青年が立っていた。「ニホンゴ、ワカリマス」。腰を抜かした。彼はスロベニアの大学で日本語を専攻しており、「ニホンジンヲミタノ、ハジメテ」とのこと。僕がクライバー記念館に行くために電話を探していることを話すと、彼はニッコリ笑って「デンワハ、ココニアリマス。ボクニ、マカセテクダサーイ!」と自分のケータイを取り出し、僕の代わりにかけてくれた!彼の名前はドゥシャン君。間もなく次の電車がやって来たので、彼をプラットホームまで見送った。別れ際、握手をして「ヨイ、タビヲ」と彼。「ドゥシャン君、ファーラ!(ありがとう)」。奇跡の出会いだった。
 
電話をかけてから半時間、白い車が駅前に乗り付け、眼鏡をかけた中年男性がやってきた。館長の名前はマルコさん。いわく「一昨日は記念館の開館式のイベントがあった。昨日は誰も来なかった。今日も誰も来ておらず、関係者以外では君が来館第1号だ」。霧雨の山道を車は進み、20分でコンスィツァ村を示す標識が見えた。村は東西に200mほどしかなく、民家が点在するなか中央に教会があり、隣接してクライバー記念館が建っていた。
中に入るとカルロスが世界各地で指揮台に立っている写真のほか、夫人と散歩しているプライベート写真、レコードアルバム、活動を紹介した新聞記事、自筆のサインなどが展示されていた。マルコさんは「こういうのもあるよ」と『カルメン』のDVDをテレビに映してくれた。カルロスの演奏を聴きながら写真を見ていると、一年前に旅立ったマエストロの存在を近くに感じた。
その後、マルコさんの案内で教会墓地へ。30基ほどの墓石が並ぶなか、クライバー夫妻の真新しい墓が敷地の端に建っていた。白い墓石に金色の文字で夫妻の名と生没年が刻まれていた。墓前には色とりどりの花が咲いており、山あいの静かな村の墓地で、風や鳥の声を聴きながら2人は眠っている。カルロスの墓に素晴らしい音楽体験の感謝を伝え、1986年の大阪公演以来18年ぶりの再会であること、ここに来るまで奇跡の連続であったこと、夫妻が当地に眠っていればこそ出会えた人の縁を報告した。
 
〔墓地の場所が不明という状態から、墓前に立つまでの6つの奇跡〕
(1)スロベニアを訪れた日が、たまたまクライバー記念館の開館翌日
(2)バス案内所のおじさんが、記念館の開館式の新聞記事を見て、お墓と記念館が同じ村と気づき、僕に教えてくれた
(3)その新聞記事のおかげで、観光案内所の職員が出来たばかりの記念館のサイトを発見、正確な住所がわかる
(4)記念館の最寄り駅からはバスもタクシーもなかったが、観光案内所の親切な職員が館長と交渉してくれ、車で送迎してもらえることに
(5)最寄り駅に移動するも無人駅で電話もなく、館長に到着を連絡できず頭を抱える。たまたま後ろに日本語を話せる青年がいて、携帯で連絡してくれた。スロベニアの田舎の駅で日本語で会話しているあり得ない状況。
(6)駅から山道を車で20分、館長がマイカーで送迎してくれた。館長は他にも文化事業の仕事をしており、翌日なら送迎できなかったとのこと。
 
※カルロスはベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」をアルトゥーロ・ミケランジェリとリハーサルしていた。レコーディングして欲しかった!
※カラヤンはカルロスのことを「正真正銘の天才」と認めていた。
※バーンスタインはカルロスが指揮したプッチーニの『ラ・ボエーム』を「最も美しい聴体験の一つ」と絶賛。
※バーンスタインいわく「カルロスは“庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、眠りたいだけ”と言っていた」。
※エーリヒ・クライバーの墓はスイス・チューリヒの「Friedhof Honggerberg」にある。同墓地にアインシュタインの次男エドゥアルト・アインシュタインの墓もある。
※毒舌で知られる大指揮者チェリビダッケは、カール・ベームのことを「芋袋」と呼び、カラヤンのことも散々にこき下ろした。これに心を痛めたカルロスは、オリジナル・スコアのテンポにこだわったトスカニーニに扮して“天国”から次の電信を打った「ブルックナーは“あなたのテンポは全て間違っている”と言っています。天国でも地上のカラヤンは人気者です」。
※スロベニアは2007年にユーロを導入しており、独自通貨に両替しなくても良くなった。それだけで随分旅行しやすくなっているはず。



★ヘルベルト・フォン・カラヤン/Herbert von Karajan 1908.4.5-1989.7.16 (オーストリア、アニーフ 81歳)1994&2015 指揮者
Friedhof neben der Pfarrkirche Anif, Anif, Salzburg-Umgebung Bezirk, Salzburg, Austria







瞑想する帝王 墓所近くのカラヤン像 この教会墓地に眠っている



1994 2015 後方、ツタの葉が増殖 名前がギリギリ見える

初巡礼時!ハハーッ! 21年ぶりの再会。故郷ザルツブルグ郊外の片田舎にて
撮影を頼んだ現地の老夫婦は、墓への土下座にシャッターを切るタイミングが分からず固まってしまった(1994)

クラシック界で“帝王”と呼ばれた指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)は1908年4月5日にオーストリアのザルツブルクで生まれた。父は騎士。4歳からピアノを始め、地元やウィーンの音楽院で学ぶ。ピアノを弾いているうちに、「自分が表現したいものは両手だけでは足りない」と気づき指揮者の道へ。1926年、18歳でザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー、翌年にドイツのウルム市立歌劇場指揮者に就任しオペラ・ビューも果たした。収入は少なく、ソーセージが少しでも手に入ると喜んでいた。2年後に『フィガロの結婚』を成功させて注目される。1933年(25歳)、ヒトラーが首相に就任すると青年カラヤンはナチスに入党。後年、これを後悔し、「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」「重要ポストを手に入れるためにはナチ党員である方が有利だった」と振り返った。同年、ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮。
1937年(29歳)、ブルーノ・ワルターの招きでウイーン国立歌劇場にデビュー。
1938年(30歳)、4月にベルリン国立歌劇場で指揮したワーグナー『トリスタンとイゾルデ』が“奇跡のカラヤン”と評されるほどの大成功となり内外で認められた。同年、アーヘン歌劇場の人気オペレッタ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚(3年後に離婚)。翌年、正式にベルリン国立歌劇場指揮者になった後、ウィーン交響楽団の首席指揮者に就任。この年、ベルリン・フィルと始めて組み、ブラームス『交響曲第4番』を指揮。また、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮してモーツアルトの歌劇『魔笛』序曲を初レコーディングした。1942年、ユダヤ系(クォーター)のアニータ・ギュンターマンと再婚。ユダヤ系の女性と結婚することはリスクがったがカラヤンは入籍した。この結婚の件でナチから呼び出されたカラヤンは離党を表明したが、ナチの党員名簿から削除されなかった(ナチが党のイメージダウンを懸念したと思われる)。ヒトラーが観劇したカラヤン指揮のオペラは出演者の不調で精彩を欠き、ヒトラーから低い評価を受けたことで、かえって親密にならずに済んだ。
1945年(37歳)にドイツ敗戦。カラヤンは非ナチ化裁判で無罪判決が出るまで2年間活動禁止になり、1947年にウィーン・フィルのブルックナー『交響曲第8番』を指揮して楽壇に復帰した。

1949年(41歳)にウィーン楽友協会の音楽監督に就任、1951年(43歳)に楽友協会の終身芸術監督に昇格し大きな話題となった。この年、戦後初めて開催されたバイロイト音楽祭のメインの指揮者として抜擢されるが、翌年の同音楽祭で極度に簡素化された前衛的な舞台セットに反発、演出担当のヴィーラント・ワーグナーと対立し2度とバイロイトで指揮台に立たなかった。また、フルトヴェングラーは若いカラヤンの人気に嫉妬して活動を妨害したといい、カラヤンはベルリン・フィルの首席指揮者につくまでの16年間に、たった10回しか同フィルの指揮台に立たせてもらえなかった。
1954年(46歳)、単身初来日してNHK交響楽団のチャイコフスキー『悲愴』を指揮(生涯に通算11回来日)。同年11月30日、ベルリン・フィルの終身指揮者としてドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが68歳で急逝し、後任は前・首席指揮者のチェリビダッケが就くと思われたが、楽団員はリハーサルを延々と行うチェリビダッケの極端な完璧主義に疑問を抱いており、また直前のリハーサルで大きな衝突が起き、その独裁的傾向に楽団員は反発していた。翌1955年2月の初のアメリカ公演には米側の意向もあってカラヤンが指揮者に抜擢され、カラヤンの47歳の誕生日(4月5日)にベルリン・フィルの常任指揮者・芸術監督に就任、翌年「終身指揮者」に選ばれた。ベルリン・フィルの100年を超える歴史において終身指揮者に選出されたのはフルトヴェングラーとカラヤンだけだ。
※チェリビダッケはあまり関係なく、アメリカの公演先が「フルトヴェングラーの代役は人気のカラヤンしかいない」と要求、カラヤンは「終身音楽監督にしてくれるなら米国での指揮を引き受ける」といって終身音楽監督の地位を手に入れたという説もある。

1956年(48歳)、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任し、ウィーン・フィルとベルリン・フィルという共に世界最高峰のオーケストラを同時に率いる地位に登りつめ、人々はカラヤンを「帝王」と呼び始める。
1957年(49歳)、カラヤン&ベルリン・フィルの組合せでは初めての来日。ワーグナー、ブラームスを演奏し、N響と合同で運命交響曲も演奏した。
1958年(50歳)、アニータと離婚、そしてディオールのトップ・モデル、フランス人エリエッテ・ムレーと3度目の結婚をした。エリエッテはカラヤンが他界するまで30年間カラヤンを支えた。
1959年(51歳)、ウィーン・フィルと世界ツアーを敢行、このタッグでは最初で最後の日本公演を行った。カラヤンはベルリン・フィル楽団員の国際化を進め、同年にヴィオラ奏者の土屋邦雄を日本人初の団員として迎えた。翌年、長女が生まれ52歳にして初めて親となる。
1963年(55歳)、第2次大戦中に焼失した旧フィルハーモニーにかわって、ベルリン・フィルが現在本拠地とするホール、新フィルハーモニーが完成。
1964年(56歳)、ウィーン国立歌劇場の総監督と対立して芸術監督を辞任。12月にスカラ座でヴェルディ『椿姫』(演出フランコ・ゼッフィレッリ)を指揮したところ、ヴィオレッタ役のミレッラ・フレーニの喉が不調で何度も野次がとび、カラヤンにしては珍しく失敗した公演となった。スカラ座の『椿姫』は1955年にマリア・カラスがジュリーニ指揮で伝説の名演を残しているため、人々はカラヤンの失敗を「マリア・カラスの呪い」と呼び、以後スカラ座では1992年に音楽監督のムーティが上演するまで28年間も『椿姫』は封印された。1965年からクラシック音楽の映像化事業に着手、映画フィルム・プロダクションを設立した。
1967年(59歳)、“帝王”にも思い通りに出来ないことがあった。大好きなワーグナーの楽劇の理想的な上演だ。バイロイト音楽祭とは1952年にケンカ、ウィーン国立歌劇場とは1964年に対立し、実力を出せる場所がなかった。カラヤンは手兵のベルリン・フィルをオーケストラ・ピットに入れることを考え(ベルリン・フィルは通常入る機会がない)、自身が目指す上演環境を手に入れるため、ザルツブルク祝祭大劇場を会場とした「ザルツブルク復活祭音楽祭」を創始した。これは夏のザルツブルク音楽祭に対して、春のザルツブルクの代名詞となった。
1972年(64歳)、ベルリン・フィルの団員養成を目的としたカラヤン・アカデミーを創設。1977年、ウィーン国立歌劇場に復帰。
1981年(73歳)、ザルツブルク復活祭音楽祭でオーディオ会社と一緒にCD発表会を開催し、CD技術を初めて世界に披露した。
1982年(74歳)、『ベルリン・フィル100周年記念コンサート』でカラヤンは英雄交響曲を指揮、気迫の名演となる。自身の映像制作会社テレモンディアルを設立し、ベートーヴェン交響曲全集などの映像化に着手。

1983年(75歳)、ベルリン・フィルは1882年の創立以来101年間、メンバーは男性のみで女性団員は一人もいなかった。首席クラリネット奏者が空席になったため、楽団はオーディションを実施、カラヤンは24歳の女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの演奏技術を評価し、彼女を入団させようとした。これまでベルリン・フィルのメンバーはカラヤンに大きく逆らうことはなかったが、この件では激しく抵抗し、マイヤーはベルリン・フィル入団を諦めた。この騒動でカラヤンとベルリン・フィルに隙間風が生じ、カラヤンはウィーン・フィルとの関係を強化していく。
カラヤンは楽団員の集中力を高めるため、指揮をする際は目をつぶってきたが、脊椎の持病や脳梗塞の後遺症もあって、この頃から目を開いて指揮することが増えていった。この年、ベルリン・フィルの日本人初のコンサートマスターとして、入団6年目の安永徹が選ばれた。安永は2009年まで26年の長きにわたって第1コンサートマスターを務める。
1988年4月29日から5月5日にかけてベルリン・フィルと最後の来日。大阪のザ・シンフォニーホール、東京のサントリーホール、東京文化会館で公演。ムソルグスキー『展覧会の絵』、チャイコフスキー『悲愴』、ブラームス『交響曲第1番』などが演奏された。最終日のブラームスは、奇しくも1954年に日本で初めて指揮をした曲だった。
※ちなみに当時20歳の僕は4月30日のシンフォニーホール『展覧会の絵』のチケットを入手すべく、前売りチケット発売当日に買いに行くも発売直後に売り切れてゲットできず、公演日に当日券を買うために早朝からシンフォニーホールに並んだものの、50メートル先で当日券が売りきれるという悲劇を味わいました…。「次こそは絶対の絶対に!」と決意したけど、まさか翌年に他界してしまうとは。

1989年4月23日、楽友協会でウィーン・フィルが演奏したブルックナー『交響曲第7番』を指揮、これが生涯最後のステージとなった。翌日、カラヤンは34年務めてきたベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を、健康状態の悪化と団員との不和を理由に辞任する。3カ月後の7月16日、ザルツブルク近郊アニフ村の自宅をソニーの大賀典雄社長(当時)が訪問し、次世代のデジタルビデオ・カメラなどの話をしていると、カラヤンが急にぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心不全のため急逝した。享年81。前日にヴェルディの歌劇『仮面舞踏会』のリハを行い、大賀と会うまでベッドで『仮面舞踏会』のスコアに目を通しており、突然の死だった。ベルリン・フィルと最後に演奏した曲はヴェルディ『レクイエム』。急死していなければ、ウィーン・フィルと来日公演を行い、ウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったという。

圧倒的なカリスマで「帝王」と畏敬され、流麗なレガートによる“カラヤン美学”を築き上げたカラヤン。カラヤン以前、指揮者の派手な動きは戯画でコミカルに描かれていたが、カラヤンは目を閉じて魔法をかけるような動きでタクトを振り、その神秘的なシルエットは漫画の対象になり得ぬものだった。カラヤンは“左手”を巧みに使って楽団員のベストの音を引き出した。時代の寵児となったカラヤンは、自家用ジェット機を自ら操縦して別荘へ向かい、フェラーリやポルシェを疾走させ、黒を基調にした服装と白いマフラーをスマートな身体にまとい、19世紀の髪の毛がモジャモジャの音楽家のイメージを一新させた。

カラヤンはオーケストラの音色をシルクのように滑らかに、美しく響かせることにこだわった。同時にコントラバスを増強し低音パートを充実させて音に厚みをもたせ、金管にはシャープな音を求めた。こうしてベルリン・フィルは室内楽的緻密さと、迫力あるサウンドの両方を手に入れた。ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツいわく「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」。
カラヤンとベルリン・フィルは膨大な数のレコーディングを行った。デジタル録音など最新のオーディオ・テクノロジーに高い関心を持ち、来日のたびにソニー創業者のひとり盛田昭夫会長(当時)の自宅を訪ね、応接間で実験段階のデジタルサウンドを聴いた。1938年の初録音から他界する1989年までに500タイトルものディスクを収録した。
カラヤンの美を追求した緻密な音作りは、一部の批評家から「表面的な美しさばかり追っている」と批判されたが、世界的な大指揮者となっても、行進曲や序曲といった小品を愛し、ヨハン・シュトラウスのワルツを好んで演奏するなど、親しみやすい曲でクラシック音楽を大衆の音楽にしてくれた。1960年代以降はステレオLPを次々と発売し、「音楽のセールスマン」「大衆に媚びている」と揶揄されたが、カラヤンは1973年のインタビューにこう答えている。「音楽は会員制クラブのような一握りの人だけのものであってはならないのです。私は地域にオーケストラがなくて演奏会に行けない世界中の人々に良い音楽を届けたいのです。音楽を分かち合いたいのです」(NHK『日本人とカラヤン』)。「一つのオペラを映画に撮る方が舞台で上演するよりはるかに費用がかかります。しかし私たちが最上の映画を作れば、今までオペラに接したことがない人にもその真価が伝わり、また楽しんでもらえるでしょう」とも。
※実際、オペラのように高価な公演はおいそれとは手が出ないもの。そもそもカラヤン&ベルリン・フィルのチケットなんて入手困難。でもレコードがあるおかげで、様々な作品を家庭で楽しむことが出来る。大作曲家の音楽だけでなく、小さなワルツまで当代最高のオーケストラで演奏してくれて本当に感謝している。

「私たちの職業において、華麗に演奏することやテクニックに熟達することは、さして難しいことではありません。最終的な手段として本当に重要なのは指揮者の人間性なのです。なぜならば、“音楽は人間が人間の為に創るもの”だからです。音符以上のものを見出さなかったら、それがいくら興味深いものだとしても人間を豊かにはしません。音楽の目的はただひとつ、人間を豊かにし、様々な意味合いで人間が失ったものを取り戻すことなのです」(カラヤン)

※カラヤンの登場以前、パリでワーグナーの作品が仏語で上演されるなど、欧州ではオペラ上演の際に現地の言葉に翻訳されるのが一般的だった。カラヤンはウィーン国立歌劇場の芸術監督時代に原語上演の改革を開始、今では言語上演が常識になった。これもカラヤンの大きな業績だ。
※カラヤンは11回も来日しており、2008年放送『日本人とカラヤン』(NHK)の記録映像でこう話している。「私にとっては日本が第二の故郷で、用があってヨーロッパを何度か往復しているといった感じなのです。私にとっては日本が我が家同然なのです。日本の聴衆との出会いは、私がこの世で経験した最も素晴らしいものの一つでしょう」
※カラヤンはどの角度から自分を撮影すれば最もクールに見えるか分かっており、演奏中でもインタビューでも、指定した角度からしか撮らせなかった。ライティングの位置もカラヤンが指示した。
※カラヤンが目をつぶって指揮することにベルリン・フィルのメンバーが戸惑うと、「じきに慣れるさ」と本当に慣れさせた。
※音楽監督は、人事権を持つ首席常任指揮者。
※ウィーン国立歌劇場楽団の一流奏者で構成されるウィーン・フィルは、伝統的に楽団員が自主運営しており、常任指揮者や音楽監督を置いていない。演目ごとに指揮者を自分たちで選ぶ。
※カラヤンはオペラの役柄によって歌手に容姿の美しさを求めた最初の音楽監督。「サロメという女は20歳になっていない。従って、若くて細身の魅力ある歌手がいて初めて成立するオペラなのだ」(1977年、ザルツブルク音楽祭)。
※ベルリン・フィルの指揮台には、ブラームス、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、グリーグの他に、ハンス・リヒター、フェリックス・ワインガルトナーらが立っている。
※カラヤンのレコードはよく売れたが、中でも「運命」と「未完成」のカップリングLPは、生前に日本で約150万枚を売り上げた。
※東京のサントリーホールはベルリン・フィルハーモニー(ホール)をモデルにしており、カラヤンは設計段階から建設に携わっている。同ホール前は「カラヤン広場」と命名された。
※カラヤンに否定的な意見。音楽評論家・岩井宏之「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の"切なさ"を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。(中略)カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった」
※CDの記録時間となった「74分」は、カラヤンが自身の第九が1枚に入るよう求めた結果という説がある。僕もその話を新聞の日曜版か何かで読んで印象に残ったのだけど、どうやら少し違っていて、CD開発元のオランダ・フィリップス社とソニーが記録時間を決定する際、「60分」を主張するフィリップス社に対し、大抵の交響曲やオペラの一幕が収まる「74分」にこだわったソニーの大賀典雄(当時副社長/CD開発事業統括)はやむなく「巨匠カラヤンもそう望んでいる」と言い放ち、かくして74分になったという。その意味でカラヤン(という名)が実現させたといえる。一方、フィリップス社は「カラヤンの第九は66分なので、1951年にバイロイトで演奏されたフルトヴェングラーの第九の74分を基準にした」と主張しているとのこと。
(参照)https://www.kanzaki.com/music/cahier/cd74min
※1995年にアダージョ楽章を集めて発売された「アダージョ・カラヤン」が大ヒット、当時僕も買いました。
※カラヤンの死を目の前で看取った大賀典雄は、偶然にもカラヤンと同じ81歳と3カ月で他界。

【墓巡礼】
帝王カラヤンが“崩御”した日、ちょうど僕はベルリンで作曲家の墓を巡礼している最中だった。キオスクの新聞は軒並みトップ記事がカラヤンに関するものだったので、宿の主人に何があったか尋ねると「カラヤン・イズ・デッド」。翌日、ベルリン・フィルの活動拠点“ベルリン・フィルハーモニー”を訪れた。シーズンオフで静かにたたずむ黄色い建物に向かい、カラヤンに御礼の言葉を捧げた。
カラヤンの墓があるアニフ村(Anif)にはザルツブルク市内から路線バスを使い25分で行ける。昔は55番で2005年に25番に変わったらしく要確認。バス停の名前は「Anif Freilacher」。そこから徒歩3、4分でカラヤンが眠る教会「Pfarrkirche」に着く。教会の側にはカラヤンの銅像も建っている。生前のカラヤンは高級スポーツカーを乗り回すなど派手な生活を送っていたけど、彼が自分で故郷アニフの教会墓地に用意した墓は、敷地の片隅にありとても質素なものだった。ザルツブルク市は巨匠に相応しい立派な墓地の提供を夫人に提案したが、夫人は故人の遺志を尊重して断ったという。1994年の初巡礼で見たお墓の鉄枠の十字架は、2015年は植物で完全に覆われていた。

〔参考資料〕『マエストロ・イン・デモクラシー〜ベルリン・フィルの選択』(NHK/Euro Arts共同制作)、『大作曲家は語る』(小林利之編/東京創元社)、『日本人とカラヤン』(NHK)、『名曲事典』(音楽之友社)、『音楽家の恋文』(クルト・パーレン/西村書店)、『大作曲家の知られざる横顔』(渡辺学而/丸善)、『リストからの招待状』(渡辺学而/丸善)、『中央・墓標をめぐる旅』(平田達治/集英社新書)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』(ブリタニカ社)、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト社)、ウィキペディアほか。
※カラヤン指揮ベートーヴェン『運命』の冒頭部分動画。まさにカリスマ。



★ハンス・フォン・ビューロー/Hans von Bulow 1830.1.8-1894.2.12 (ドイツ、ハンブルク 64歳)2015 指揮者、ピアニスト
Ohlsdorfer Friedhof, Ohlsdorf, Hamburg-Nord, Hamburg, Germany



若き日 ワーグナー夫人の
最初の夫でもある
世界最大の公園墓地に眠る


小道を少し入った場所に眠っている 巨匠の墓らしい立派なたたずまい 墓石の上部にニキシュのレリーフ

お墓の手前の石板が感動的→

指揮者29人の贈り物!
拡大画像
マエストロの後ろ姿


ハンス・フォン・ビューロー(Hans von Bulow)は1830年1月8日にドレスデンで生まれた。9歳の時に、シューマンの義父で著名音楽教師のフリードリヒ・ヴィークにピアノを師事。ヴィークは娘クララ(シューマン夫人)を当時世界最高の女性ピアニストに育て上げた人物。ビューローはピアノの才能を見せたが、両親が法律の道に進むことを希望したため18歳でライプツィヒ大学に入って法律を学ぶ。翌1849年、ワーグナー(36歳)がドレスデンで革命運動に参加して国外追放となった。
1850年、20歳のビューローはワーグナーの音楽に心酔するワグネリアンとなり、音楽家として生きる道を選択。ワーグナーの亡命先スイス・チューリヒを訪れ、ワーグナーから指揮法を学び始めた。
1853年(23歳)、才能のある人間しか弟子をとらない大ピアニストのリストに認められてピアノを学び、コンサート・ピアニストとして楽壇にデビューした。将来を心配するビューローの親を安心させるため、リストやワーグナーはビューローの楽才を讃える手紙を書いた。
1857年に27歳で師リストの娘コジマ(20歳、1837-1930)と結婚し二児を授かる。コジマは哲学者ニーチェが絶賛するほど教養と優れた感受性を持っていた。
1861年(31歳)、ビューローはワイマールでリストの『ファウスト交響曲』を指揮。この時の感想をリストは後に知人に書いている。「あの時はオーケストラ全員がビューロー氏の途方もない記憶力にビックリしたものです。何しろ彼は、全曲完全に暗譜していたばかりか、リハーサルでも楽譜を使わずに、あらゆる部分を練習番号で正確に言及したのです」。
1862年(32歳)、約10年間国外追放になっていたワーグナーが恩赦で帰国し、ビューロー家とワーグナーとの交流が始まる。ワーグナーはコジマに惹かれ、コジマもまた少女時代からワーグナーのファンであり、2人の不倫が始まった。
1864年(34歳)、バイエルン王国のミュンヘン王立歌劇場指揮者に就任。
1865年(35歳)、4月にワーグナーとコジマの間に長女が生まれ、ビューローはショックを受ける。2カ月後にバイエルン国王ルードウィヒ2世の命令を受けてワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の初演を指揮。翌年、コジマは子連れでビューローの元を去り、ワーグナーとスイスで同棲生活を始め、ワーグナーとの2人目の子を産む。
1868年(38歳)、ミュンヘンで全3幕の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演を指揮。ビューローはどんな気持ちでワーグナー作品を指揮していたろう。ワーグナーの熱心な崇拝者だったことから、妻の不倫を暗黙のうちに了承していたとの説もあるが諸説あり分からない。
1869年(39歳)、ワーグナーとコジマに3人目の子が生まれ、ビューローはコジマと正式に離婚。この後、ビューローはワーグナーから離れて、当時ワーグナー派と対立していたブラームスとの親交を深め、その作品を積極的に取り上げるようになる。
1875年(45歳)、チャイコフスキーからピアノ協奏曲第1番を献呈される。当初、チャイコフスキーはこの曲の初演者を名ピアニストのニコライ・ルビンシテインと考えていたが、先方から「陳腐な作品で演奏不可能」とこき下ろされ、かわりにピアノの名手としても知られていたビューローに贈ったところ、ビューローは「独創的で高貴」とこの作品を讃えた。チャイコフスキー宛の手紙「君の作品のすべての長所を挙げたらどれだけ時間がかかるか。この曲は作曲者だけでなく、この作品を味わう未来のすべての聴衆に対して“おめでとう”と言わずにはいられないほどの傑作です」。ビューローがピアニストとして挑んだ初演は大成功を収め、チャイコフスキーを代表する人気曲のひとつとなった。ちなみにビューローはブラームスの指揮でブラームスのピアノ協奏曲のソリストを務めたこともある。
1880年(50歳)、ドイツ中部マイニンゲンの宮廷楽団指揮者に就任し、第一級の楽団に育成。この頃からリヒャルト・シュトラウスが助手になる。
1885年(55歳)、ブラームスの交響曲第4番の初演をマイニンゲン宮廷管弦楽団が行う。指揮はブラームス本人、大太鼓をビューロー、トライアングルをリヒャルト・シュトラウスが担当するという後世から見れば非常に豪華な舞台だった。
1887年(57歳)、ビューローはブラームスの生まれ故郷ハンブルクに移住。この街はビューローが20代前半に初めてピアニストとして成功を収めた縁起の良い土地だった。この年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(5年前に創立)の2代目常任指揮者に就任し、ベルリン・フィルの演奏水準を飛躍的に向上させていく。
1891年(61歳)、自分の年の半分である若い作曲家マーラー(当時31歳/1860-1911)から、交響曲第2番『復活』の第1楽章をピアノで聴かされたビューローは「これが音楽だとしたら、私は音楽がわからないことになる」と語った。
1892年(62歳)、慢性的な頭痛によりベルリン・フィルの指揮者を引退。後年、ベルリン・フィルはビューローの名を冠した栄誉賞を作った。
1894年1月、医師から転地療養を勧められ、暖かい気候を求めてハンブルクからエジプトに移住し2月7日到着した。翌日に脳卒中の発作で倒れ、4日後の2月12日にカイロのホテルで他界する。享年64歳。亡骸は防腐処理されてハンブルグに運ばれ、3月29日に葬儀がハンブルクで執り行われた。ビューローが遺言に従って火葬される際、マーラーの指揮でベートーヴェンの『英雄交響曲』が演奏され人々を感動させた。葬儀に参列する前、マーラーは作曲中の交響曲第2番『復活』の終楽章に適した歌詞が見つからず行き詰まっていたが、葬儀で詩人クロプシュトックの『復活』賛歌を聞き、歌詞に使うことを決心、後日壮大な最終楽章を完成させる。マーラーはこの体験を「聖なる受胎」と語っており、ビューローの死がなければ傑作『復活』のクライマックスは異なるものになっていたかも知れない。

ビューローは今日音楽の授業で習う「ドイツの3大B」=バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを選んだ人物。ブラームスの交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲『第10番』」と呼んだのも有名だし、交響曲第2番を「ブラームスの『田園』」とも評している。他にもバッハの平均律クラヴィーア曲集をピアノ音楽の「旧約聖書」、ベートーヴェンの32曲のピアノソナタを「新約聖書」と呼んだり、ベートーヴェンの交響曲第7番を「リズムの神化」と語るなど、音楽ファンに馴染みの言葉はビューローのものが多い。ショパンに関しては『エチュード第23番 イ短調 作品25-11(木枯らしのエチュード)』のことを「完全なピアノ音楽」と激賞した。
ビューローには様々な逸話があるが、最もインパクトがあるのは「第九監禁事件」。彼は一般聴衆が音楽を深く理解するため教育的指導が必要と考え、いつも演奏前に客席に向かって「講義」をしていた。そして1時間以上もあるベートーヴェンの第九の演奏では、聴衆が途中で逃げ出せぬよう会場の扉に鍵を掛けさせたうえで、演奏後にもう一度繰り返し演奏したという。この事件をブラームスは「ベートーヴェンの第18番(9×2)」とからかった。

【墓巡礼】
2015年の夏、うっすらと霧が立ちこめる北ドイツのハンブルクを訪れた。中心部から北上すること10km、1877年に完成した公園墓地「オールスドルフ墓地」のV22地区にハンス・フォン・ビューローは眠っている。この墓地は「世界最大の墓地」として海外の墓マイラーには非常に有名だ。面積は400ヘクタールというから、実に甲子園球場100個分!そこに3万6千本の樹木が生い茂り、ハンブルク市民にとっては散歩に最適な緑のオアシスになっている。
アードルフ・ヒルデブラントが制作した中央の墓石は上部にビューローの肖像メダルがはめ込まれ、左右には休憩用のベンチがある。墓前には1978年に設置された石板があり、そこには「ビューロー氏に敬意を込めて」という言葉と共に、29人の有名指揮者の名前がギッシリと刻まれている。バレンボイム、ベーム、ブーレーズ、ドホナーニ、ヨッフム、クーベリック、コンドラシン、マゼール、ムラビンスキー、オーマンディ、ショルティ、サヴァリッシュ、ショスタコーヴィチ、スタイン、スウィトナー、テンシュテット等々。感動したのは、不仲が噂されたバーンスタインとカラヤンの名前が同じ空間にあったこと。世界のトップ指揮者たちが、ビューローという一人の大指揮者を偲んで、リスペクトの思いを重ねている…墓参するまでこの石板の存在を知らなかったので、全身に電気が走った。
※このオールスドルフ墓地には、ブラームスの義母カロリーヌ、姉エリーゼも眠っている。また電磁波の存在を初めて実証した物理学者のハインリヒ・ヘルツの墓もある。彼の名前は周波数を示す単位ヘルツに採用された。



★アルトゥール・ニキシュ/Arthur Nikisch 1855.10.12-1922.1.23 (ドイツ、ライプツィヒ 66歳)2015 指揮者
Sudfriedhof (South Cemetery), Leipzig, Leipziger Stadtkreis, Saxony (Sachsen), Germany//Plot: Section II

  

アルトゥール・ニキシュ(Arthur Nikisch)は1855年10月12日に現ハンガリーに生まれた。ウィーン音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、当初はヴァイオリン奏者としてウィーン宮廷歌劇場で演奏していた。1878年に23歳で指揮に転じ、ライプツィヒ歌劇場にて指揮者デビューを飾る。
1885年(30歳)、ブルックナーの交響曲第7番の初演に際し、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮。この初演を成功させるべく、ニキシュは演奏会の前にあらかじめ批評家達を招いてピアノで聴かせた。招待された作曲家ヘルツォーゲンベルクの夫人は反ブルックナー派であり、初演後にその体験を師ブラームスに「強制的におこなわれた種痘(天然痘の免疫療法)みたいにブルックナーの音楽を無理やり押しつけられた」と書いている。ブラームスの返事は「まぁ、落ち着いて」。
1888年(33歳)、この年に若いニキシュの指揮を見たチャイコフスキー(1840-1893)が後に回想記で触れている。「ニキシュの指揮は高名なハンス・フォン・ビューロー(当時58歳)のそれとは全く違ったもので、両者には微塵も共通点がなかった。ビューローは非常に激しい身体の動きで指揮していたが、ニキシュの指揮は不思議なほど静かで無駄な動作がまったくないのに驚くほど力強く、エネルギーにあふれて、それでいて自制の厳しさがあった。彼の指揮には、まるで指揮をしているのではなくて、ある神秘的な魔術に没入しているような雰囲気がある。聴取が指揮者の存在をほとんど忘れていられるのは、彼が人の注意を全然自分に向けようとしないからだ。しかし聴衆は、大編成のオーケストラの全メンバーがまるで一つの楽器のように巨匠の驚くべき手に操られて演奏し、自分から進んでそのリーダーから出される指令に従っていることを感じる。(中略)ニキシュは鋭く美しい眼を持っているが、この眼がオーケストラを統率し、呪縛する魔力のようなものを備えていて、その眼によってオーケストラはある時は千のラッパのごとく響き、ある時は息を潜めさせるような神秘的な響きでもって消えていく。しかもこういったことのすべては、ほとんど奴隷のように従順なオーケストラの上で静かに身体を揺さぶっている小柄な指揮者を、聴衆がちっとも気づかぬうちに行われるのだ」。
1895年(40歳)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団という2つ名門オーケストラの常任指揮者に就任。ベートーヴェンの演奏に定評があり、また、マーラーやリヒャルト・シュトラウスといった同時代の作品も積極的にプログラムに入れた。ドイツ語圏外の作曲家であるチャイコフスキーの作品も取り上げ、その普及に尽力。当時の作曲家たちは自身の作品がニキシュの手で神秘的な色彩を帯びていくことに驚いていたという。
1913年(58歳)、ベルリン・フィルはニキシュの指揮で最初の録音を敢行。選ばれたのはベートーヴェンの運命交響曲。ニキシュはロンドン交響楽団とも録音を行った。
https://www.youtube.com/watch?v=VcW3ZSbYPAs(31分) 1913年のベルリン・フィル最初の録音、ニキシュ指揮「運命」
1922年1月23日、指揮芸術の向上に尽くし、歴史的大指揮者と呼ばれるに至ったニキシュは66歳で他界。その14年後、1936年にピアニストで息子のミーチャ・ニキシュはナチの迫害を受けて自殺した。

【墓巡礼】
ニキシュの墓はバッハの街ライプツィヒの南墓地(Sudfriedhof)にある。バッハが眠る聖トーマス教会から南東に約5km。墓地内のエリアはセクション2。正門からそれなりに歩くし、広大な墓地ゆえ必ず管理人さんに地図をもらおう。とても感じの良い管理人さんでした。ウチの子はアメ玉をもらった。



★ジャクリーヌ・デュ・プレ/Jacqueline Du Pre 1945.1.26-1987.10.19 (イギリス、ロンドン郊外 42歳)2005
Golders Green Jewish Cemetery, Golders Green, London Borough of Barnet, Greater London, England

 

夭折の天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレは1945年1月26日にイギリス・オックスフォードで生まれた。父デレク、母アイリスは共に音楽好き。祖先はフランス沿岸のジャージー島出身ゆえデュ・プレというフランス風の姓に。4歳の時にラジオで聴いたチェロの音色に惹かれチェリストを目指す。当初は母からチェロを習い、翌年からはロンドン・チェロ・スクール(総長ジョン・バルビローリ、後援者パブロ・カザルス)で姉ヒラリーと共に学ぶ。
ジャッキー(デュ・プレの愛称)はみるみる楽才を発揮し、10歳で国際コンクールに入賞、ギルドホール音楽学校に進み、12歳でBBC主催のコンサートに出演した。
13歳の時に、エルガーのチェロ協奏曲の楽譜と出会い、4日間ですべて暗譜し弾きこなしたという。
1960年(15歳)、ギルドホール音楽学校のエリザベス女王特別賞を受賞。夏にスイス・ツェルマットでパブロ・カザルス(1876-1973 当時83歳)を講師に迎えて開催されたマスタークラス(チェロ講習会)に参加。
1961年、16歳のときにロンドンでプロ・デビューを果たし、ブラームス『チェロ・ソナタ一番』、バッハ『無伴奏チェロ組曲5番』を演奏し「天才少女チェリスト」と喝采を浴びた。この演奏は匿名の支援者から贈られた1673年製ストラディヴァリウスを使用した(後年このチェロは“ジャクリーヌ・デュ・プレ”と名付けられ、旧ソ連のチェリスト、ニーナ・コトワが所有)。同年、ヘンデル『ソナタ ト短調』、ファリャ『スペイン民謡組曲』をスタジオ録音。
※ヘンデル『ソナタ ト短調』 https://www.youtube.com/watch?v=LLqPTG-FZ-c

1962年(17歳)、3月にルドルフ・シュヴァルツ指揮BBC交響楽団とエルガーの『チェロ協奏曲』を初めて聴衆の前で演奏し成功を収める。そして夏にイギリス最大の音楽祭「プロムス」に初出演し、マルコム・サージェント(1895-1967)の指揮で同曲を再び演奏。荘厳かつ悲壮なエルガーのチェロ協奏曲を若い女性が弾きこなす鮮烈さから国民的人気を集め、以後、「プロムス」でエルガーの定番独奏者となる。ジャッキーはさらに演奏技術を高めるためパリに半年間留学し、フランスの名チェリスト、ポール・トゥルトゥリエに師事した。
この年は他にもブルッフ『コル・ニドライ』、バッハ『無伴奏チェロ組曲第1番、第2番』、ブラームス『チェロ・ソナタ第2番』(ライヴ)、メンデルスゾーン『無言歌ニ長調』、グラナドス『ゴイェスカス間奏曲』、サン=サーンス『動物の謝肉祭より白鳥』、パラディス『シチリエンヌ』、シューマン『幻想小曲集』、バッハ『トッカータ、アダージョとフーガ』よりアダージョ、バッハ『ソナタ ニ長調』を録音。
※バッハ『無伴奏チェロ組曲第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=1MXP5QORUow
※バッハ『トッカータ、アダージョとフーガ』よりアダージョ
https://www.youtube.com/watch?v=8mu3ErwUuOk

1963年(18歳)、クープラン『コンセール第13番』をスタジオ録音。前年に続いてパラディス『シチリエンヌ』、シューマン『幻想小曲集』を再録音。サージェントの指揮でエルガーのチェロ協奏曲を演奏。
1964年(19歳)、ストラディバリの傑作チェロといわれる1713年製“ダヴィドフ”を支援者に贈られる(当時8万4千ドル)。当チェロはかつてチャイコフスキーが「チェロの帝王」と命名したカルル・ダヴィドフが愛用していた。
1965年(20歳)、1月にサージェント指揮ロイヤル・フィルとディーリアス『チェロ協奏曲』を収録、これが初の協奏曲のレコーディングとなった。BBC交響楽団とのアメリカ演奏旅行でカーネギーホールの舞台に立ち、エルガーのチェロ協奏曲(指揮アンタル・ドラッティ)を演奏、評論家から「全盛期のカザルスに匹敵する」「デュ・プレとエルガーの協奏曲はお互いの為に存在しているようだ」と最大級の褒め言葉で激賞される。4月、6歳のときに通ったロンドン・チェロ・スクール総長で指揮者のジョン・バルビローリと初共演(オケはハレ交響楽団)し、エルガーのチェロ協奏曲を演奏。8月に再びバルビローリと共演し、ロンドン交響楽団とエルガーのチェロ協奏曲を録音、このEMI版は数種類あるジャッキーの同曲の音源の中で最高傑作の呼び声が高く、世界的な名声を得た。(バルビローリとは1967年にも収録しているので注意)
同年は他に、ブリテン『チェロ・ソナタ ハ長調』、ベートーヴェン『チェロ・ソナタ第3番、第5番』を録音。
1966年(21歳)、ロシアに留学しムスティラフ・ロストロポーヴィッチ(1927-2007)から4カ月間チェロを学ぶ。友人宅のクリスマス・パーティーで3歳年上の指揮者兼ピアニスト、ダニエル・バレンボイム(1942-)と出会う。ジャッキーの提案で2人はブラームスの『ソナタ第2番へ長調』を演奏した。
1967年(22歳)、1月にバルビローリ指揮BBC交響楽団と東欧やソ連でエルガーの協奏曲を演奏。3月、レナード・バーンスタイン指揮でシューマンのチェロ協奏曲を演奏。4月にバレンボイムと初共演し、バレンボイム指揮イギリス室内管弦楽団とハイドンのチェロ協奏曲を演奏、ジャッキーとバレンボイムは一気に愛が深まり婚約を発表し、クリスマスの出会いから半年が経った6月15日にイスラエル・エルサレムで結婚した。ジャッキーはユダヤ教に改宗。11月、チェリビダッケ指揮スウェーデン放送響とドヴォルザークのチェロ協奏曲をライヴ録音する。同年、ボッケリーニ『チェロ協奏曲第9番』、ハイドン『チェロ協奏曲第1番、第2番』を録音。

1968年(23歳)8月、チェコのプラハにソ連軍などワルシャワ条約機構軍が侵攻。ジャッキーとバレンボイムは「難民チェコ人を支援するためドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏する」と発表、演奏会の直前に脅迫を受けたが、警察に守られながらやり遂げた。この年、サン=サーンス『チェロ協奏曲第1番』、シューマン『チェロ協奏曲』、モン『チェロ協奏曲』、R.シュトラウス『交響詩ドン・キホーテ』、ブラームス『チェロ・ソナタ第1番、第2番』、ブルッフ『コル・ニドライ』を録音。
※ブラームス『チェロ・ソナタ第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=9XiYrzsgWto
※ブラームス『チェロ・ソナタ第2番』(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=ncJ_Gc9RES4

1969年(24歳)、4月にフォーレの名曲『エレジー』を録音。8月にシューベルト『ます』の公演に密着したドキュメンタリー映像を収録。年末から年明けにかけてピンカス・ズーカーマンのヴァイオリン、バレンボイムのピアノで、ベートーヴェン『ピアノ三重奏曲』から「大公」「幽霊」含む約10曲を集中的にスタジオ録音した。他にベートーヴェン『14の変奏曲』『カカドゥ変奏曲』録音。
※シューベルト・ピアノ五重奏曲『ます』演奏会の貴重なドキュメンタリー映像
https://www.youtube.com/watch?v=ZZdXoER96is#t=11m10s
→メンバーはジャッキー(チェロ)、バレンボイム(ピアノ)、パールマン(バイオリン)、ズーカーマン(ヴィオラ)、メータ(コントラバス)。本番前の楽屋でジャッキーがふざけてジャズメンの真似をしながらメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を伴奏、そこからメータが弓を持ち、パールマンがヴァイオリン本体を持ってギャグをやり、ジャッキーが爆笑する。

1970年(25歳)、バレンボイム指揮のシカゴ交響楽団とドヴォルザークのチェロ協奏曲と『森の静けさ』をスタジオ録音。また、バレンボイム指揮のフィラデルフィア交響楽団とエルガーのチェロ協奏曲をライヴ録音。他にもバレンボイムのピアノでベートーヴェン『チェロ・ソナタ全集(第1番〜5番)』、『「マカベウスのユダ」の主題による12の変奏曲』、『「魔笛」の主題による変奏曲』、『クラリネット三重奏曲』(クラリネット:ジェルヴァーズ・ドゥ・ペイエ)を録音。
1971年(26歳)、年明けにバレンボイム指揮のフィラデルフィア交響楽団とサン=サーンスの『チェロ協奏曲第1番』を共演。その後、指先の感覚が鈍くなるなど身体の異変が始まり、次第に満足のいく演奏が不可能になっていった。当初は原因が分からず心因性と判断され、予定をすべてキャンセルし休養する。12月に一時体調が快復したことから、ショパンとフランクのチェロ・ソナタを夫婦で録音しこれが最後のスタジオ録音となる。
1972年(27歳)、7月にチャイコフスキー『ピアノ三重奏曲”偉大な芸術家の思い出”』をバレンボイム、ズーカーマンとラジオ用にライヴ録音。
※チャイコフスキー『ピアノ三重奏曲”偉大な芸術家の思い出”』
https://www.youtube.com/watch?v=N1KBzJC_9no (43分)

1973年(28歳)、1月にバレンボイム指揮のクリーブランド交響楽団とラロのチェロ協奏曲をライブ録音。2月にズービン・メータ指揮のニュー・フィルハーモニア交響楽団とエルガーのチェロ協奏曲を共演(英国では最後の演奏会)。4月にバレンボイムやピンカス・ズーカーマンと初来日し、N響とドヴォルザークのチェロ協奏曲などを共演する予定だったが、体調不良のため急遽出演キャンセルとなり、プログラムが差し替えられた。秋に中枢神経が侵されていく「多発性硬化症」と診断されステージから引退。発症から2年という短期間で音楽家生命を断たれる。以降数年間はチェロの指導を行った。
※ラロ『チェロ協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=pu0oWLQugng

1975年(30歳)、エリザベス2世女王から大英帝国勲章(OBE)を授与される。バレンボイムがパリ管弦楽団の音楽監督に就任(ショルティの後任)。
1978年(33歳)、「ジャクリーヌ・デュ・プレ基金」設立記念コンサートでプロコフィエフ『ピーターと狼』にナレーターで参加。
1979年(34歳)、母校のギルドホール音楽学校でBBC用にマスターコース(レッスン)を4回行う。エリザベス皇太后から音楽博士の名誉学位を授与。ここから8年間は人前に出なかった。
1987年10月19日、ロンドンの自宅にて永眠。多発性硬化症の進行によって最後は話すことも出来なくなり、視力も衰え、14年の過酷な闘病生活の果てに42歳の若さで他界した。2日後ユダヤ式の葬儀が執り行われた。ジャッキーの死後、愛器“ダヴィドフ"はヨーヨー・マに貸与されている。
他界翌年の1988年、バレンボイムはユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワと再婚。エレーナはギドン・クレーメルの前妻。バレンボイムはジャッキーが没する前からパリでエレーナと同棲しており、既に二人の子をもうけていた。

天分の才能に恵まれながらも、難病により28歳で引退を余儀なくされたジャッキー。演奏中はチェロと身体が一体化し、躍動感や力強さを感じさせながら、音楽の翼で天空を自由にかけめぐった。映像には重力から解放されのびのびと歌いあげる姿が記録されており、見ているだけでこちらも身体が動きそうになる。1961年のデビューから1973年の引退まで、12年間の活動期間中に残された録音の多くは、凄まじい集中力が結実した名盤ばかり。情熱的すぎる演奏スタイルは時に批判されたが、チェリスト出身の指揮者バルビローリは「若い頃はこれくらいがちょうど良い」とエールを送った。
ハイドン、ドヴォルザーク、エルガー、ディーリアスらのチェロ協奏曲、ショパン最後の楽曲となったチェロソナタ、バレンボイムと共演したブラームスのチェロソナタは特に人気が高い。96歳まで生きたカザルスのように、ジャッキーにも長生きして欲しかった。彼女がせめてあと10年、38歳まで現役だったらどれほど無数の名盤が誕生していただろう…。だが、たとえ12年間の活動でも、彼女が創造したものはこの世を確実に豊かにした。人類は録音された音源を通して、いつでも彼女のむき出しの魂に触れることが出来る。部屋にジャッキーの音楽が流れているとき、彼女はそこにいる。会いたいときに会える。肉体的に死んだからといって、それで終わりじゃない。

ロストロポーヴィチ「彼女はチェロを握りしめて生まれてきたかのようです。楽器が手足のように、彼女の身体の有機的な部分そのものでした。それゆえ、演奏するにあたって音楽の流れを邪魔するものがなにひとつなく、感情がそのまま音楽となってダイレクトに聴衆に届くのです。この天賦の才は、今日でも彼女の録音を聴けば感じ取ることができます」

【墓巡礼】
ジャッキーはバレンボイムと結婚する際にユダヤ教へと改宗しているため、ロンドンのユダヤ人墓地に埋葬されている。墓地へはロンドン中心部から地下鉄ノーザン線のエッジウェア(Edgware)行きに乗車し、ゴールダーズ・グリーン(Golders Green)駅で降りる。僕はノーザン線が途中で二つに分かれていることを知らず、間違ってHigh Barnet方面に載ってしまいエライ目にあった。いったん分岐点の駅まで戻り、乗り換えて再出発し、Golders Green駅に到着した。駅から案内標識を確認しつつ600m北に向かって住宅街を歩くとフロイトやロックスターなど有名人が多く眠るゴールダーズ・グリーン火葬場(Golders Green Crematorium)にたどり着く。ジャッキーが眠るのはそちらではなく、道を挟んで向かいにあるユダヤ人墓地「Golders Green Jewish Cemetery」。管理人事務所で墓石の場所を聞こうとしたら、庭師さんが門の近くで作業していたので尋ねてみた。すると「近いから案内するよ」と墓前まで連れて行ってくれた。
彼女の墓は門をくぐって左側の道を50mほど進んだ道沿い左手に、背を向けて建っていた。後ろ向きだけど、墓石の背中に金色の文字で「Jacqueline Du Pre」と筆記体で彫られているので分かりやすい。正面にはジャッキーの名前と生没年の他に、「BELOVED WIFE OF DANIEL BARENBOIM」(ダニエル・バレンボイムの愛しい妻)と刻まれている。ジャッキーの最晩年にバレンボイムは異国で浮気していたので、この言葉に複雑なものを感じるけれど、やはりこういう一文は胸に迫るものがる。彼女の名を冠した白バラを墓前に供えるファンも多い。素晴らしい音楽をありがとう、ジャッキー。

※1998年、姉ヒラリーと弟ピアスの共著『風のジャクリーヌ』を原作として映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(原題 Hilary and Jackie)が制作された。内容が故人を誹謗していると、ロストロポーヴィチ、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマンら音楽家仲間が公開に反対した。この映画はフランス在住のバレンボイムからの訴訟を恐れ、フランスでは劇場公開されなかった。
※ストラディバリが制作したチェロの数は60あまり。バレンボイムはジャッキーにセルジオ・ペレッソン製作の近代的チェロを贈った。
※フリードリヒ・グルダの息子リコのピアノの師は、バレンボイムの後妻エレーナの父ドミトリー・バシキーロフ。
※1989年、ガーデニング系のハークネス社はジャッキーが香りを好んだ白バラを「ジャクリーヌ・デュ・プレ」と命名。
※ちなみにジャッキーと同じ墓地には、『ある愛の詩』の著者で『イエローサブマリン』の脚本を書いた米国出身の作家エリック・シーガルも眠っている。



★ストラディバリ/Antonio Stradivari 1648-1737.12.19 (イタリア、クレモナ 89歳)2005 バイオリン制作者
Basilica of San Domenico(今はPiazza Roma), Cremona, Provincia di Cremona, Lombardia, Italy

 

「エーッ!あれが墓ッ!?」思わずそう叫んだストラディバリの墓。墓地じゃなく、町の公園の片隅にある!
側のベンチでは新聞を読んでるオジサンがいたり、子どもがサンドイッチを食べてたり…誰も墓って気づいて
なさそう(笑)。逆に言えば、それほどまでにクレモナ市民と彼の間に壁がないということか。これはこれで素晴らしい
※墓石自体は後世のものだが、墓石上部の銘板はクレモナのヴァイオリン博物館が本物を保存している



クレモナ市内のストラディバリ像。息子たちもヴァイオリン製作を手伝っていたので、その様子が再現されている。
この銅像は市場の片隅で屋台に押しやられていた…邪魔と言わんばかりに…


1500年代初頭にイタリアで誕生したヴァイオリン。中世の2種類の弦楽器が発展し現在の形になった。16世紀イタリア北部クレモナのヴァイオリン職人アンドレア・アマティが最初に名匠と呼ばれ、17世紀後半から18世紀前半にかけて、ヴァイオリン製作の技術は頂点に到達した。

現在の標準型ヴァイオリンの創始者、伝説的ヴァイオリン製作者アントニオ・ストラディバリは、1644年頃イタリア北部クレモナに生まれた。ラテン語表記ストラディバリウスの名でも知られる。1667年(23歳)から12年間、同じクレモナのヴァイオリン製作者ニコロ・アマティ(当時71歳/1596-1684)に師事、伝統を伝承し工房で腕を磨く。同年、結婚。1680年(36歳)、独立してクレモナのサン・ドメニコ広場に工房を構え、ビオラやチェロも製作し、その技術を頂点まで引き上げた。輝くような音色だけでなく、デザイン面でもヘッドスクロール(ネックの渦巻き)は他の職人が真似できない美しさがある。2人の息子と生涯で1116挺もの楽器を製作し、うち現存する弦楽器はヴァイオリン540、ビオラ12、チェロ50の計602挺。他にマンドリンとギターもある。

なぜ名器となったのか技術上の秘密はいまだに解明されていないが、削られた木の厚みだけでなく、塗料の調製法、特別なニスに秘密があると考える研究者も多い。90歳になるまで楽器製作を続け、同時代のジュゼッペ・グアルネリと共に、世界中のヴァイオリニストが憧れる楽器を生み出した。
1737年12月18日、クレモナにて他界。サン・ドメニコ教会に埋葬されたが、同教会は131年後の1868年に解体されストラディバリの遺骸は失われた。現在、教会跡のローマ広場に墓石だけが残り、上部の石蓋は本物であったが、この石蓋は2013年に開館したヴァイオリン博物館に展示され、広場の墓石にはレプリカが設置された。

楽器のサイズ、ヴァイオリンの比率は時期によって違うが、最高傑作は1700〜25年に作られたものとされ、これらの楽器は、かつての所有者の名から「ビオッティ」「サラサーテ」などと呼ばれる。全音域にわたってバランスのとれた豊かな響きが他の弦楽器を圧倒する。
死後、父や二人の兄から相続した楽器の製作道具を、三男が「クレモナ市内で使用しないこと」を条件に売却し、同派の後継者は存在せず、秘伝の製法は失われた。没後13年が経った1745年には、ほとんどの楽器職人がクレモナから去ってしまい、クレモナ全体での弦楽器製作の伝統が途切れた。その後、外部から入ってきたヴァイオリン製造技術でクレモナは弦楽器製作の町として復興し、現在80を越える工房を擁する。

〔墓巡礼〕
鉄道のクレモナ駅から1km南下したローマ広場の片隅に、ストラディバリの墓石が置かれている。かつてここにあったサン・ドメニコ教会の名残らしきものは何もなく、ただ墓石だけがポツンとあった。さらに700m南下したヴァイオリン博物館に墓石の上部にあった石板は移され、レプリカの石板が墓に置かれている。博物館に向かう途中のクレモナ大聖堂に、師ニコロ・アマティの墓があるというが僕は未確認。行かなくちゃ。市内の市場にストラディバリの銅像が建っていた。

※アントニオ・ストラディバリが埋葬された同じサン・ドメニコ教会に、師ニコロ・アマティ(1596-1684)の祖父でクレモナの弦楽器製作の始祖的役割を果たしたアンドレア・アマティ(1511-1580)、ストラディバリと肩を並べる天才ヴァイオリン職人ジュゼッペ・グァルネリ(1698-1744)の祖父でニコロ・アマティの直弟子アンドレーア・グァルネリ(1626-1698※ストラディバリの兄弟子)の墓もあったという。ジュゼッペ・グァルネリの墓はなぜクレモナにはなく、クレモナの東南約60km、パルマの東に位置するレッジョ・エミリアの聖プロスペロ聖堂(Basilica Of San Prospero)に眠ったという。
※クレモナはミラノから鉄道で約1時間。
※ストラディバリが最初の妻フランチェスカと暮らした家の前に、壊れたヴァイオリンを持って困っているユニークな彼の像がある。
※クレモナの塔「トラッツォ」はレンガ造りではヨーロッパ第1位の高さ。
※ヴァイオリンは製作から200〜300年経ったものが最も艶やかな音色になる。



★トスカニーニ/Arturo Toscanini 1867.3.25-1957.1.16 (イタリア、ミラノ 89歳)2002&2018 指揮者
Cimitero Monumentale, Milan, Lombardia, Italy




トスカニーニ・ファミリーの墓(2002) 超頑固親父

付近はまるで彫刻の森 霊廟になっている 正面最上段がアルトゥーロ

フルトベングラーと並び20世紀前半を代表する大指揮者。スコアを厳格に尊重しつつ、楽曲をダイナミックに表現し感動を与えた。1867年3月25日にイタリア・パルマで生まれる。父は貧しい仕立屋。9歳でパルマ音楽院に入って当初は作曲科に在籍。だが、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』に圧倒されて作曲家になることを断念、チェロ科に移った。そして1885年、チェロ、ピアノ、作曲で最優秀の成績をのこし首席で卒業した。その天才ぶりから、18歳の若さでロッシ歌劇団の首席チェロ奏者及び副合唱指揮者に迎えられる。
※複数の百科事典に「パルマのあとミラノの音楽院でも学ぶ」とあるのに、ウィキは日本版も英語版も一切その記述がないのはなぜ?
1886年(19歳)、ロッシ歌劇団のブラジル・リオ公演に際し、指揮者が楽団員から嫌われたことを恨み、ヴェルディの歌劇『アイーダ』上演を前に降板してしまう。歌劇団は必死に別の指揮者を探したが見つからず、他の楽器パートも暗譜していたトスカニーニが代役に指名された。彼は暗譜で見事に振って大成功を収めた。18日間の公演をすべて指揮し、以後チェロ奏者から指揮者に転じてイタリア各地でオペラ指揮者として活躍していく。
1892年(25歳)、レオンカヴァッロの『道化師』を初演。同年のヴェルディ(1813-1901)がトスカニーニの指揮を聴く。
1895年(28歳)、ワーグナー『神々の黄昏』をイタリア初演。
1896年(29歳)、プッチーニ(1858-1924)の『ラ・ボエーム』を初演。
1897年(30歳)、ミラノで19歳のカルラ・デ・マルティーニと結婚。
1898年(31歳)、イタリアを代表する歌劇場、ミラノ・スカラ座の首席指揮者に就任。シーズン初日をワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で飾る。
1899年(32歳)、スカラ座でワーグナー『ジークフリート』をイタリア初演。
1901年(34歳)、ミラノでヴェルディが他界し、トスカニーニが追悼演奏会で指揮をする。
1903年(35歳)、スカラ座と運営方針があわず芸術監督を辞任、3年間距離を置く。1906年に復帰。
1908年(41歳)、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」イタリア初演。スカラ座と再び衝突し辞任。渡米してグスタフ・マーラー(1860-1911)と共にニューヨークのメトロポリタン歌劇場の首席指揮者となる。カルーゾーらとイタリア・オペラ全盛時代、そして同歌劇場の黄金時代を築いた。トスカニーニはワーグナーの長大な『神々の黄昏』を全曲暗譜で指揮、「不屈で圧倒的な力と、説得力、無限の能力を備えた音楽家」と評された。
1913年(46歳)、オペラからコンサートに進出し、成功を収める。
1915年(48歳)、短気による周囲との衝突、愛人スキャンダルなど様々なストレスからメトロポリタン歌劇場を辞任。
1920年(53歳)、初めてレコードを制作。
1921年(54歳)から1929年までスカラ座の芸術監督を1人でこなした。
1922年(55歳)、独裁者ムッソリーニ(当時39歳/1883-1945)が権力を掌握しトスカニーニの抵抗が始まる。
1926年(59歳)、プッチーニの遺作『トゥーランドット』を初演。その際、ムッソリーニ臨席の場では演奏が決められていたファシスト党歌の演奏を拒んだため、ムッソリーニは初演に立ち会っていないという。また、現在は未完に終わった『トゥーランドット』の補作版(弟子による)が上演されることが多いが、トスカニーニはフィナーレ直前で演奏を止め「巨匠は、ここで筆を絶ちました」と言って指揮台を降りた。
1927年(60歳)から1936年までニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を歴任。
1928年以降はアメリカに本拠を置き、1930年代にもバイロイトやザルツブルク音楽祭でオペラを指揮したが、次第に管弦楽曲の演奏に専念するようになる。
1929年(62歳)、スカラ座がムッソリーニに政治利用されることを嫌い芸術監督を辞任。
1930年(63歳)、バイロイト音楽祭に初めて非ドイツ系指揮者として指揮台に立ち『タンホイザー』『トリスタンとイゾルデ』で喝采を浴びる。このとき、あまりにリハーサルが厳しく、オーケストラが音を出すたびに「ノー、ノー!」と駄目出しをして怒鳴ったため「トスカノーノ」とあだ名を付けられた。
1931年(64歳)、ボローニャで演奏会前にファシスト党歌「ジョヴィネッツァ(青春の歌)」演奏を命じられ拒否したことから、黒シャツ隊(ファシスト)に襲われる。この事件をきっかけにファシスト政権下のイタリアでは演奏しないと決意。ムッソリーニはトスカニーニの動向を探るため部下に盗聴させていた。同年、バイロイトで『タンホイザー』『パルジファル』を振る。
1933年(66歳)、ヒトラーが政権を握ったためバイロイトの出演を拒否。同年、娘ワンダが名ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)と結婚。
1937年(70歳)からはトスカニーニのために創設されたNBC交響楽団の常任指揮者となり、17年後に引退するまで務める。ラジオ・シリーズのために同楽団を指揮した。
同年、ザルツブルクの路上で19歳年下のフルトヴェングラー(当時51歳)と口論となる。フルトヴェングラーはナチ政権下でドイツに残り、ユダヤ人音楽家を支援しながら演奏活動を続けていた。「ナチは出ていけ!」「演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!」「第三帝国で指揮する者は全てナチス!」。これが最後の邂逅だった。
1938年(71歳)、オーストリアがナチスドイツに併合されたため、ザルツブルク音楽祭の出演を拒否。 かわりにスイスのルツェルンで亡命演奏家によるコンサートを開催し、以後ルツェルン音楽祭となる。
1939年(72歳)、第二次世界大戦が勃発。
1945年(78歳)、第二次世界大戦が終結。
1946年(79歳)、爆撃で破壊されたスカラ座が再建され記念演奏会を指揮。
1948年(81歳)、老齢になりスカラ座で最後のオペラ上演。
1951年(84歳)、妻カルラが73歳で他界。
1954年(87歳)、常に暗譜で演奏会に挑んだトスカニーニが4月の演奏会で記憶が飛び、指揮の手が止まった。その後、引退が発表され、カーネギー・ホールでNBC響と最終演奏会を行った。68年間の指揮者生活に終止符が打たれた。引退表明の手紙「我が指揮棒を不本意ながら置き、なおかつ我がオーケストラに別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった」。
1957年1月16日、脳血栓の発作を起こしニューヨークの自宅にて89歳で他界。臨終の際、見舞いに訪れた孫のソニア(ワンダの子)に「おお、ソニア、ソニア。来てくれたのか。おじいちゃん、もうすぐ死ぬからな」と語った。追悼演奏会でワルターがベートーヴェンの英雄交響曲を捧げた。

カミナリ親父トスカニーニ。常に楽譜を完全に暗譜して指揮し、作曲家の意図に忠実に従うことを徹底重視した。暗譜された楽曲は、オペラ約100曲の譜面と歌詞、合奏曲約250曲の全パートに達する。それに加えて優れた聴力を持っており、楽団員が演奏を間違えると指揮棒を叩き折って怒り狂うので、リハーサルでは何本もスペアの指揮棒を用意していた。2度続けてミスをしたクラリネット奏者に「貴様が死ぬか、私が死ぬか!」と掴みかかった。他にも、スコアを破き、インク瓶や懐中時計を地面に投げつけ、譜面台を叩き壊すなどし、ある時はコンサートマスターの指を指揮棒で刺してしまい裁判沙汰になったという。あのウィーン・フィルとのリハでさえ、スコアを両手で持って地面に叩きつけた。
ある時、ニューヨークで公演後の楽屋にイタリア人が訪ねて来た。男が話し始めると、トスカニーニはその声を聞いて「君はイタリアの歌劇場で重大なミスをやったトランペット奏者だ。けしからん!」と怒りを爆発させた。確かにその男は10年以上も前にミスをしていた。トスカニーニは声を聞いただけで、歌劇場の名前、演奏された曲名、ミスした個所を即座に指摘するほど記憶力がよかった。
その一方、根っからのヒューマニストで人種差別撤廃運動や反ファシズム運動に燃えた。イタリアで独裁者ムッソリーニが権力の座を手に入れた時、各地でムッソリーニの肖像画が掲げられたが、トスカニーニが指揮をしていたミラノ・スカラ座(世界最高のオペラ劇場)には、「私の目の黒いうちは野郎の絵を置かせん」と断固拒否したという。作曲者の指示を厳格に守りながら、すべてのフレーズを存分に歌わせ、力強くリズムを刻み、楽壇のスタンダードとなる名演を数多く残した。一方、アンチ派からは「メトロノームの奴隷」と呼ばれた。イタリア・オペラのほかにベートーヴェン、ブラームス、ベルリオーズ、ドビュッシーを得意とした。

〔墓巡礼〕
墓地内の彫像の多さから「彫刻美術館」の異名を持つミラノ記念墓地に眠っている。墓地に足を踏み入れると、視界のあちこちに芸術的な墓碑彫刻が林立し、ここが墓地であることを忘れてしまう。敷地面積は25万平方mというから甲子園球場の6.5倍の広さだ。ニューヨークで没したトスカニーニの亡骸はイタリアに帰還し、葬儀の間、ヴェルディ『レクイエム』のアリアが歌われた。トスカニーニ家の霊廟内の正面最上段にトスカニーニの石棺があり、左壁面に娘ワンダと夫ホロヴィッツの墓がある。娘夫婦のツーショット写真が墓にはめ込まれていた。
※英語版ウィキペディアによると、墓所に碑文があり、そこにはトスカニーニがプッチーニの未完のオペラ『トゥーランドット』初演の際に「ここでオペラは終わっている」と言って指揮棒を置いたエピソードにならい、「" Qui finisce l'opera、perchea questo punto il maestroemorto "(ここでオペラは終了する。マエストロが死んだ)とあるらしいが、どこを見てもそんな碑文はなかった。僕の探し方が悪いのかな。



★スビャトスラフ・リヒテル/Sviatoslav Richter 1915.3.20-1997.8.1 (ロシア、モスクワ 82歳)2005 ピアニスト
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 
コワモテなのに泣きそうなくらい優しい音!墓石はハート型になっている

20世紀後半を代表するロシアのピアニスト。「100年に1人の天才」と呼ばれ、どんな難曲でも軽々と弾きこなした。繊細で透明感のある音色で知られる。
1915年3月20日、ウクライナに生まれる。フルネームはスヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル。父はドイツ人ピアニストでオデッサ音楽院の教授や教会オルガニストも務めた。母はロシア貴族。
1917年(2歳)、ロシア革命が起きロマノフ王朝が滅亡する。革命後のソ連では音楽面でも既成の音楽を破壊する前衛作品が多く生み出された。
1924年(9歳)、ヴェルディの歌劇『アイーダ』をオデッサ歌劇場で鑑賞し、子ども心に強烈な印象を受ける。誰からも強制されず1人でピアノを弾き始め、オペラのスコアを弾くようになった。リヒテルいわく「音階練習なんて必要?一度もやらなかったね。基礎はまっぴら。何から始めたと思う?まずショパンのノクターン第1番、次にエチュードホ短調」。
1928年(13歳)、当時25歳のホロヴィッツ(1903-1989)がNYのカーネギーホールでアメリカ・デビューし、高度なテクニックで聴衆と批評家を圧倒、センセーションを巻き起こす。
1931年(16歳)、リヒテルは束縛を嫌って独学で練習を続け、歌手やダンサーにピアノを弾きながら指導する“コレペティートル(練習指揮者)”としてオデッサ歌劇場に採用される。父の旧友宅にて八人姉妹の前でシューマンの協奏曲を演奏し、翌日に姉妹から御礼の花束が届き感動する。「まさにこのときに、ピアニストになりたいと思った」。※別のインタビューでは「私は父が弾いたショパンのノクターン第5番を聞いて深く感動し、音楽家になろうと決心した」と語っている。
1933年、オイストラフのヴァイオリン演奏を聴いて自分でもリサイタルを開こうと考え、ショパンの練習をいちから始める。この年、ソ連政府によってオデッサでは教会が破壊され、教会オルガニストでもあった父は当局の尋問を受け、後に仕事を奪われる。「(オデッサは)美しい町なのにすべてが破壊された。1933年ごろ、すべての教会の丸屋根が撤去された。跡地に学校か何かが出来た。実に馬鹿げたことだ。箱のような建物なんて。ロシア中がそうだった」。
1934年(19歳)、オール・ショパン・プログラムの最初のリサイタルをオデッサで開催。楽壇の反応は皆無だった。年末にポスト・スターリンとして人望を集めていたレニングラード共産党指導者セルゲイ・キーロフが暗殺され(黒幕はスターリン)、スターリンによる大粛清が始まる。
1936年(21歳)、大粛清が加速。音楽面ではスターリンがショスタコーヴィッチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観劇した際、不倫や第一幕の性暴力(強姦)シーンに激怒し第3幕の途中で退席。後日、共産党機関紙『プラウダ』に、ショスタコーヴィッチを批判する「音楽のかわりに荒唐無稽」と題された社説が掲載され、同作品は分かりにくい卑猥な音楽であり、社会主義リアリズムが欠如したブルジョワ・形式主義的な音楽と糾弾された。当局はレーニンの言葉「芸術は人民に属する」をプロパガンダに掲げ、多くの前衛作曲家をシベリアの収容所へ送った。冒険的な音楽は禁止され、バルトークやヒンデミットの全作品、『ペトルーシュカ』以後のストラヴィンスキーの全作品など、抽象主義と見られた作品は演奏が禁じられた。
1937年(22歳)、モスクワ音楽院に入学し、院長で名教師のネイガウス(ブーニンの祖父)にピアノを師事。同門の2年先輩に、1歳年下のエミール・ギレリスがいる。ネイガウス「音楽の教育を受けたことのない者が音楽院に入ろうとしている。その勇敢な者を見てみたいと思った」。リヒテルは入学時点で既に高い演奏技術を身に付けていたことから、「ネイガウスの前でリストを4度目に弾いた時、クラス全員がいたんだが、彼は言った“もう何も教えることはない”」。この年、在留外国人だったドイツ人の父がスパイ容疑で逮捕される。同年、ショスタコーヴィチは交響曲第5番『革命』で名誉を回復した。
1938年(23歳)、大粛清の年間犠牲者はピークに達し、前年からの一年間だけで約135万人が「人民の敵」として有罪判決を受け、うち約68万人が死刑、約63万人が強制収容所に送られた。中でも軍人への弾圧は凄まじく、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、陸軍司令官15人の内13人、大佐クラス以上の将校は大半が銃殺された。1950年のソ連の人口は1億8千万人だが、1937年から1950年までに処刑されたり収容所で死亡した国民は約2000万人という推計もある。
1939年(24歳)、第二次世界大戦が勃発。ソ連はフィンランドに侵攻し国際連盟を除名される。
1940年(25歳)、音楽院在学中、「音楽に無関係」と共産主義史の講義に出席することを拒否するなど退学処分を3回受けたが無事に卒業。同年11月にモスクワ音楽院小ホールでプロコフィエフ(49歳/1891-1953)の『ピアノソナタ第6番』を公の演奏会で初演し(※小規模の演奏会ではプロコフィエフ本人の演奏で初演済み)、終演後にプロコフィエフ本人から祝辞を受けると共に協奏曲のソリストを依頼された。この年、ホロヴィッツがアメリカに亡命しソ連政府に衝撃が走る。
1941年(26歳)3月、作曲家本人の指揮によるプロコフィエフ『ピアノ協奏曲第5番』でピアニストを務め、大成功を収める。初めて世間にリヒテルの名が伝わった。そしてリヒテルが大きく羽ばたき始めたその矢先、6月に突如ナチス・ドイツがソ連に侵攻し、独ソは戦争状態となる。秋に予定されていたリヒテルのデビュー・リサイタルは独軍のモスクワ接近で延期に。4年前に逮捕されていたドイツ人の父は敵国人となり、スパイ嫌疑により処刑(銃殺)された。その後、母はドイツ人男性と再婚、大戦末期にドイツへ亡命した。独軍に包囲されたレニングラードは、冬の間に約80万人もの市民が餓死する。
1942年(27歳)7月、延期されていたソロデビュー・リサイタルが実現。曲目はベートーヴェン『悲愴ソナタ』、シューベルト『さすらい人幻想曲』、プロコフィエフ『ピアノソナタ第2番』、ラフマニノフ『前奏曲集』。
1943年(28歳)、モスクワでプロコフィエフの『ピアノソナタ第7番』を初演し、聴衆から熱狂的な喝采を受ける。この作品はプロコフィエフにとって、初めて自分以外のピアニストに初演を託したピアノ曲となった。リヒテルは手書きの楽譜を初演直前までもらえず4日で暗譜したという。同年スターリングラード攻防戦で独軍が降伏し、これが転換点となりソ連軍の反撃が始まる。
1944年(29歳)、年末にギレリスがプロコフィエフの『ピアノソナタ第8番』を初演、後年リヒテルはこの曲をプロコフィエフのピアノソナタで最も愛したことから「私が初演したかった」と悔しがる。プロコフィエフのピアノソナタのうち第二次大戦中に作曲された第6番〜8番は“戦争ソナタ”と呼ばれ、この3曲はソ連国内で活発に活動し始めたリヒテルの得意レパートリーとなっていく。
1945年(30歳)、全ソビエト連邦音楽コンクールでピアノ部門第1位を獲得、一流演奏家の仲間入りをする。
1948年(33歳)、ソ連共産党中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフが前衛芸術へのバッシング「ジダーノフ批判」を開始。ジダーノフは抽象的で難解な作風の作曲家に対して1930年代のように「社会主義リアリズム路線に反する」と攻撃を加え、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、カバレフスキーらに自己批判を強要した。このジダーノフ時代は10年も続く。リヒテルはプロコフィエフが政府から反革命的と批判されても共に活動した。同年、リヒテルはソ連では評価が低かったシューベルトのピアノソナタを初めてプログラムに入れ、その魅力を伝える。
1950年(35歳)から国外に出てチェコなど東欧諸国でも公演を行うようになったが、時代は東西冷戦の真っ只中であり、ソビエト当局はリヒテルの亡命を恐れて西側での演奏を認めなかった。一方、演奏の素晴らしさはクチコミや一部の録音で伝わっていたことから、西側諸国では“鉄のカーテン”の向こうにいる「幻の天才ピアニスト」と呼ばれた。
1951年(36歳)、プロコフィエフは組曲「冬のかがり火」とオラトリオ「平和の守り」でスターリン賞第2席を得て名誉を回復する。リヒテルはプロコフィエフ60歳誕生日祝賀会でプロコフィエフが最後に完成させたピアノソナタの第9番を初演。このピアノソナタはリヒテルに献呈された。同年、リヒテルの音楽院時代の同門ギレリスが西側デビューを飾る。リヒテルより10年先に海外で活躍し始めたギレリスは、指揮者ユージン・オーマンディがギレリスの演奏を最大限の賛辞で讃えようとしたときに「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したという。
1952年(37歳)、リヒテルは手を負傷し、一時的にピアノが弾けなくなる。その間、指揮者キリル・コンドラシンに指揮を習い、プロコフィエフの『交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)』をモスクワで初演した。チェリストは25歳の若きロストロポーヴィチ(1927-2007)。リヒテルにとって生涯唯一の指揮となった。
1953年(38歳)、プロコフィエフが61歳で他界。同日の3時間後にスターリンも死亡し、フルシチョフが後継指導者となる。リヒテルはスターリンの葬儀でショパンの葬送行進曲とバッハ『ニ短調協奏曲』の一部を演奏させられた(実父をスターリンに殺されたリヒテルはどんな思いで弾いたのだろう…)。
1957年(42歳)、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールド(当時25歳/1932-1982)が演奏旅行でソ連を訪れ、リヒテルによるシューベルト『ピアノソナタ第21番』を聴く。グールド「彼(リヒテル)は現代でもっとも力強い音楽のコミュニケーターであり、私は催眠術によるトランス状態としか例えようのない境地に連れ去られた」。グールドはモスクワで公演し、冷戦下のソ連で演奏した北米初のピアニストとなった。

1958年(43歳)、2月のブルガリア・ソフィア公演(ピアノ版「展覧会の絵」など)が正式に西側でリリースされ、世界は「とてつもないピアニストがソ連にいる」とリヒテルの天才を知る。3月から約一ヶ月にわたって第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、リヒテルは審査員を務めた。このコンクールは前年に世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したソ連政府が、科学分野だけでなく芸術分野でも西側諸国への優位性をアピールする意図があったが、なんと大会を制したのは「敵国」である23歳のアメリカ人ヴァン・クライバーンだった。採点時、他の審査員は政府の指示通りクライバーンに0点をつけたが、リヒテルだけはクライバーンに満点(25点)をつけ、その他全員を0点にした。面目を潰された形になったソ連政府だが、「チャイコフスキー国際コンクールはガチ」という認識が世界に広がり、新設されたばかりの賞がいきなり国際的権威を持ったうえ、ソ連の「懐の広さ」を示したことでイメージ改善に繋がった(ただし同年秋、ロシア革命批判を含む『ドクトル・ジバゴ』でノーベル文学賞に輝いたパステルナークをソ連政府が受賞辞退に追い込んだことで、世界的な批判を呼ぶことに…)。翌月、ソ連政府は公式に“ジダーノフ批判”の解除を宣言する。
一方、米国に帰国したしヴァン・クライバーンは、「(リヒテルの演奏は)生涯で聞いたなかでもっともパワフルな演奏だった」と語り、これによって米国でもリヒテルの演奏会を待望する声が高まっていった。
1959年(44歳)、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』をヴィスロツキ指揮ワルシャワ国立フィルと収録。作品が持つ歌心を存分に引き出した演奏テンポ、完璧なコントロール感は世界中のピアニストに影響を与え、レコードは歴史的名盤と讃えられた。
リヒテルはどんなに粗悪なピアノでも文句を言わなかった。ワルシャワでの録音時、西側のスタッフはタッチにムラのある状態の悪いピアノしか用意できずキャンセルを覚悟したが、リヒテルは平気な顔をしてムラがなくなるまで練習し、自在に弾きこなし帰っていった。リヒテル「私は決してピアノを選ばない。ピアノを選ぶのはピアニストにとって有害だ。心理的な重圧になる。私は調律師やスタッフを信じている」「ピアノを愛するより音楽を愛するよ」。
1960年(45歳)、5月に反体制作家パステルナークが他界。リヒテルは故人と親しく交流していたことから、葬儀でピアノを演奏した。この年、リヒテルの西側公演を解禁するため、ギレリス、オイストラフ、ロストロポーヴィチら友人たちが当局を説得し、ついに出国許可が与えられた。5月にフィンランドで西側デビューを果たし、10月にアメリカ・デビューが実現した。リヒテルはブラームス『ピアノ協奏曲第2番』をシカゴ交響楽団と共演し、圧倒的大成功を収めた。シカゴ公演に続いてロス、サンフランシスコ、デトロイト、ボストンほか2カ月にわたって各都市で公演し、NYではカーネギーホールでソロ・コンサートを行った。ニューヨーク・タイムズ紙「カーネギー・ホールは開演10分前に満席になり、ニューヨーク市内のすべての音楽家が座っていた」。リヒテルは生涯で4度アメリカを演奏旅行する。

1961年(46歳)、ロストロポーヴィチとベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲を録音。ソ連の最高勲章、レーニン賞を受賞。
1962年(47歳)、チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』をカラヤン指揮ベルリン・フィルと収録。
1969年(54歳)、ヤマハのピアノと出会い愛用するようになる。リヒテル「柔軟で感受性が鋭く、特にピアニシモが非常に美しい。私の表現したい心の感度を歌ってくれる」。ベートーヴェン生誕200を記念し、オイストラフ、ロストロポーヴィチらとベートーヴェン『三重協奏曲』(カラヤン指揮)を収録。
1970年(55歳)、1月最後の米国演奏旅行。7月、バッハの『平均率クラビーア曲集第1巻』を録音。9月、大阪の万国博覧会に合わせて初来日。以降、飛行機嫌いにもかかわらず8回も訪日し、ほぼすべての都道府県(62都市)で演奏会を162回も開いた。腕の良い日本人ピアノ調律師(村上輝久)との出会いも背景にあった。「(来日当初は文化の違いに不安を抱いたが)やがて滞在は興味尽きせぬものになり、奈良や万博に行った。何度も日本を訪れ、生活のリズム、習慣、料理にすっかりなじんでしまった」。
1974年(59歳)、2度目の来日。ベートーヴェンの後期ピアノソナタを弾く。
1979年(64歳)、3度目の来日。シューベルトのピアノソナタを中心に構成。
1981年(66歳)、プーシキン美術館で絵画の展示とテーマを共有した音楽祭「12月の夕べ」が開催されリヒテルも参加し、この音楽祭は以降冬の定番となる。同年4度目の来日。ベートーヴェンとプロコフィエフのピアノソナタを弾く。リヒテルは日本文化を深く知るために茶の湯に参加した。また調律師を目指す日本人学生100人のために無料のコンサートを開いた。
1984年(69歳)、5度目の来日。プログラムはチャイコフスキーのピアノ作品。このツアーの途中、なんと東京の茶室(蕉雨園)でプライベート・コンサートを開き、ドビュッシー『沈める寺』などを演奏した。
1986年(71歳)、6度目の来日。親しい演奏仲間(リヒテル・ファミリー)を率いてヴァイオリン・ソナタやヴィオラ・ソナタ、チェロ・ソナタを共演。同年、チェルノブイリ原発事故の犠牲者のためにチャリティーコンサートを開く。
1988年(73歳)、7度目の来日。プログラムはモーツァルト、ブラームス、リストから、現代のプロコフィエフ『ピアノ・ソナタ第2番』、ストラヴィンスキー『ピアノ・ラグ・ミュージック』、ショスタコーヴィッチ『前奏曲とフーガ/第19曲、第20曲』、ヴェーベルン『変奏曲』、バルトーク『三つのブルレスケ』、シマノフスキ『メトープ』、ヒンデミット『組曲“1922”』という意欲的なもの。
1989年(74歳)11月9日、ベルリンの壁開放。同年ホロヴィッツ他界。
1991年(76歳)12月21日、ソビエト連邦崩壊。
1994年(79歳)、8度目の来日、最後の日本公演。グリーグ『叙情小曲集』を中心に、プロコフィエフ『ピアノ・ソナタ第2番』、スクリャービン『ピアノ・ソナタ第7番』、モーツァルト初期のピアノ協奏曲などを演奏。
1995年(80歳)3月、ドイツのリューベックで生涯最後のリサイタル。ハイドン『ピアノ・ソナタ ヘ長調47』『ニ長調51』、レーガー『2台のピアノのためのベートーヴェン
の主題による変奏曲』を演奏。晩年はパリに住む。
1997年8月1日、療養先のモスクワで他界。享年82。告別式はモスクワのプーシキン美術館で催され、逝去3日後に市内の教会で葬儀が執り行われた。エリツィン大統領はニーナ夫人に「彼は数十年にわたって百万人以上の聴衆を魅了してきた」と電報を打った。そのニーナ夫人もリヒテルの後を追うように同年に没する。リヒテルの亡骸は親交のあったプロコフィエフと同じノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
2005年、リヒテルと交流のあった音楽家たちが中心となって「スヴャトスラフ・リヒテル国際ピアノコンクール」が創設された。

レパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたるが、中でもベートーヴェンと現代ロシア作曲家の作品を得意とした。また、従来はプロのピアニストがあまり演奏しなかったシューベルトのピアノ作品を、早期からプログラムに入れ聴衆に真価を知らしめた。ただし、リヒテルは自身の好み以外の曲は演奏しないため、なんと月光ソナタの録音がない。ピアノ協奏曲第5番『皇帝』もレパートリーにしなかった。
「傷つきやすい巨人」と評されるなど、極めて繊細な感受性を持っていた。神経質ゆえに演奏会のキャンセルが多発したことから、西欧で演奏するようになってからも“幻のピアニスト”と呼ばれ続けた。

※北ドイツの音楽祭で体調を崩しハンブルク郊外の病院にかつぎ込まれたリヒテルは、一年後に看病してくれた病院スタッフに感謝の意を示すため来院し、病棟で個人的に演奏会を開いた。
※女優マレーネ・ディートリッヒ「ある晩、リヒテルを囲んで演奏を聴いた。リヒテルの後方に座っていた女性が床に崩れ、そのまま亡くなり、運ばれて行った。私はこう思った。『リヒテルの演奏中に亡くなるなんて、なんてうらやましい人生だろう』と」。
※ブルース・リーの映画が大好きで、日本滞在中、通訳にロシア語に翻訳を頼み楽しんでいた。当時のロシア語通訳・河島みどり氏が回想したリヒテルの言葉「ブルース・リーは肉体的に(世界で)一番美しい。筋肉の動きも顔も美しい。あんな美しい人間はこの世にいない」。
※リヒテルは鎌倉を好んで滞在し、「かいひん荘鎌倉」を貸し切りにしてピアノを練習した。小さな神社やお寺を散歩し、中でも佐助稲荷神社をよく訪れた。口癖は「オゴソカ(厳か)」。ソ連政府は宗教を弾圧し、リヒテルが青春時代を過ごしたオデッサでは教会がすべて破壊されたことから、「リヒテルはソ連は厳かでない、“ニエット厳か”と怒っていた」(河島みどり氏)。
※河島みどり氏「リヒテルさんは、“華美なもの、余計な音は要らない。ピアニッシモを静かにするのが大事。大きな音を大きく叩くことは誰でも出来る。削ぎ落とした芯の音を”と言っていた」。
※静岡県掛川市のヤマハ・ハーモニープラザのリヒテルルームに愛用のピアノが展示されている。
※ピアノ調律師の村上輝久さんはフランス・マントンの音楽祭でリヒテルのピアノを調律し、リヒテル好みのタッチの重い調律でリヒテルを感激させた。リヒテル「自分の国には村上のような調律師はいない。村上のような優秀な調律師を育てる学校がある日本は素晴らしい」。
※当時の共産国ではバッハの評価が低く、ソ連ではバッハを弾くピアニストがほとんどいなかった。バッハは音楽院の試験科目に過ぎず、演奏会の曲目と見なされなかったが、リヒテルはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を愛した。
※リヒテルは事前に演奏曲目を予告せず、当日の気分で曲を選ぶ演奏会を好んだ。
※1980年代に入ると、舞台と客席の照明を極端に落とし、ピアノの周囲だけをほんのりと照らし、楽譜を見ながら演奏するスタイルになる。寝室のような空間で音を紡いだ。「聴く人が奏者ではなく音楽に集中できるように、私は暗闇で演奏している」。
※ラフマニノフと同様に巨大な手を持っており12度を楽に押せた。
※ピアノをトラックに積んで旅行し、旅先でゲリラ的に無料演奏会を開くのを楽しみにしていた。
※ベートーヴェンの熱情ソナタを聴き、圧倒された吉田秀和いわく「これはベートーヴェンを超え、何か別のものになってしまった」。
※日本のポンジュースが大好き。
※絵画の分野でも才能を発揮し、作品の一部が自身のレコードのジャケットに使用されている。

ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』
https://www.youtube.com/watch?v=khBDXDckJTk (34分)スヴャトスラフ・リヒテル(p),
ヴィスウォツキ指揮ワルシャワ・フィル 1959年
チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』
https://www.youtube.com/watch?v=t6P7vcRFRj0 1962年

〔墓巡礼〕
初めてラジオ番組でリヒテルが弾くバッハ『平均律クラヴィーア曲集』を聴いたとき、「この透明感はなんだ!?」と驚嘆した。天国的と言おうか、彼岸の向こうで演奏しているような、重力を感じさせないセピア色の響き。CDを買い、ジャケットに写っている頑固そうな強面のお爺さんと、繊細な音色が一致しなくて戸惑った。その後、チャイコフスキーのピアノ協奏曲やベートーヴェンの熱情ソナタで力強いタッチに圧倒され、ラフマニノフのピアノ協奏曲を聴いて指先から歌い紡がれる美しい調べに恍惚となった。
没後、リヒテルが20代後半で父親を銃殺され、母とも生き別れになった悲劇を知り、また、プロコフィエフがソ連政府から「人民の敵」と弾圧された際、他の音楽家が巻き込まれるのを恐れて距離を置いたときも、リヒテルはプロコフィエフと共に活動したこと、作家パステルナークが当局から睨まれたときも交流を止めることなく、葬儀で追悼演奏を行ったことを知り、様々な人生体験が演奏に深味を与えていると感じた。「100年に1人」といわれる天才が、22歳まで正規の音楽教育を受けずに独学でピアノを練習して大成したことにも驚く。アメリカには4度しか訪れていないのに、日本には8度も訪れ全国ツアーを行い、さらには古寺や茶の湯など文化に親しんでくれたのも日本人として嬉しい。
自由を求めて西側に移住する音楽家が多い中、いくらでも亡命するチャンスはあったのに最後までロシア人のままでいたことは興味深い。おそらく、リヒテルの心は政治体制を超越して、いかなる時も「自由」だったのだろう。音楽が国家の鎖を消滅させ、権力による束縛を無効化する、そこへ到達していたのだと思う。その意味でも希有な音楽家だった。
リヒテルの墓には他界8年後の2005年に墓参した。モスクワ中心部クレムリンから5km南西に位置する世界遺産ノヴォデヴィチ女子修道院(1524年創建、元々はクレムリンの出城)、この修道院付属のノヴォデヴィチ墓地(1898年造営)に彼は眠っている。同墓地はチェーホフ、ゴーゴリ、ショスタコーヴィチ、スクリャービン、ロストロポーヴィチ、エイゼンシュテイン、フルシチョフ、クロポトキンなどロシアの偉人が数多く眠るモスクワで最も有名な墓地だ。地下鉄スポルチーブナヤ駅から500m北西に歩くと正門が見えてくる。ちなみに地下鉄は距離に関係なく50ルーブル(約70円)と安い。墓地の中央の路地をまっすぐに進み、最初の大きな交差点で右折、続いて左折し、アーチを通って「古い区域」に行くと、新区域との境界の壁の近く、アーチから約10メートル左にリヒテルの墓がある。自然岩を真っ二つにした墓石で、形がハートを表わしている。断面にリヒテルの名前が刻まれていた。

〔参考資料〕『“リヒテル変奏曲”繊細な巨人リヒテル〜鉄のカーテンの中の伝説のピアニスト」(NHK-FM)、『ららら♪クラシック〜解剖!伝説の名演奏家リヒテル』(NHK)、『世界人物事典』(旺文社)、『ブリタニカ百科事典』、ウィキペディアほか。



★ゲオルグ・ショルティ/Georg Solti 1912.10.21-1997.9.5 (ハンガリー、ブダペスト 84歳)2005
Farkasreti Cemetery, Budapest, Hungary



ゲオルグのG? バルトーク(木の間にある中央の黒い墓)と並んでいる

ハンガリー生まれのイギリスの指揮者、ピアニスト。オペラとコンサートで幅広く活動した20世紀後半の名指揮者の一人で、シカゴ交響楽団を世界トップレベルに育てた。グラミー賞受賞は史上最多31回を誇り(74回ノミネート)、受賞数、ノミネート数ともに世界一。レコーディングに積極的だったレナード・バーンスタインをしのぎ、女性最多受賞のアレサ・フランクリン(16回受賞)を大きく引き離している。
1912年10月21日、ブダペストに生まれる。チェリビダッケと同い年で、カラヤンの4歳年下、バーンスタインの6歳年上。当初の名前はシュテルン・ジェルジュ。後に父がシュテルンからハンガリー風のショルティに改姓。6歳でピアノを習い始め、12歳からブダペストのリスト音楽院で作曲家のバルトークやコダーイに師事。13歳の時にエーリヒ・クライバー指揮のベートーヴェン運命交響曲に大感動して指揮者を目指すようになる。卒業後、18歳でブダペスト国立歌劇場のコレペティートル(歌手の練習のためのピアニスト)に採用される。
1936年(24歳)、ザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務める(翌年も)。
1938年(26歳)、ブダペスト国立歌劇場の『フィガロの結婚』上演に際しぶっつけ本番で指揮者デビューする。この時、あるオーストリア出身の歌手がミスを連発するため疑問にいると、歌手は舞台直前にナチス・ドイツのオーストリア進駐を知って動揺していた。
1939年(27歳)、第二次世界大戦が勃発。ショルティはユダヤ系であり危険が迫っていた。スイスのルツェルン音楽祭に参加中のトスカニーニに連絡がついたことから、ショルティの両親は彼だけでもスイスに亡命するよう説得。ブダペストの鉄道駅で見送りを受けたとき、厳格な父親が号泣する姿を初めて見て胸が引き裂かれそうになる。父は4年後に病死したため、これが最後の父の記憶となった。ショルティは終戦までスイスに滞在する。指揮者として労働許可を取得することができなかったため、ピアノ教師として生計を立てた。
1942年(30歳)、ジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝。初めて音楽家として名声を得たが、それでも指揮は許されず、しばらくピアニストとして活動する。
1945年(33歳)、第二次世界大戦が終結。
1946年(34歳)から1952年までバイエルン国立歌劇場(ミュンヘン国立歌劇場)の音楽監督を務める。非常に名誉ある役職であり、若くて経験の浅い指揮者には考えられない異例の抜擢だったが、これは連合国の非ナチ化政策で多くのドイツ人指揮者が失脚したこと、そしてトスカニーニとエーリヒ・クライバーが推挙してくれた幸運があった。同年、リヒャルト・シュトラウスから直接指揮について指導を受ける。ヘトヴィヒ・エークスリ(ヘディ)と結婚。
1947年(35歳)、ピアニストとして英デッカと契約を結び録音活動をスタート。
1951年(39歳)、ザルツブルク音楽祭にデビュー。
1952年(40歳)から1961年(1960?)までフランクフルト市立歌劇場の音楽総監督を務める。
1953年(41歳)、サンフランシスコ歌劇場のR・シュトラウス『エレクトラ』の指揮でアメリカデビュー。
1954年(42歳)、初めてシカゴ交響楽団を指揮。
1958年(46歳)、ワーグナー『ニーベルングの指環』の世界初全曲録音をスタジオでウィーン・フィルと行い、音楽界に名が知れ渡る。レコーディングを依頼したデッカ社は、ショルティのダイナミックな指揮に魅了されてこの大プロジェクトを計画。グラモフォン誌は20世紀最大の録音事業と絶賛した。
1961年(49歳)から1971年までロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場(ロイヤル・オペラ・ハウス)の音楽監督を務めた。
1963年(51歳)、ロンドン交響楽団と初来日。
1964年(52歳)、ヘディ夫人と離婚。
1967年(55歳)、BBCの記者ヴァレリー・ピッツと再婚。
1969年(57歳)から1991年までシカゴ交響楽団の音楽監督を務め、この楽団を全米トップの人気オーケストラに育て上げ、低迷していた名声を復活させた。
1971年(59歳)、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の水準を著しく高めた功績でサーの称号を受けナイトに叙される。
1972年(60歳)、イギリスの市民権を取得。同年から1975年までパリ管弦楽団の首席指揮者に就任。
1977年(65歳)、シカゴ響と来日。
1979年(67歳)から1983年までロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、83年からは名誉指揮者となった。
1983年(71歳)、バイロイト音楽祭で『ニーベルングの指環』を指揮。
1989年(77歳)、カラヤンが他界。
1990年(78歳)、バーンスタインが他界。
1991年(79歳)、シカゴ交響楽団の音楽監督を辞し、桂冠指揮者となる。
1992年(80歳)、ザルツブルク復活祭音楽祭の芸術監督を務める。
1994年(82歳)、ウィーン・フィルと来日。
1995年(83歳)、ショルティは「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化せんと、国際連合創設50周年を記念してベルリン・フィルやウィーン・フィルなど世界35カ国70のオーケストラに所属する約100名で構成したオーケストラ「ワールド・オーケストラ・フォア・ピース」を創設する。平和を祈念する式典・行事の開催時のみ編成され、ショルティ没後はヴァレリー・ゲルギエフが指揮者を務めている。ペンデレツキ『平和のための前奏曲』は同楽団がポーランド・クラクフで世界初演した。
1997年9月5日、休暇中の南仏アンティーブで自伝の最終チェックを終えた後、就寝中に心不全で旅立った。享年84歳。
シカゴ響はショルティと999回のコンサートを行った。1000回目のコンサートはショルティの誕生日にあわせて10月に予定されていたがその前月に没した。

ショルティと言えば金管。カタルシスを感じるほど楽器を良く鳴らし、極限までオーケストラのダイナミックレンジを拡大した。管楽器が長い息で吹き切るたびに聴衆の陶酔感が増す。スケールの大きな作品が多いマーラー、ワーグナー、R・シュトラウスと相性が良く、数々の名演奏を残した。生涯に録音した「交響曲全集」は、ベートーヴェン、モーツァルト、ブルックナー、マーラー、ブラームスなどがあり、さらにオペラから小品まで無数に存在し、その仕事量は人間離れしている。レパートリーは果てしなく広がった。

※「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ショルティ)
※「偉大な指揮者とそうではない指揮者が存在する理由は謎のままである」(ショルティ)
※シカゴ響のバイオリニスト、ビクター・アイタイ「通常、指揮者はリハーサルでリラックスし、コンサートでは緊張します。ショルティは逆です。彼はリハーサルで非常に緊張しているので、集中していますが、パフォーマンス中はリラックスしています。こうした指揮者はオーケストラの宝です」。
※シカゴ交響楽団とバルトーク『管弦楽のための協奏曲』を録音した名盤
https://www.youtube.com/watch?v=bLtEnXinTbU (35分42秒)
※シカゴ響の活躍により「シカゴはギャングの街からオーケストラの街になった」と評された。
※ショルティはウィーンフィルと親密だったのに、なぜかヨハン・シュトラウスを演奏した形跡がない。
※ショルティはドビュッシーを好み『牧神の午後への前奏曲』をアンコールでよく採り上げた。シカゴ響の首席フルート奏者ドナルド・ペック「自分ほど『牧神』を演奏したオーケストラ奏者はいないと思う」。

〔墓巡礼〕
ショルティはハンガリーの首都ブダペストのファルカシュレーティ墓地(Farkasreti Cemetery)にあり、正門から左側の道を歩いていくと、まずショルティ、その右側に彼が尊敬していたバルトークの墓が並んでいる。バルトークは第二次世界大戦の終結直後に亡命先の米国で病没しており、その遺言で「ナチスドイツや共産ソ連の影響が残る間は祖国ハンガリーに埋葬しないでほしい」と求めたことから長くニューヨークに眠っていた。1988年のハンガリー民主化をうけてショルティが改葬実現に向けて尽力し、無事にバルトークは母国に帰ることができた。この縁からショルティの墓が隣接しているのだろう。墓碑はとてもインパクトがある。おそらく名字ゲオルグのGと思うけど、ショルティのダイナミックな指揮棒の動きにも見える。『展覧会の絵』などシカゴ響との優れた演奏だけなく、国連を通じた音楽による平和活動など、その反戦への強い思いも含めて彼に敬意を示した。



★ホロヴィッツ/Vladimir Horowitz 1903.10.1-1989.11.5 (イタリア、ミラノ 86歳)2002&18 ピアニスト
Cimitero Monumentale, Milan, Lombardia, Italy

義父トスカニーニ家の霊廟。この中に眠る





2002

2018

カーネギーホール
を熱狂させた男

20世紀を代表するコンサート・ピアニストとして名声をほしいままにした。1903年10月1日、ウクライナのジトーミル州に生まれる(1904年生誕説は父が徴兵対策で行った虚偽申告)。12歳年下のリヒテルと同郷。「リストの再来」と称された超絶的な演奏技巧を駆使したダイナミックな演奏と、情緒あふれる叙情的表現、繊細な感覚で知られる。
幼少期に母からピアノの手ほどきを受け、キエフ音楽院に進学、1919年(16歳)に卒業。

1920年(17歳)に初のリサイタルを開催、1922年(19歳)に本格的にデビューし、ソ連各地で演奏会を開く。
1925年(22歳)、祖国を去ってベルリンに進出し、名指揮者フルトウェングラーやワルターと共演。
1928年(25歳)にはニューヨークでアメリカ・デビューを果たす。曲目はチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』、指揮は英国の指揮者トーマス・ビーチャム、オケはニューヨーク・フィル。ホロヴィッツは曲の最後を“超加速”で弾ききり大喝采を浴びた。米国の聴衆は、ホロヴィッツの卓越したテクニックとダイナミズム、情緒豊かで繊細な音色に圧倒された。このセンセーションとともに20代で巨匠の仲間入りをする。
1933年(30歳)に大指揮者トスカニーニの娘ワンダと結婚。
1936年(33歳)から1938年まで病気(神経症性うつ病)のため活動休止。
病気療養後、1940年からアメリカに定住し1944年に帰化。
1953年(50歳)、アメリカ・デビュー25周年記念のチャイコのピアコン(ジョージ・セル指揮ニューヨーク・フィル)の後、セルから酷評されて鬱病を再発、2月のカーネギー・ホールでのリサイタルを最後に再び活動を休止する。実に12年間もコンサートから遠ざかることになる。
1957年(54歳)、一人娘のソニアが24歳で自殺未遂、ショックを受けて鬱が悪化する。

1965年(62歳)にカーネギーホールで演奏活動を再開。熱狂的信奉者が多数出現し、コンサートチケットはたちまち売り切れた(発売前夜に約300人、発売日の朝には1500人のファンが並ぶ)。客席には、バーンスタインやストコフスキー、バレエ界のスター、ルドルフ・ヌレエフらがいた。この演奏を収録したレコードはグラミー賞に輝く。
1968年(65歳)から1974年までの6年間、3度目の活動休止。
1975年(72歳)、娘ソニアが睡眠薬の過剰摂取により40歳で他界。
1983年(80歳)に初来日するが、処方薬の副作用から演奏は絶不調で「ひび割れた骨董」(吉田秀和)と日本の聴衆を失望させた。チケットも平均4万円でひんしゅくをかった。演奏後のホロヴィッツ「分かっている…間違った音だらけ…音をうんとはずした…自分で自分に何が起こっているか分からない」。同年から2年間の活動休止に入る。
1985年(82歳)、過熱ぎみの前宣伝とともにカムバックし、レコーディング活動を開始。
1986年(83歳)、ソ連への演奏旅行が実現、祖国での61年ぶりの演奏をおこなった。同年、ホロヴィッツの強い希望で再来日する。「3年前の私の演奏は良くなかったと思う。しかし今はもっと良い演奏ができる気がするので、再び日本で演奏したい」。見事、聴衆の期待に応え名誉を取り戻した。
1989年11月5日、自宅で食事中に急逝、享年86歳。死の4日前に最後のレコーデイングを行っている。ミラノの巨大墓地にて義父トスカニーニの霊廟に埋葬された。バイセクシャルであったとも。

ホロヴィッツはベートーベン、ショパン、リスト、スクリャービン、ラフマニノフなど広いレパートリーをもち、中でもショパンのマズルカやスクリャービンのソナタや前奏曲では独特の濃厚な抒情を繰り広げ、ラフマニノフのソナタや練習曲では色彩的で光輝く響きを生み出す独自の表現力で知られた。
また、オペラ『カルメン』や行進曲『星条旗よ永遠なれ』をもとにしたパラフレーズ(曲の構成をつくりかえて新しい曲にする)の作曲も手がけた。



★ブルーノ・ワルター/Bruno Walter 1876.9.15-1962.2.17 (スイス、モンタニョーラ 85歳)2002 指揮者
Parrocchia Cattolica di S. Abbondio/S.Abbondio Church Cemetery, Montagnola, Ticino, Switzerland



僕はクラシック・ファンになるとき、とても幸せな入り方をしたのだと思う。高校の音楽室にあったベートーヴェンの『田園交響曲』はワルター指揮コロンビア交響楽団の暖かな陽だまりのようなものだったから。そしてモーツァルトの『ジュピター』もワルター指揮のレコードだった。さらにはマーラーの『交響曲第9番』までワルターだった。思うに、音楽の先生は自分の好みでワルターを揃えていたのだろう。ワルターの寿命がステレオ録音普及に間に合ったのも大きい(他界の4年前に普及)。

ドイツ生まれのアメリカの指揮者。本名ブルーノ・ワルター・シュレジンガー。1876年9月15日にベルリンで生まれる。師マーラー(1860-1911)の16歳年下。父は絹糸商会の簿記係。モーツァルト、マーラー、ブルックナーといったオーストリアの作曲家の作品演奏に定評がある。ベルリンのシュテルン音楽院で学ぶんだ後、ピアニストとしてデビュー。ハンス・フォン・ビューローの指揮を見て感動し指揮者になることを決意。
1894年に18歳でケルン市立歌劇場にて指揮者デビュー。1896年(1894?)ハンブルク歌劇場へ移り、マーラーの助手となる。
1900年(24歳)、ベルリン宮廷歌劇場指揮者に就任。その後、ハンブルク歌劇場指揮者?
1901年(25歳)、才能がマーラーに認められ1912年まで11年間ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)でマーラーの副指揮者を務める。ワルターはマーラーから音楽、芸術、思想、哲学など多くのことを学んだ。
1911年(35歳)、心酔していた師マーラーが50歳で他界。国籍をオーストリアに移す。マーラーの死後、『大地の歌』と『交響曲第9番』を初演。
1913年(37歳)から1922年まで9年間ミュンヘン歌劇場の音楽総監督を務める。
1929年(53歳)、フルトウェングラーの後任で高名なライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者に就任し名声を高める。
1933年(57歳)、1月にナチスが政権掌握。ユダヤ人のワルターは迫害を受け、ゲバントハウス管弦楽団の演奏会が当局の圧力で中止に追い込まれる。フランクフルトの演奏会も中止になり、殺害予告が届き、楽屋に銃弾が撃ち込まれた。
1935年(59歳)、ドイツでは活動困難になりウィーンに移住する。ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任、ウィーン・フィルを指揮するなど人気を博す。
1936年(60歳)、ワーグナー『トリスタンとイゾルテ』をウィーン国立歌劇場で演奏中に、悪臭のガス弾が投げ込まれる嫌がらせを受ける。
1937年(61歳)、著書『グスタフ・マーラー』を刊行。
1938年(62歳)、ナチス・ドイツのオーストリア併合によりスイス・ルガーノに脱出。その後、フランス国籍を得る。
1939年(63歳)、ナチスによってザルツブルク音楽祭から閉め出された音楽家たちがスイス・ルツェルンで音楽祭(第2回)を開き招かれるが、離婚調停中だった次女グレーテルが夫に射殺され、夫も自殺する大事件が起きる。楽屋で訃報を聞き、打ちひしがれたワルターにかわってトスカニーニが自分の演奏会をキャンセルして代役を務めた。同年9月に第二次世界大戦が勃発。アメリカに亡命し、ニューヨークを拠点に世界各地で活躍する。
1941年(65歳)から1957年まで16年間メトロポリタン歌劇場指揮者。
1945年(69歳)、第二次世界大戦が終結。同年、妻エルザが永眠。
1946年(70歳)、米国に帰化。自伝的な著書『主題と変奏』を刊行。
1947年(71歳)から1949年まで2年間ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者を務める。
1951年(75歳)、ニューヨーク・フィルとベートーヴェン交響曲第7番を録音、モノラル時代の名盤に数えられる。
※ベートーヴェン交響曲第7番 https://www.youtube.com/watch?v=hG5SYQMd0o4
1954年(78歳)、新たに自伝的な『音楽と演奏』を刊行。
1956年(80歳)、ワルターのために編成されたコロンビア交響楽団を指揮、録音に専念する。
1958年(82歳)、この頃から世にステレオレコードが発売され始める。ワルターはベートーヴェン『交響曲第6番“田園”』マーラー『交響曲第2番“復活”』をステレオ録音。
※『田園交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=WIjiKZR0BSs
1960年(84歳)、マーラー生誕100周年記念祭のためにウィーン・フィルを指揮。同年、新進のヴァン・クライバーンと共演し演奏会から引退。同年、モーツァルト『交響曲第41番“ジュピター”』をステレオ録音。
※『ジュピター交響曲』 https://www.youtube.com/watch?v=9Psr7qr5Lx8
1961年(85歳)、マーラー『交響曲第1番“巨人”』『交響曲第9番』をステレオ録音!最後の録音は3月末のモーツァルトのオペラ序曲集。
※マーラー『交響曲第9番』第4楽章(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=EMarpnKzflY#t=60m10s
1962年2月17日にカリフォルニアのビバリーヒルズで心不全のため他界。享年85歳。遺体はスイスのルガーノに埋葬された。
ワルターの音楽は温かい人間性を感じさせ、情感豊かで、優しさと思いやりにあふれている。豊かな抒情性と気品、優雅さもあり、特にマーラーとモーツァルトに真価が発揮された。9歳目上のトスカニーニとも交流があり、トスカニーニをして「モーツァルトを聴くなら、私の演奏よりワルターを聴け」と言わしめた。
※ウィーン・フィルでのリハで悲しげに「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。
※カール・ベーム「バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できた」。ベームはワルターを慕い、モーツァルトやシューベルトの演奏をワルターに教えてもらったという。

〔墓巡礼〕
ブルーノ・ワルターの墓はスイス南部、イタリア国境に近いルガーノの小村モンタニョーラの聖アボンディオ教会墓地(Cimitero di S. Abbondio)にある。ワルターの指揮はぬくもりや優しさが伝わってきて、その素晴らしい田園交響曲を聴く度に、マーラーを直接知る世代の彼がステレオ録音の時代まで長生きしたことの幸運を、音楽ファンとして感謝せずにいられない。だが、ドイツ出身者でスイスに墓がある芸術家の多くがそうであるように、ワルターは彼が生み出す音色からは想像できないほど苦難の人生を歩んでいる。ベルリンで生まれたが、ユダヤ人であるためにドイツを追われ、移住先のウィーンから再びナチスのオーストリア併合で追われ、スイスで亡命生活を送っていた1939年には、次女グレーテルが離婚調停中の夫に射殺される悲劇が起きた。娘の墓がモンタニョーラに建てられ、1945年には愛妻も同じ墓に入った。それから17年後、アメリカでワルターのために編成されたコロンビア交響楽団との録音活動を行うなか、1962年に85年の波乱の生涯を閉じ、妻子が眠るスイスの墓に彼も永眠した。1970年に没した長女ロッテもここに入り、ワルターの家族がひとつになった。暖かな音楽の贈り物をありがとう、ワルターさん。同墓地にはドイツ出身の文豪ヘルマン・ヘッセやダダイズムの父フーゴ・バルも眠っている。
※聖アボンディオ教会の墓地は、教会の建物の周囲ではなく、道路を挟んで反対側にある大きな墓地。僕は最初それに気づかず、「なんでお墓がないの」と焦りまくった。



★ラファエル・クーベリック/Rafael Kubelik 1914.6.29-1996.8.11 (チェコ、プラハ 82歳)2005
Vysehradsky Hrbitov, Prague, Czech Republic

 

西暦の間に月日が入っているユニークな墓碑。クーベリック親子の上に眠っているのは、なんと画家ミュシャだ!



★ダヴィッド・オイストラフ/David Oistrakh 1908.9.30-1974.10.24 (ロシア、モスクワ 66歳)2005 バイオリニスト
Novodevichy Cemetery, Moscow, Russian Federation

 
ロシア最大のヴァイオリン奏者。巨大なオイストラフの胸像にビックリ。バイオリン付という豪華さ!

旧ソ連のバイオリン奏者。力強い豊かな音色で知られ、20世紀を代表するヴァイオリニストのひとり。7歳年上のヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)と並ぶバイオリンの巨匠。
1908年9月30日にウクライナのオデッサの商家に生まれる。5歳からヴァイオリンを始め、15歳でオデッサ音楽院に進学、学生時代からオデッサ交響楽団でソリストとして活躍した。1928年(20歳)にモスクワ移住、同年ソリストとしてレニングラードでデビュー。
1932年(24歳)から2年間モスクワ・フィルにソリストとして所属。
1934年(26歳)、モスクワ音楽院の教授に就く。
1935年、27歳で第2回全ソビエトコンクール優勝。またポーランドのビエニャフスキ国際コンクール第2位。オイストラフが2位になったビエニャフスキでは1位が11歳年下のフランスの女性ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー(1919-1949)だった。ヌヴーはまだ15歳(誕生日前)だった。オイストラフから妻への手紙。「2位になれたことに僕は満足している。ヌヴー嬢は『悪魔のように』素晴らしいと誰もが認めるだろう。昨日、彼女がヴィエニャフスキの協奏曲1番を正に信じられない力強さと激しさをこめて奏いた時、僕はそう思った。しかも彼女はまだ15歳かそこらなのだから、1位が彼女に行かなかったら、それは不公平というものだ」。 この14年後ヌブーは飛行機事故により30歳の若さで他界
する。
1937年、29歳でブリュッセルのイザイ国際コンクール(現エリザベート王妃国際音楽コンクール)優勝。
1939年(31歳)、第二次世界大戦が勃発。1941年に独ソ戦が始まるとソ連軍の最前線で慰問演奏を行なう。37歳で終戦。
1950年代から欧米で演奏旅行を開始し、各国の主要オーケストラと共演した。
1953年(45歳)、独裁者スターリンが他界。
1955年(47歳)、初訪日、以降も数度来演した。同年、初訪米。
1956年(48歳)、バッハ『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を息子イーゴリ・オイストラフ(当時25歳/1931-)と父子で収録。
※バッハ『2つのヴァイオリンのための協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=8Cafmpf4tnw (17分19秒)
1958年(50歳)、ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』をアンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送局管弦楽団と収録し名演と讃えられる。同年から指揮者としても活動。
※ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲 https://www.youtube.com/watch?v=v2zXKs-5s4g (45分)
1959年(51歳)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とチャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』の名盤を生む。
※チャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=SnAtw3MpxUU (35分)
1961年(53歳)、モスクワ・フィルの指揮者に就任。
1962年(54歳)、ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第5番“春”』『ヴァイオリン・ソナタ第9番“クロイツェル”』の名盤を収録。ピアノを担当したのは第1回ショパン国際ピアノコンクール(1927)の優勝者レフ・オボーリン(55歳/1907-1974)。
※ベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第9番“クロイツェル”』 https://www.youtube.com/watch?v=zcbrIEewW_w (34分)
1967年(59歳)、息子のヴァイオリニスト、イーゴリ・オイストラフ(当時36歳/1931-)と父子で来日、共演して喝采を浴びる。
1969年(61歳)、ベートーヴェン『三重協奏曲』をロストロポーヴィチ(42歳/1927-2007)やリヒテル(54歳/1915-1997)と共にカラヤン(61歳/1908-1989)指揮ベルリン・フィルと演奏し世界的に話題となる。
1974年10月24日、演奏旅行でオランダのコンセルトへボウを指揮した夜、アムステルダムのホテルで心不全により他界。享年66歳。体はモスクワに送られ、モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。弟子の1人にギドン・クレーメルがいる。

オイストラフは新しい音楽に大きな価値を見出し、ソ連の現代作曲家の作品を積極的に演奏した。ハチャトゥリヤンやショスタコービチ、ヒンデミットから協奏曲を献呈され初演を行った。
弓幅を大きく使ってたっぷりとヴィブラートを用い、豊潤で美しい音色を響かせ、チャイコフスキーやブラームスといった情感豊かな楽曲を得意とした。

※オイストラフにはバッハ「シャコンヌ」の録音盤がない。そもそも「私にはバッハは弾けない」とあまり録音を残さなかった。バッハ演奏の巨人ハイフェッツのレコードを集めていたといい、その影響かも…。一方、ハイフェッツもオイストラフが登場した際に、リサイタル活動を一時休止して練習に励んだという(ハイフェッツにはアイザック・スターンが現れた時も一時休止したという)。

〔墓巡礼〕
モスクワのノヴォデヴィチ墓地(世界遺産)には地下鉄1号線で「スポルチーブナヤ」駅まで行き、住宅街を北西に10分ほど歩くと到着する。一緒にベートーヴェン『三重協奏曲』を演奏したリヒテルとロストロポーヴィチが同じ墓地に眠っており、天国で楽しくセッションしているだろう。オイストラフの墓石の上部にはヴァイオリンを構えた立派な胸像が置かれている。ちなみに同じロシア(現リトアニア)出身で同時代の双璧を成した“ヴァイオリニストの王”ヤッシャ・ハイフェッツは、海に散骨されたためお墓がない。



★ジャン・ピエール・ランパル/Jean-Pierre Rampal 1922.1.7−2000.5.20 フルート奏者(パリ、モンパルナス 78歳)2002&09
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France//Plot: Division 3






2002 2009 7年の間に花が増えていた ト音記号を彫ったレリーフがあった

20世紀の最も偉大なフルート奏者。フルートをピアノのようにソロ演奏会が可能な楽器と初めて世界に知らしめた。



★アドルフ・サックス/Adolphe Sax 1814.11.6-1894.2.4 (パリ、モンマルトル 79歳)2002 サックス発明者
Cimetiere de Montmartre, Paris, France

  

楽器のサックスは、サックスさんが作ったものとは知らなかった。(ユーフォニウムもサックスさんが生みの親)



★セルジュ・チェリビダッケ/Sergiu Celibidache 1912.7.11(ユ暦6月28日)-1996.8.14 (フランス、エソンヌ 84歳)2009
Cimetiere de Neuville sur Essone, Essone(エソンヌ), France

道を尋ねるタクシーの運転手。カーナビがあっても
迷うほどの田舎(最初は違う墓地に連れて行かれた)
Neuvilleの村には2つ墓地がある

やっとチェリビダッケの墓地に到着!





墓地の左奥に眠っていた! 立派な肖像レリーフが置かれていた ハハーッ!思わず土下座!

セルジュ・チェリビダッケ(Sergiu Celibidache)は1912年7月11日にルーマニアで生まれ、幼少時からピアノに親しんだ。1936年(24歳)からベルリン音楽大学で作曲や音楽理論を学び、1945年(33歳)にベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)主催の指揮者コンクールに優勝し、同オーケストラの初代首席指揮者を翌年まで務めた。同じく1945年、8月にベルリン・フィルの首席指揮者レオ・ボルヒャルト(1899-1945)がベルリンに進駐したアメリカ兵の誤射を受けて死亡するという痛ましい事件が起きる。6日後にベルリン・フィルが行った野外コンサートでチェリビダッケは指揮を任された。彼はドボルザークの「新世界」交響曲でベルリン・フィルにデビューを飾る。この成功を受けて、翌1946年に34歳でベルリン・フィルの首席指揮者に就任した。殆どの曲を暗譜で指揮し、レパートリーをどんどん広げていく
チェリビダッケは、ベルリン・フィルの前・常任指揮者でナチスとの関係を誤解され音楽活動を禁じられているフルトウェングラーを尊敬しており、この大指揮者が裁判で無罪となるよう奔走した。1947年、フルトヴェングラーに対する嫌疑が晴れ、無事にベルリン・フィルに復帰した。その結果、首席指揮者として楽団をコントロールしたい35歳のチェリビダッケと、61歳のフルトヴェングラーを本来の首席指揮者と考えている楽団員の間に温度差が生まれる。楽団員はリハーサルを延々と行うチェリビダッケのやり方、独裁的傾向に疑問を抱いていた。
翌年にチェリビダッケはロンドン・フィルでデビュー、次第にドイツ以外で客演指揮者の仕事を引き受けるようになった。1952年にフルトヴェングラーが「終身首席指揮者」に就任したことで、チェリビダッケとベルリン・フィルのメンバーは気持ちがさらに離れていったが、チェリビダッケがベルリン・フィルを指揮すると名演の連続であり聴衆や批評家から熱烈に支持された。
1954年11月、チェリビダッケとベルリン・フィルの団員はブラームス『ドイツ・レクイエム』のリハーサルで大きく衝突。この同月末にフルトウェングラーが肺炎で他界(享年68歳)した。ベルリン・フィルのメンバーは次の終身指揮者にチェリビダッケを選ばずに4歳年上のヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)を選ぶ。これでチェリビダッケはベルリン・フィルと訣別し、両者の共演はなくなった。チェリビダッケはイタリアやデンマークに拠点を移した。
1963年(51歳)、スウェーデン放送交響楽団芸術監督に就任し8年間在籍。1972年(60歳)から南ドイツ放送交響楽団(現シュトゥットガルト放送交響楽団)の芸術監督を5年間務め、この楽団の演奏レベルを大幅にあげた。
カラヤンがレコード録音を大量に行っていたのとは逆に、チェリビダッケは「ホールで聴衆に届く音と、マイクで拾う音は響き方が異なる」と極度の録音嫌いだった。レコードがほとんどないことから日本では「幻の指揮者」と呼ばれ、1977年と1978年に来日し読売日本交響楽団で客演したときは大騒ぎになった。チェリビダッケの完全主義は日本でも発揮され、読売日本交響楽団とのリハーサルはテューニングだけで数十分を要したという。
1979年(67歳)からはずっとミュンヘン・フィル芸術音楽を務め、同オーケストラとは4度来日し、ブルックナーで聴衆を魅了した。
1989年(77歳)、カラヤンが81歳で他界。
1992年(80歳)、チェリビダッケはカラヤンの生前は決してベルリン・フィルを指揮しなかったが、ドイツ大統領ヴァイツゼッカーに頼まれて、38年ぶりにベルリン・フィルの指揮台に立ち、ブルックナーの『交響曲第7番』でただ一度限りの復帰を果たす。
ベルリン・フィルとの歴史的共演から4年後、1996年8月14日にチェリビダッケはパリの自宅で他界した。享年84歳。晩年、仏教に改宗し日本で複数回参禅を行なっている。

チェリビダッケは徹底してリハーサルを重視した。すべての音が理想の音色になるまでリハーサルを重ねるため、1公演につき約10日間のリハーサルを要求した。スローテンポの指揮で知られ、最晩年に振ったブルックナー『交響曲第8番』は、他の指揮者が約80分で演奏するのに対し、105分もの時間を要している。極度の録音嫌いで生前はレコードを発売することを許さなかったが、その反面、積極的にリハーサルを一般公開した。独自のスタイルを最後まで貫き通した希代の指揮者であった。没後、「海賊版があふれるくらいなら正規の録音を」と、家族の了承のもとライブ録音のリリースが始まった。

※「音楽は『無』であって言葉で語ることはできない。ただ『体験』のみだ」(チェリビダッケ)
※1984年、米国の音楽学校で指揮を教え、学生オーケストラによるNYカーネギーホール公演を指揮した。音楽評論家ジョン・ロックウェル「今まで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!」。
※チェリビダッケは古風な指揮者カール・ベームのことを「芋袋」と呼ぶなどかなりの毒舌であり、カラヤンをはじめ他の指揮者を散々にこき下ろした。これに心を痛めたカルロス・クライバーは、オリジナル・スコアのテンポにこだわった巨匠、故トスカニーニに扮して“天国”から次の電信を打った「ブルックナーは“あなたのテンポは全て間違っている”と言っています。天国でも地上のカラヤンは人気者です」。

【墓巡礼】
チェリビダッケの墓巡礼はなかなか大変だった。周囲に鉄道がないのでタクシーを使うしかない。唯一の情報はパリの南70kmにあるヌーヴィル=シュル=エソンヌという小村に眠っているということ。グーグルマップの衛星写真で、墓っぽい場所は確認できた。そして付近に(といっても30kmも離れているけど)画家ミレーの墓があるバルビゾン村があったので、パリからまずバルビゾンに行き、そこからヌーヴィル=シュル=エソンヌに向かうことにした。タクシー代がけっこうかかりそうだったので、日本を出る前に「ミレー、チェリビダッケの墓参りしませんか。天才ジャズギタリストのジャンゴ・ラインハルトの墓にも足を伸ばせます」とインターネットで声を掛けたところ、フランスに留学中のH氏から参加表明!2009年5月の朝8時、パリのリヨン駅で待ち合わせて列車で南下を始めた。ポータブルDVDを持参し、移動中にベルリン・フィルを38年ぶりに振ったブルックナーの『交響曲第7番』の映像を2人で見てテンションをあげた。午前にフォンテーヌブローでラインハルト、昼にバルビゾンでミレーを墓参し、アトリエを見学し終わったのが午後3時。さあ、次はいよいよチェリビダッケの墓だ。ところが、バルビゾンも田舎なので、観光案内所でタクシーを呼んでもらってもなかなか来てくれない。30分ほど待ってタクシーが到着、延々と続く田園地帯を眺めながら、野を越え、丘を越え、30km先のヌーヴィル=シュル=エソンヌに到着した。…と思いきや、タクシーの運転手さんは初めての道であり、カーナビがあっても迷うほどの田舎で、「これかな?」という墓地に入った。運転手さんも加えて3人で探せどチェリビダッケの墓石が一向に見つからない。ちょうど墓地に来た人がいて尋ねてみると、どうやら僕らはひとつ手前の村の墓地に来たようだ。運転手さ〜ん!(汗)。隣の村に移動し、畑の中の墓地へ。めちゃくちゃ、のどかな場所だ。今度はすぐにチェリビダッケの墓が見つかった。彼の墓の上には肖像画のレリーフがあり、遠目にも目立っていたからだ。「やっと会えたよ、チェリさん!」。墓前でH氏とガッシリ握手。チェリビダッケの重戦車のような演奏を思い出しながら、人類に素晴らしい音の遺産を遺してくれたことに感謝の言葉を捧げた。簡単にはお墓に行けないこのハードルの高さが、自分の中のチェリビダッケのイメージ通りというか、苦労はすれどその苦労が嬉しいという不思議な精神状態になった忘れられない巡礼だ。



★アイザック・スターン/Isaac Stern 1920.7.21-2001.9.22 (USA、コネチカット州 81歳)2009
Morningside Cemetery, Gaylordsville, Litchfield County, Connecticut, USA

  
広い丘に墓石が点在している、のどかで牧歌的な墓地にスターンは眠る
持参したDVDプレーヤーを前に置き、故人が演奏したブラームス『弦楽六重奏曲第一番』を奉納


ロシア出身のアメリカのバイオリニスト。1920年7月21日、ウクライナのクレメネツに生まれる。1歳のときにユダヤ系の両親と共にサンフランシスコに移住、幼児期から母親に音楽の手ほどきを受け、1928年にわずか8歳でサンフランシスコ音楽院に入学する。
1936年2月、15歳でサン=サーンス『ヴァイオリン協奏曲第3番』をピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団と共演しデビューを果たす。
1943年(23歳)、カーネギー・ホールのリサイタルが一大センセーションを巻き起こす大成功となり、世界に名が知られるようになった。
1948年(28歳)以後、共産圏を含め世界中でコンサートを開いた。
1953年(33歳)、初来日。以降度々訪日する。
1958年(38歳)、メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』をユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団と収録、高く評価される。
※メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=vFiAUtM59_A (27分)
1960年(40歳)、スターン三重奏団を結成。同年、経営難で取り壊しの危機にあったカーネギー・ホールの存続のために尽力、救済団体を組織し同ホールを救った。以後30年以上同ホールの館長を務めて後進の指導に当たる。
1971年(51歳)、ユダヤ人迫害を描いたミュージカル映画『屋根の上のバイオリン弾き』で劇伴のヴァイオリンソロを担当。
1979年(59歳)、中国政府に招かれ、演奏旅行のかたわら、中国各地でヴァイオリンの指導を行う。
1982年(62歳)、中国演奏旅行の記録映画『毛沢東からモーツァルトへ〜中国のアイザック・スターン』がドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞。
1980年代からは後進の育成に尽力し、ヴァイオリンのイツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマン、シュロモ・ミンツ、諏訪内晶子、五嶋みどり、チェロのヨーヨー・マら世界的演奏家を指導。
1985年(65歳)、広島で行なわれた戦後40年「平和コンサート」に参加。
1991年(71歳)、湾岸戦争下、イスラエル公演の最中に空襲警報(イラクのミサイル)が鳴ったが、スターンは最後まで弾き続けた。リハーサルはガスマスクをつけて行った。
1992年(72歳)、エマニュエル・アックス、ハイメ・ラレード、ヨーヨー・マと共演したブラームスの室内楽アルバムがグラミー賞を受賞。
1996年(76歳)、宮崎国際音楽祭の初代音楽監督に就任。
1997年(77歳)、勲三等旭日中綬章受章。
2001年9月22日、アメリカ同時多発テロ事件の11日後、心不全によりニューヨークで他界。享年81歳。最期まで精力的な活動を続けた。
2002年、宮崎県立芸術劇場コンサートホールが宮崎県立芸術劇場アイザックスターンホールに改称される。
宮崎国際音楽祭の初代音楽監督を務めるなど日本ともゆかりが深かったスターン。レパートリーは古典から現代まで幅広く、完璧なテクニックから生みだされる豊かで艶のある音色で聴衆を魅了し、20世紀を代表するバイオリンの巨匠のひとりとなった。

〔墓巡礼〕
スターンはアメリカ北東部コネチカット州の「モーニングサイド墓地」という爽やかな名前の墓地に眠っている。付近はゆるやかな丘陵地帯で自然と一体化した墓地。広い丘に墓石が点在している、とてものどかで牧歌的な雰囲気の墓地。野原の一角、雑木林の手前にスターンの墓があった。僕は日本から持参したポータブルDVDを取り出し、青空の下、墓前に設置。そして、スターンがヨーヨー・マら音楽仲間と共演したブラームス『弦楽六重奏曲第1番』の第2楽章を再生し、「名演奉納」を行った。故人の演奏を聴きながら墓前に座していると、スターンがまだ生きていて、すぐそこにいるみたいだった。こちらが御礼を伝えるだけの一方的な墓参ではなく、魂の交歓をした感覚。半時間ほど過ごし、深々と礼をして墓地を去った。

※愛器は1734年製のグァルネリ「パネッテ」と、1740年製のグァルネリ「イザイ」。
※バルトークの『ヴァイオリン協奏曲第1番』を初演者の依頼で再演奏し、同曲に光を当てた。
※中東和平を推進したイスラエルのバラク政権を支持し、ドイツを訪れユダヤとドイツ人との和解に努めた。
※カーネギホールのメインホール(2800人収容)の名称は「アイザック・スターン・オーディトリウム/ ロナルド・オー・ペレルマン・ステージ」。



★フリードリヒ・グルダ Friedrich Gulda 1930.5.16-2000.1.27(オーストリア、アッター湖畔 69歳)2015
Friedhof Steinbach am Attersee, Steinbach am Attersee, Vocklabruck Bezirk, Upper Austria (Oberosterreich), Austria



クラシックとジャズに名演 アッター湖を望むシュタインバッハ墓地 湖畔の碧さにため息。泣ける美しさ







地球から太陽が昇る、そんな宇宙的な墓 この角度は太陽が輝く 「かっこいい、おはか!」幼児もズギュン 「FRIEDRICH GULDA」

20世紀を代表するピアニストの一人。エスニック柄の丸い帽子、サングラス、赤い文字盤の目立つ腕時計、燕尾服を着ずにセーターとダブダブのズボンといったラフな服装で袖をまくって演奏した自由奔放、型破りなピアニスト。モーツァルト、ベートーヴェン演奏の名手で作曲もこなした。
1930年5月16日、オーストリア・ウィーンに生まれる。12歳でウィーン音楽院に入学、14歳でデビュー。
1946年、16歳の若さでジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門で優勝し、一躍注目される。
1947年(17歳)、初のレコーディングを行い、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、プロコフィエフなどを録音。グルダ自身、既に自分のピアノ演奏は完成したと認識。
1955年(25歳)、弟子入りを志願してきた当時14歳のマルタ・アルゲリッチ(1941-)にピアノ指導。
1950年(20歳)、ニューヨークのカーネギー・ホールにデビューし、ベートーベンのピアノ・ソナタ全32曲を演奏。
1954年(24歳)、最初のベートーヴェン『ピアノソナタ全集』を録音終了。
1956年(26歳)、好奇心旺盛で、自由な即興音楽に惹かれたグルダはニューポートのジャズフェスティバルへに出演。
1958年(28歳)、2度目のベートーヴェン『ピアノソナタ全集』を録音終了。
1962年(32歳)、ジャズピアニストへの転向を表明。周囲の説得でクラシックの演奏も続ける。
1968年(38歳)、生涯3度目となるベートーヴェン『ピアノソナタ全集』録音を終える。独自の解釈によるベートーベン作品の演奏で高く評価されると同時に論争も呼んだ。同年、ジャズ・バンドを結成。
※あふれ出る情感!完璧なテンポ!ベートーヴェン『ピアノ・ソナタ 月光』
https://www.youtube.com/watch?v=SGNSZ-b2E7w
40代に入った1970年頃から、ジャズへの傾倒が加速、ジャンルを超えて活動していく。アンコール曲で自身が作曲した「アリア」を“即興演奏”することも。後年はテクノ音楽にも関心を示す。
※グルダ作曲『アリア』 https://www.youtube.com/watch?v=KUb8z724pbU (4分)1990年のライブ
1970年(40歳)、ホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィルとの共演で名盤と讃えられるベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』を収録。
https://www.youtube.com/watch?v=0582H1fdMos
1980年(50歳)にノリノリのビートと歌心が同居した『チェロと吹奏楽のための協奏曲』を作曲。この曲はギターも登場する。
※グルダ指揮『チェロと吹奏楽のための協奏曲』
https://www.youtube.com/watch?v=1VgVBv9M-rc (32分)終楽章の指揮がぶっ飛んでる!
1982年(52歳)、『ウルスラのための協奏曲』を作曲。
1989年(59歳)、ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックと共演。
※ハービーとの『Night and day』 https://youtu.be/0QplmRgXVr0
1999年(69歳)、最後の録音となったシューベルト『4つの即興曲D935』を自宅スタジオで収録。同年3月、マスコミに偽の訃報を流し、数日後に”生き返った”という設定で復活コンサート開催。
2000年、生前から「敬愛するモーツァルトの誕生日に死にたい」と公言していたが、実際にモーツァルトの誕生日である1月27日に自宅で心臓発作により他界した。享年69。
2人目の妻が日本人ジャズピアニストの祐子夫人ということもあり親日家で、1967年、1969年、1993年に来日している。トレードマークは帽子。

※グルダの名演、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番。第2楽章に聴き惚れる。
https://www.youtube.com/watch?v=p_33zTtiWPA&list=PLD339D94ACD119971 (9分)
※グルダのスウィング 自作のプレリュードとフーガ
https://www.youtube.com/watch?v=B5qImtIYCvM (4分)
※グルダの晩年のベートーヴェン皇帝。自ら指揮。1989年(59歳)のもの。
https://www.youtube.com/watch?v=weK_L4oxbEo
※先妻の子パウル、祐子夫人の子リコはピアニストになった。
※グルダがチック・コリアにモーツァルトの弾き方を教えた。

〔墓巡礼〕
グルダの墓はオーストリア中部ザルツブルグの東40kmに位置するアッター湖畔シュタインバッハ村にある。丘の上の非常に風光明媚な墓所で、墓前からはアッター湖の碧く輝く湖面と緑の山々が望め、穏やかな時間が静かに流れている。聴こえるのは、時折さえずる鳥の声ばかり。各地の墓地を訪ねて来たけれど、没後に錨を下ろす場所として世界最高の墓所のひとつにあげたい。何時間でもいられる墓地だ。彼の墓のデザインは独創性に富んでおり、土台の地球から黄金の太陽が昇るといった、宇宙的な墓になっている。墓石に刻まれた言葉は「WOLLT IHR MIT MIR
FLIEGEN SCHWEBEN LASST IM TAKT DIE ERDE BEBEN(タクトで地球のリズムを聴かせて、私と一緒に飛んでほしい)」。グルダの墓が当地になければ一生訪れる機会がなかったので、数々の名演奏への御礼と合わせて、ここに呼んでくれたことに感謝した。近隣の村にはグスタフ・マーラーが交響曲第2番『復活』を完成させた作曲小屋もあり、芸術家を魅了する素晴らしい湖畔だ。



★カール・ベーム/Karl Bohm 1894.8.28-1981.8.14 (オーストリア、グラーツ 86歳)2015
Steinfeld Friedhof Graz, Austria Plot: No.B177

日本での人気はもはや“信仰”に近いレベル 日本人の真面目な気質とドンピシャだった 若きベーム





朝6時半に巡礼。雨が上がった直後 門から入って一番奥の壁にベームの墓 “ドクター”と肩書きあり

“オーストリア共和国音楽総監督”というスゴイ響きの称号を持つ。ドイツ音楽の正統派として知られるオーストリアの指揮者。20世紀を代表する大指揮者の1人。演奏に高い構成力と様式感があり、硬派で実直な演奏は日本人の真面目な気質とドンピシャ。多くの人から愛され、日本での人気はもはや“信仰”に近いレベルだった。

1894年8月28日、オーストリア東南部グラーツに生まれる。フルトヴェングラーの8歳年下で、カラヤンの14歳年上。弁護士である父親の希望でグラーツ大学で法学を専攻し法学博士の学位を得、続いてグラーツ音楽院で音楽を学ぶ。
1917年(23歳)、グラーツ市立歌劇場で指揮者デビュー。その後、ベームの振る『ローエングリン』に感動した指揮者カール・ムックがワルターに紹介。
1921年(27歳)、バイエルン国立歌劇場音楽監督のブルーノ・ワルターの招きで同歌劇場の第4指揮者となる。ベームはワルターの影響を強く受け、モーツァルトの魅力に開眼する。
1922年(28歳)、バイエルン国立歌劇場の音楽監督がワルターからクナッパーツブッシュに代わる。
1927年(33歳)、ダルムシュタットの音楽監督に就任し、現代作品を積極的に紹介して注目される。特にアルバン・ベルクの『ヴォツェック』の指揮が絶賛され、ベルク本人との友情も芽生えた。
1931年(37歳)、ハンブルク国立歌劇場の音楽監督に就任。リヒャルト・シュトラウスと親交を結ぶ。
1933年(39歳)、ウィーン国立歌劇場およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にデビューする。ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』で名声を確立した。同年、隣国ドイツでヒトラーが政権を握る。
1934年(40歳)、リヒャルト・シュトラウスゆかりのドレスデンでドレスデン国立歌劇場の音楽監督に就任。
1935年(41歳)、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『無口な女』初演。
1936年(42歳)、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにデビュー。
1938年(44歳)、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ダフネ』初演。この作品はベームに献呈された。
1943年(49歳)から1945年までウィーン国立歌劇場の音楽総監督をつとめ、オーストリア音楽界の頂点を極める。ベームはシュヴァルツコップなど才能ある歌手を次々と見いだして伝説的なベーム・アンサンブルを作り上げた。
1944年(50歳)、R・シュトラウス生誕80年祭に際し、シュトラウスに祝辞を述べ、作曲者臨席のもと『ナクソス島のアリアドネ』を指揮。以降、ベームはこの作品を特に愛した。
1945年(51歳)、第二次世界大戦の敗戦後に連合軍から演奏活動停止命令を受ける。1947年に解除。
1954年(60歳)から1956年まで、再びウィーン国立歌劇場の音楽総監督をつとめる。
1955年(61歳)、大戦時の爆撃で焼失したウィーン国立歌劇場が再建され、再開記念公演の『フィデリオ』を指揮。同年、マイナーだったR・シュトラウスのオペラ『影のない女』を世界初全曲録音する。渋るレコード会社に「ギャラなし・一発録り」という条件で実現した。
1956年(62歳)、フリーランスとなり客演や録音活動を行っていく。
ザルツブルク音楽祭、バイロイト音楽祭にも常連として出演を重ね、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にも1957年以降しばしば客演した。
1958年(64歳)、R・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』をベルリン・フィルと録音し、名盤が爆誕。
※R・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』 https://www.youtube.com/watch?v=yfMgPaJHLzg (35分)
1962年(68歳)、バイロイト音楽祭に初登場、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。オペラ史に燦然と輝く新バイロイト様式を作り上げた。
1963年(69歳)、ベルリン・ドイツ・オペラと初来日。
1964年(70歳)、母国より「オーストリア音楽総監督」の称号をうける。
1966年(72歳)、この年のバイロイト音楽祭の『トリスタンとイゾルデ』のライヴ録音は特に評価が高い。ソプラノのビルギット・ニルソン「これまでに『トリスタンとイゾルデ』を33人の指揮者の下で歌ったが、誰もベームに比肩することはなかった」。
1967年(73歳)、ウィーン・フィル創立125周年を記念し、ベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を得る。
1971年(77歳)、モーツァルトの『レクイエム』をウィーン・フィルと録音、その深い解釈から歴史的名盤となる。
※モーツァルト『レクイエム』 https://www.youtube.com/watch?v=6oA3MFrL2aM (64分)
※モーツァルト『レクイエム』ラクリモサ(頭出し済) https://www.youtube.com/watch?v=6oA3MFrL2aM#t=30m05s
1973年(79歳)、オーストリア政府から若い指揮者のための「カール・ベーム賞」制定が発表される。
1975年(81歳)、ウィーン・フィルと来日。日本でのベーム人気に火がつく。
1977年(83歳)、ウィーン・フィルと来日。
1979年(85歳)、「ベーム85歳の誕生祝賀会」に出席したカラヤン「禅の高僧が矢を射る時、“私が矢を飛ばす”とは言わず“矢が飛ぶ”と言う。すなわち“無為の為”である。これと同じく、ベームの指揮は“音楽が湧く”と言える。つまりベームによって、音楽が自ら奏ではじめるのである」。
1980年(86歳)、ウィーン国立歌劇場と来日。
1981年8月14日、ザルツブルクにて86歳で他界。モーツァルトの生誕地で没したのはモーツァルトのスペシャリストとしての運命的なものを感じる。訃報を聞いたカラヤンは演奏会の冒頭に追悼の言葉を述べ、モーツァルトの『フリーメイソンのための葬送音楽』が演奏した。カルロス・クライバー、ショルティ、ポリーニ、ヨッフムらも追悼演奏会を開いた。
2015年、ベームの黒歴史、すなわちナチスとの関係を直視する時がきた。ザルツブルク音楽祭はベームとナチスが互いを利用していたと認め、大ホールの「カール・ベーム・ザール」に次の石板を設置すると発表。「ベームは第三帝国の受益者であり、そのシステムを利用した。彼の昇進は、ユダヤ人と同僚の追放によって早まった」。

ベームは世界ではじめてモーツァルトの交響曲の全曲録音をおこなう偉業をベルリン・フィルと成し遂げ、ウィーン・フィルとはベートーヴェン交響曲全集を完成させた。ベームが演奏するドイツ・オーストリア音楽はひとつの規範とされた。
代表的なリヒャルト・シュトラウス指揮者であると同時に、ワーグナーやベルクの演奏にも優れ、ベルリン・フィルをはじめ世界の名門オーケストラに客演、圧倒的な名声を確立した。レパートリーはドイツ音楽に限られていたが、作品の核心に迫る真摯な表現と鋼鉄の構成力が、派手さより渋さを好む音楽ファンに支持された。

※聴覚に優れ、楽譜の間違いを練習でよく正していたので、ウィーン・フィルからは「音楽上の弁護士(法律顧問)」と評された。
※オーストリア大統領キルヒシュレーガー(当時)「(オーストリア)共和国が与え得る栄誉はすべて与えました」。
※ベームと同郷グラーツの楽団員は特別扱いにされ、ベームが手厳しく当たっていた奏者がグラーツ生まれと知った途端、急に褒めだしたという。
※ペーター・シュライアー「(ベームの「コジ・ファン・トゥッテ」は)他の指揮者の下ではこれほどの感激を味わえない」。
※故郷グラーツとザルツブルクを結ぶ特急列車がカール・ベーム号と名付けられた。
※最後の録音は映画版「エレクトラ」。
※カール・ベームのドキュメンタリー(日本語字幕) https://youtu.be/-FMPPYKD5N4 (53分)
※ベーム指揮ウィーン・フィルのモーツァルト『交響曲第41番ジュピター』(27分)

〔墓巡礼〕
“オーストリア共和国音楽総監督”というスゴイ響きの称号を持つカール・ベームは、その死に際し、ウィーン市当局からベートーヴェンやブラームスなど楽聖たちが眠るウィーン中央墓地提供の申し出があった。だが、ベームが故郷グラーツをこよなく愛していたこともあり、遺族はグラーツのベーム家の墓に合葬した。墓所のシュタインフェルト墓地はグラーツ駅から徒歩圏内というとても墓参しやすい場所にあり、その一番奥にベーム家の巨大墓がそびえ立つ。墓碑には13人の名前が刻まれており中央右側に「ドクター・カール・ベーム」とあった。法学博士としての称号だが、これを見てウィーン・フィル団員がリハーサルの厳しいベームを評した「音楽上の法律顧問」を思い出した。墓碑の黒い石板が、硬派で武骨なベームらしかった。墓前でベームが振ったモーツァルトの『レクイエム』の素晴らしさを伝えた。あの胸に染みいる冒頭のテンポと美しいラクリモサを。



★レオポルド・ストコフスキー/Leopold Stokowski 1882.4.18-1977.9.13 (イギリス、ロンドン郊外 95歳)2015
East Finchley Cemetery and Crematorium, East Finchley, London Borough of Barnet, Greater London, England

墓地のEAST AVENUEに眠る 分岐点の道路沿い、ゴミ箱が目印

黄色いキンポウゲが咲いていた 墓碑に「Music is the Voise of the All」

イギリス出身のアメリカの指揮者。舞台上の音響をよく研究し、それまでオーケストラの楽器配置は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが左右両翼に別れていたのを、ストコフスキーが左手から第1・第2バイオリン、ビオラ、チェロと配置し、以降この「ストコフスキー・シフト」が多くの管弦楽団で採用されている。フィラデルフィア管弦楽団の指揮者を四半世紀務めて世界有数のオーケストラに育て上げた。
1882年4月18日、ロンドン生まれ。父はポーランド人、母はアイルランド人。オックスフォード大学とロンドンの王立音楽大学で音楽を学ぶ。
1905年(23歳)、渡米してニューヨークの聖バーソロミュー教会のオルガン奏者となる。
1908年(26歳)、指揮者に転向してパリで指揮者デビュー。
1909年(27歳)から1912年までシンシナティ交響楽団の常任指揮者を務める。
1910年(28歳)、マーラーが自身の指揮で初演した『交響曲第8番“千人の交響曲”』をミュンヘンで聴く。マーラーは翌年他界。
1912年(30歳)から1940年まで約四半世紀もフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者となり、弦楽器の豊かな響きを充実させて米国有数の管弦楽団に育成する。
1915年(33歳)、アメリカに帰化、市民権を得る。
1916年(34歳)、マーラー『交響曲第8番“千人の交響曲”』、リヒャルト・シュトラウス『アルプス交響曲』をアメリカ初演。彼は前者を作曲者であるマーラー自身の指揮による世界初演を客席にいて聞いている)
1917年(35歳)、最初の録音(ブラームスのハンガリー舞曲)を行う。以後60年にわたる長期の録音歴が始まる(95歳まで生きた指揮者は少ないのでレコーディング歴は最長では?どこにも書いてないけど)。
1922年(40歳)、ストラヴィンスキー『春の祭典』、ファリャ『恋は魔術師』をアメリカ初演。
1928年(46歳)、自身でバッハ『トッカータとフーガ』を管弦楽用に編曲し、手兵のフィラデルフィア管弦楽団と録音する。元々はオーケストラの練習用に編曲したもの。楽団員から好評だったので演奏会に出した結果大評判になった。
1929年(47歳)から指揮棒なしで華麗な指揮をおこなう。いわく「1本の棒より、10本の指の方が遥かに優れた音色を引き出せる」。
1931年(49歳)、ベルクの歌劇『ヴォツェック』をアメリカ初演。同年、4年がかりでブラームスの交響曲全集を世界で初めて録音終了。
1932年(50歳)、米ベル研究所により世界初となるステレオ録音を実験的に行う。同年、シェーンベルク『グレの歌』をアメリカ初演。
1933年(51歳)、若い聴衆のために「青年コンサート」を開始。
1934年(52歳)、ラフマニノフ『パガニーニの主題による狂詩曲』を世界初演。
1936年(54歳)、フィラデルフィア管の保守的な理事会と意見が合わず、ユージン・オーマンディが共同指揮者に就任する。
1937年(55歳)、映画『オーケストラの少女』に出演。
1940年(58歳)、ディズニー映画『ファンタジア』に出演。フィラデルフィア管との名演奏で世界各地の音楽ファンを魅了する。一方、この年にフィラデルフィア管との契約が切れ、ゲスト指揮者となる。
1941年(59歳)、第14回アカデミー賞の特別賞(『ファンタジア』)をウォルト・ディズニーとともに受賞。フィラデルフィア管と訣別し、以後は自由な立場で各地に客演。
1947年(65歳)から1950年までニューヨーク・フィルハーモニーを指揮。
1955年(73歳)から1960年までヒューストン交響楽団を指揮。
1958年(76歳)、レコードのステレオ化が始まる。
1960年(78歳)、訣別から約20年ぶりにフィラデルフィア管弦楽団を指揮。
1961年(79歳)、メトロポリタン歌劇場でプッチーニ『トゥーランドット』を指揮。これが生涯唯一のオペラハウスでの演奏となった。
1962年(80歳)、私財をなげうちアメリカ交響楽団を創設し1972年まで音楽監督を務める。
1965年(83歳)、来日して日本フィルハーモニー(日本武道館)と読売日本交響楽団(東京文化会館)とに客演。日本武道館ではベートーヴェンの運命交響曲やバッハの『トッカータとフーガ』を演奏し、翌年のビートルズ公演に先立って武道館で最初にコンサートを行った外国人音楽家となった。この武道館公演は「武道館はコンサート会場ではない」とする正力松太郎の妨害でなかなか公演許可が下りなかったという。
1966年(84歳)、自身が編曲したムソルグスキー『展覧会の絵』をニュー・フィルハーモニア管弦楽団と録音。ラヴェルの編曲で印象的な冒頭プロムナードのトランペット演奏は弦楽器になっている(これはこれで良い!)。
※ムソルグスキー『展覧会の絵』(ストコフスキー編) https://www.youtube.com/watch?v=6dhYbTdVcRQ (27分17秒)
同年、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』をグレン・グールドと録音、レコードの回転数を間違えたのか確認しそうな超スローペースが話題に。
※『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』 https://www.youtube.com/watch?v=fp5D6cVtWMw
1973年(91歳)、トロント響の副指揮者だった秋山和慶(当時32歳)を聴いて胸を打たれ、自ら楽屋を訪れアメリカ交響楽団との兼任を要請して楽団を譲り、英国に帰国。ロンドンで客演活動を続ける。
1974年(92歳)、CBSコロンビアと6年契約を結ぶ。100歳まで現役を続けるつもりだった。
1977年9月13日、ハンプシャー州ネザーワロップの自宅で心臓発作により他界。享年95歳!3カ月前の6月まで録音を行っており、5日後にはラフマニノフの交響曲第2番の録音予定があった。イーストフィンチリー墓地に埋葬された。

指揮棒を使わず、「音の魔術師」のように10本の指先から表情豊かな音色を引き出したストコフスキー。生涯をかけてクラシック音楽の大衆への普及に努めた。彼のライブ版を聴いていると、アメリカの聴衆がシンフォニーの第一楽章が終わった時点で拍手している音源とたまに出くわす。普段クラシックを聴かない層に向けて演奏していることがわかり、その努力に敬意を表さずにはいられない。陽気でわかりやすい音楽が好まれる傾向のあるアメリカで、マーラー、シベリウス、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ベルクらの作品を果敢に紹介した。20世紀の作曲家の作品を2000曲以上も初演していることは特筆に値する。オーケストラの豊かで多彩な響きを生涯追い求め、バッハのオルガン曲などで編曲にもすぐれた手腕を見せた。
ストコフスキーは、音楽の楽しさや喜びを伝えるという大義名分のもと、ときには分かりやすくするために楽曲に手を入れ改変することも辞さず、批評家をカンカンに怒らせたりしたが、楽曲を華麗に響かせるサービス精神全開の「ストコ節」は、一般聴衆から大きな喝采を得た。クラシックの高尚さは深刻さと苦悩の深さで保たれるという価値観のもとでは、ストコフスキーは二流扱いされ、大衆に媚を売る低級なやり方と受け取る批評家もいたが、古典や現代の音楽を親しみやすい形で紹介した偉業は称えられてしかるべき。時代の動向を敏感にとらえ、レコード、ラジオ、映画などのメディアを積極的に活用して啓蒙活動に取り組み、20世紀の前半、大衆にもっとも人気のある指揮者だった。その強烈な個性でやりたいことをすべてやって95年を生き抜いた。
※「ストコフスキーがブラームスを演じるたびに、私はいつも行く」(ブルーノ・ワルター)
※十八番のチャイコフスキー『交響曲第5番』第4楽章 https://www.youtube.com/watch?v=NEYQXTVoFqc (13分)
※最後の録音はビゼーの交響曲とメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。

〔墓巡礼〕
クラシック・ファンになったきっかけは色々あるけれど、高校時代にリバイバル上映で鑑賞したディズニー映画『ファンタジア』は間違いなく理由の一つ。ストコフスキーがオーケストラ用に編曲したバッハ『トッカータとフーガ』の神々しさに激感動し、完全に「音の魔術師」ストコフスキーに胸を射抜かれた。クラシックを聴き進めていくうちに、カラヤンやバーンスタインのような評価を得られてないばかりか、評論家からは異端扱いされている指揮者と気づいたけれども、ストコフスキーはクラシックを聴く楽しさを教えてくれた大恩人の一人であり、僕は忠誠心に近い感情を持っている。トスカニーニとストコフスキーが活躍していた頃のアメリカの音楽ファンは、スコア絶対主義の前者と、楽曲を“より魅力的にする”善意の改変ならOKという後者の、両方の演奏を聴けて楽しかったろうなぁ。
「いつか御礼を言いに行かなくては」、そう思った青春時代から約30年が経った2015年夏、ついにストコフスキーの墓参りが実現した。ロンドン中心部から北に10km、イースト・フィンチリー墓地(East Finchley Cemetery)にマエストロは眠っている。広い墓地だけどローズマリー・アベニューとイースト・アベニューの分岐点に墓があるので、そこを目印にすれば分かりやすい。指揮者の中には長寿の人もいるけど、大抵は80歳になれば現役を退いている。ストコフスキーは94歳の時点でレコード会社と6年契約を結んでおり、95歳で亡くなったときも数日後にラフマニノフの交響曲を演奏する予定だった。墓前で出た言葉は「まさに生涯現役のままの大往生、天晴れです」。6月に訪れるとお墓の周囲には黄色い小さなキンポウゲがたくさん咲いていた。ストコフスキーもホッコリしているだろう。



★ハンス・クナッパーツブッシュ/Hans Knappertsbusch 1888.3.12-1965.10.25(ドイツ、ミュンヘン 77歳)2015
Bogenhausener Friedhof,Munchen

 

  

史上最高のワーグナー指揮者の一人と称えられるドイツの指揮者。193センチの長身。空間が揺れ大波がうねるような壮大な響きと説得力のあるテンポ感覚で絶大な人気を博し、ワーグナーやブルックナーに名演を多数残した。
1888年3月12日、ドイツ西部エルバーフェルトに生まれる。フルトヴェングラーの2歳年下。父はアルコール蒸留会社を経営。ボン大学で哲学をまなぶかたわら、ケルン音楽院で指揮法を学んだ。
1909年(21歳)から1912年までバイロイトで指揮者ハンス・リヒターの助手をつとめる。その後、故郷エルバーフェルト、ライプチヒ、デッサウなどの歌劇場で指揮者経験を重ねていく。
1922年(34歳)、ブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任。
1929年(41歳)、ザルツブルク音楽祭に出演、ウィーン・フィルを指揮する。1941年まで常連として出演を重ねた。
1933年(45歳)、ヒトラーが独裁体制を確立。
1935年(47歳)、ナチ党への参加を拒否するなどアンチ・ナチスの姿勢がゲッベルスの怒りを買い、ヒトラーの意向もあって音楽監督の地位を追われ、バイエルン州での演奏活動を禁止される。
1936年(48歳)、「ドイツの芸術家がオーストリアで働くことを許可しない」というナチスの方針を無視して、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。
1944年(56歳)、爆撃で破壊される前のウィーン国立歌劇場でワーグナー『神々の黄昏』を上演(公演後に崩壊)。
1945年(57歳)、第二次世界大戦が終結し、音楽総監督としてバイエルン国立歌劇場に復帰。ところが、1ヵ月後に連合軍から「反ユダヤ主義者」という誤情報で2年も活動禁止となり、連合軍は謝罪した。戦時中の彼は、むしろ迫害された音楽家を助けていた。
1947年(59歳)、改めて活動を再開し、最初にバンベルク交響楽団を指揮する。
1951年(63歳)から1964年までバイロイト音楽祭に出演(1953年は演出家ヴィーラント・ワーグナーと意見があわず出演拒否)、主幹的指揮者として戦後のバイロイトに歴史的名演を数多くのこした。毎回必ず1曲は楽劇『パルジファル』を指揮しており、相当この作品を気に入っていたようだ(『パルジファル』13回、2番目の『マイスタージンガー』は3回)。
1955年(67歳)、大戦後に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士』を指揮。クナッパーツブッシュは本番でのインスピレーションや即興性を重視しており、筋金入りの練習嫌い。大切な記念公演にもかかわらず、練習場所も集まったオーケストラの団員に向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言い帰ってしまったという。
1961年(73歳)、胃の大手術を受け座って指揮するようになる。
1963年(74歳)、ブルックナー『交響曲第8番』をミュンヘン・フィルと録音し、歴史的名盤となる。
※ブルックナー『交響曲第8番』 https://www.youtube.com/watch?v=gv9grDuQ2QM (85分)
※ブルックナー『交響曲第8番』第4楽章(頭出し済)https://www.youtube.com/watch?v=gv9grDuQ2QM#t=59m40s
1964年(76歳)、自宅で転倒して大腿骨を骨折。一気に体力が衰える。
1965年10月25日、自宅にて77歳で他界。亡骸はミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地(聖ゲオルグ教会)に葬られ、後に2番目の妻マリオンも隣りに永眠した。

クナッパーツブッシュはワーグナーやブルックナーの大家であったが、戦後は活動の場がバイロイト、ウィーン、ミュンヘンにほぼ限定されていた。また、レパートリーもベートーベン、ブルックナー、ブラームス、ワーグナーというドイツ語圏中心の狭いものであったため、幅広い人気は得られなかったが、悠然とかまえてテンポを極端に変更せず巨大なスケール感のある音楽をつくり続けた。人物的には高潔な芸術家かつ野卑な俗物という二面性を持ち物議をかもした。
感情豊かにゆっくりとしたテンポで語り紡いでいく指揮の心地よさ。

※マタチッチ「フルトヴェングラーとクナッパーツブッシュこそ最高」。
※過去のウィキペディア記事には、練習して本番でミスした団員に「それみろ!練習なんてするからだ」と言い放ったエピソードがあったそうだけど、今は消えている。デマだったのかな。本当だったら面白いのになぁ。
※シューベルト、ウェーバー、ヨハン・シュトラウスの小品にも名演がある。
※ヴィルヘルム・バックハウスとのベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』の映像が残る。
ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』https://www.youtube.com/watch?v=cHjF3dzMJhU

〔墓巡礼〕
悠然とした圧巻のブルックナー『交響曲第8番』で音楽ファンをノックアウトし、熱烈なファンから“クナ”と呼ばれて愛されたクナッパーツブッシュ。墓所はバイエルン州の州都ミュンヘンにあり、ミュンヘン大学の東約1kmのボーゲンハウゼン墓地(Bogenhausener Friedhof)。50m四方ほどの小さな墓地に、193センチの巨体だったクナッパーツブッシュが眠っている。彼の墓は奥の壁沿いにあり、植物の金属彫刻で十字架を模した非常に装飾的な墓標が建っている。キリスト像の後方から黄金の光が射し、台座部分の左側にクナッパーツブッシュ、右側にマリオン夫人の名が刻まれていた。ネットを検索すると“クナ詣で”をしている人が出てくる、出てくる。今でもカリスマ性は健在だ。近年まで同地に指揮者ルドルフ・ケンペの墓もあったが英国に改葬されたという。



★カール・リヒター/Karl Richter 1926.10.15-1981.2.15 (スイス、チューリッヒ郊外 54歳)2015
Friedhof Enzenbuhl, Zurich, Zurich, Switzerland

   

20世紀を代表するバッハ演奏家の一人、ドイツのオルガン奏者、指揮者。
1926年10月15日、ワイマール共和政下のザクセン自由国プラウエンに牧師の子として生まれる。ライプチヒ音楽院でオルガンを師事。
1937年(11歳)、ドレスデン聖十字架教会付属学校に入り、同聖歌隊のメンバーになる。
1946年(20歳)、ライプツィヒ音楽院に入学。聖トーマス教会の音楽監督(カントル)の下で学ぶ。
1949年(23歳)、バッハゆかりの聖トーマス教会オルガン奏者となる。この教会はバッハが1723年から没する1750年まで27年間音楽監督を務めており墓所もある。
1950年(24歳)、「ライプツィヒ・バッハ・コンクール」のオルガン部門で首席(同点2名)を獲得。
1951年(25歳)、西ドイツのミュンヘンに移り、聖マルコ教会オルガン奏者となる。同年、ミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師に招かれる。
1954年(28歳)、バッハ作品の演奏を目的とするミュンヘン・バッハ合唱団&ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立。指揮者、オルガン奏者、チェンバロ奏者として活躍。バッハ『マタイ受難曲』などの名演で世界に知られる団体に育て上げた。
1955年(29歳)、この年から1964年まで、アンスバッハで隔年で開催される音楽祭「アンスバッハ・バッハ週間」の芸術監督を務める。
1956年(30歳)、ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任。
1958年(32歳)、リヒターの代表的となるバッハ『マタイ受難曲』を録音。さらにライフワークとなる教会カンタータの録音を開始。
1960年(34歳)、モーツァルト『レクイエム』を録音。この年、バッハの管弦楽組曲全集の録音を開始、翌年に完成。
1967年(42歳)、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』全集を録音。
1969年(43歳)、バッハ『ミサ曲ロ短調』をミュンヘン・バッハ管弦楽団と映像収録。同年、ミュンヘン・バッハ管弦楽団および同合唱団を率いて来日。
※『ミサ曲ロ短調』 https://www.youtube.com/watch?v=vw9eEIfohj4 (128分)
1970年(44歳)、バッハ『ヨハネ受難曲』をミュンヘン・バッハ管弦楽団と映像収録。(1969年?)
※『ヨハネ受難曲』 https://www.youtube.com/watch?v=fT1y0_9qpeY (128分)
同年、バッハ『ゴルトベルク変奏曲』を録音。
1971年(45歳)、バッハ『マタイ受難曲』をミュンヘン・バッハ管弦楽団と映像収録、クラシック史上に輝く金字塔となる。同年、心臓発作を起こす。
※『マタイ受難曲』 https://www.youtube.com/watch?v=P3OcPLf7Kyo (3時間16分)
※『マタイ受難曲』から「憐れみ給え、わが神よ」https://www.youtube.com/watch?v=aPAiH9XhTHc (7分34秒)
1972年(46歳)、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」(英語版)を録音。
1978年(52歳)、教会カンタータの録音数が20年をかけて75曲に達する。※全曲は約190曲。
1979年(53歳)、単身で再来日し、オルガンとチェンバロのリサイタルを開く。同年、再び『マタイ受難曲』を録音。
1981年2月15日、ミュンヘンのホテル「フィア・ヤーレスツァイテン」431号室にて心臓麻痺で他界。享年54歳。亡骸は8日後にチューリッヒのエンツェンビュール墓地に葬られた。
リヒターが生み出すバッハ音楽はひらすら求心的、明確・端正であると同時に、緊張感に富み、きわめて劇的だ。僕は“音楽を鑑賞する”というよりも、彼の宗教的信念、覚悟のようなものに触れ、共に魂を探求している感覚になる。キリスト教徒でなくとも、人間が誠実に光を求めている姿に聴き入ってしまう。宗教曲以外では、ハイドンの交響曲第94番ト長調「驚愕」、交響曲第101番ニ長調「時計」などがある。作曲家ではベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、ヴェルディの録音もあるらしいが音源が見つからず。聴いてみたいな。

〔墓巡礼〕
バッハ作品の大家であり魂の求道者カール・リヒターの墓はスイス北部チューリッヒ中央駅の南東約4kmに位置するエンツェンビュール墓地(Friedhof Enzenbuhl)に葬られた。正門近くの管理人事務所の南側にリヒターは眠っている。リヒターは他界から8日目にチューリッヒに埋葬されている。家族墓ではないため、事前に墓所を確保していたと思われる。生前に夫婦でチューリッヒに家を購入しており、お墓が同地になったのはどちらが先に旅立っても墓参りしやすいからだろう。リヒターの墓石は左右に植えられた立木に挟まれ、森の隠者のような印象を受けた。自然の中で瞑想しているようなその墓はリヒターのイメージとも重なり、彼がそこにいるように感じた。『マタイ受難曲』第2部のアリア「憐れみ給え、わが神よ」(Erbarme dich)の胸に迫る切ない旋律が、墓参の間、ずっと頭の中で鳴っていた。

※海外サイトには同墓地にウィーン・フィルの名指揮者フェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)の墓があると記載していものを見かけるが、管理事務所で尋ねたが埋葬名簿にないとのことだった。



★キリル・コンドラシン/Kirill Kondrashin 1914.3.6-1981.3.7 (オランダ、ドリーハイス 67歳)2015
Begraafplaats & Crematorium Westerveld, Driehuis, Velsen Municipality, Noord-Holland, Netherlands//Plot: Grave # MM008



世界で初めてショスタコーヴィチ(1906-1975)の交響曲全集を録音したロシア出身のオランダの指揮者。1914年3月6日、モスクワに生まれる。ショスタコーヴィチの8歳年下。音楽好きの親のもとに生まれ14歳で指揮者になることを決意。1931年(17歳)からモスクワ音楽院で学ぶ。
1938年(24歳)から1942年までレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のマールイ劇場の指揮者を務める。
1943年(29歳)から1956年までモスクワのボリショイ劇場及びソビエト国立交響楽団の指揮者を務める。
1953年(39歳)、スターリンが他界し恐怖政治が終わる。
1958年(44歳)、コンドラシンは第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したピアノ奏者ヴァン・クライバーンの指揮者だったことから、コンクール後にクライバーンと一緒にアメリカをツアーしました。これにより、コンドラシンは冷戦が始まって以来初めてアメリカを訪れたロシア人指揮者となった。
1960年(46歳)から1977年(1975説、1976説あり)までモスクワ・フィルハーモニーの音楽監督を務める。
1961年(47歳)、ショスタコーヴィチの意欲作、交響曲第4番をモスクワ・フィルと初演。
1962年(48歳)、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」をモスクワ・フィルと初演。合唱部分に体制批判があり、初演を中止させるため当局から様々な妨害があった。歌手は怖じ気づき3度も交代し、ショスタコーヴィチが指揮を希望したムラビンスキーもまた党と衝突することを嫌って辞退したため、コンドラシンが引き受けた。
1967年(53歳)、モスクワ放送交響楽団と来日、マーラーの交響曲第9番を日本初演した。
1974年(60歳)、友人のチェロ奏者ロストロポーヴィチ(1927-2007)が亡命。
1975年(61歳)、オランダで音楽学者のノルダ・ブロークストラ(当時31歳)と出会い、後に結婚する。同年、ショスタコーヴィチが他界。
1978年(64歳)、12月アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演中のアムステルダムにおいて、オランダへの亡命を表明。同楽団にて、常任客演指揮者に就任する。コンドラシンは次代のソ連指揮界をになう人物と祖国では期待されていたことから、ニュースを聞いてロストロポーヴィチは驚愕する。「私の知る限り、彼はソビエトの音楽家の中の、もっともソビエト的な人間なのだが…」。
1979年(65歳)、突如としてオランダに亡命し、親交のあったハイティンクの援助を受け、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者に迎えられた。コンドラシンとコンセルトヘボウはリムスキー=コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』の名盤を生む。
※『シェヘラザード』 https://www.youtube.com/watch?v=P6j1yGnes24 (44分32秒)
1980年(66歳)、再来日してNHK交響楽団を指揮。
男性的なスケールの大きな演奏を聴かせた。広いレパートリーを誇っていたが、親交のあったショスタコビチの解釈は、他の追随を許さないものがあった。
1981年3月7日、午前11時にアムステルダム公演中の北ドイツ放送交響楽団の支配人から電話があり、「16時からクラウス・テンシュテットの代役で指揮してほしい」と懇願される。妻ノルダからも説得されてこれを引き受け、急遽リハーサルなしでマーラー『交響曲第1番』を演奏し大成功を収める。その後、尋常ではない疲労感からホテルで休養していたが、体調がどんどん悪化した為、ノルダが病院に連れて行こうとしたところコンドラシンは心臓発作で急逝した。享年67歳。葬式はコンセルトヘボウが準備し11日に行われた。ネーメ・ヤルヴィが追悼のためマーラーの交響曲第5番のアダージェットを演奏した。コンドラシンは翌年からバイエルン放送交響楽団の首席指揮者になることが内定していた。急死の状況から祖国ソ連を裏切った者をKGBが暗殺したのではと当時から噂されている。(ウィキには“手口”がKGBのそれではない、とある)

〔墓巡礼〕
キリル・コンドラシンの墓はアムステルダムの北西17kmに位置するドリーハウスのヴェステルフェルト墓地(Begraafplaats Westerveld)にある。墓地全体が丘になっており、上の方の「MM」ブロックの小道沿いに墓石にロシア語とラテン文字で名前が刻まれている。オランダで西側に亡命してからわずか2年3カ月後の心臓発作が惜しまれる。翌年からバイエルン放送交響楽団の首席指揮者の地位が内定していたといい残念でならない。コンセルトヘボウとの『シェヘラザード』のような名演をもっと聴きたかった。



★エルネスト・アンセルメ/Ernest Ansermet 1883.11.11-1969.2.10 (スイス・ジュネーブ 85歳)2015
Cimetiere des Rois, Geneva, Geneve, Switzerland/Plot:Section D, Grave 390

スイス・ロマンドを結成 手前がアンセルメ、左隣がヒナステラ

色彩感覚とリズム感覚の両面で優れた才能を示し、ストラビンスキーに絶賛されるなど、現代音楽の指揮者として定評があるスイスの指揮者、音楽理論家。1883年11月11日にスイス西部レマン湖畔のフランス語圏ヴヴェイに生まれる(チャップリンのお墓がある町だ!)。父は幾何学者。パリ大学とローザンヌ大学で数学を専攻し、22歳から数学者としてローザンヌ大で教鞭をとったが、一方で音楽にも強く興味を持ち、新進作曲家エルネスト・ブロッホに師事して作曲を学んだ。そして音楽家になることを決意してベルリンに向かい、指揮者のニキシュやワインガルトナーに師事した。このように27歳で数学教授から指揮者に転向するという異色の経歴を持っている。
※ウィキペディアでは、教職か指揮者か進路に迷ってベルリンまでニキシュやワインガルトナーに「助言を求めに行った」とある。

1910年(27歳)、モントルーで指揮者としてデビュー。※モントルーのデビューは1912年と記述した資料も多い。どっち!?
1915年(32歳)、モントルーのカフェで1歳年上のストラヴィンスキー(1882-1971)と親しくなり、これが縁となってロシア・バレエ団(バレエ・リュッス)を主宰するディアギレフに紹介され、同バレエ団の指揮者となった。アンセルメはディアギレフの死でバレエ団が解散する1930年まで15年間も同職を務め、ストラビンスキーの『プルチネラ』『結婚』、サティの『パラード』、ファリャの『三角帽子』など数多くのバレエの初演を手がけた。活動を通して、ドビュッシーやラベルとも親交を結んでいる。
同年、並行してジュネーブ交響楽団の指揮者に就任。
1918年(35歳)、ジュネーブにスイス・ロマンド管弦楽団を結成し、約50年間にわたって音楽監督を務めて世界一流の楽団に育てる。フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターも指揮台に立った。
1919年(36歳)、黒人ダンス・バンドでシドニー・ベシェのクラリネットを聴いた感動を《レビュー・ロマンデ》に寄稿し、この一文が世界最初のジャズ評論となった。
1937年(54歳)、ストラヴィンスキーのバレエ『カルタ遊び』のスイス上演に際しカットを要求したところ激しく対立。その後、ストラヴィンスキーが十二音技法を使用して作曲すると絶交してしまう。
1944年(61歳)、ドイツからの亡命を希望していたカール・シューリヒトをスイス・ロマンド管弦楽団の客演に依頼して亡命の手助けをする。
1964年(81歳)、初来日してNHK交響楽団に客演。
1967年(83歳)、スイス・ロマンド管弦楽団の常任指揮者を引退。
1969年2月20日、ジュネーブで他界。享年85歳。

アンセルメは指揮者として客観主義を重視、過度に没入するドイツ・ロマン主義の感情的な表現を徹底的にオーケストラから追放し、明晰で色彩感にあふれる音づくりを追求した。この姿勢は同時代の作曲家に絶大な信頼をおかれ、ストラビンスキー、ラベル、ファリャなどが作品をアンセルメに捧げている。アンセルメは同時代の作曲家の作品の紹介に積極的にとりくみ、ストラビンスキーの「兵士の物語」「プルチネラ」「きつね」、ファリャの「三角帽子」、プロコフィエフの「道化師」、サティの「パラード」、ブリテンの「ルクリーシアの凌辱」などを世界初演し、「バレエ音楽の神様」とも呼ばれた。特にフランス、スペイン、ロシアの音楽を得意とした。音楽美学者としても、現象学などに言及しながら著作をのこしている。
※アンセルメが録音したサン=サーンスの『オルガン付』交響曲はベストセラーとなった。

〔墓巡礼〕
バレエ・リュッスの指揮者としてストラヴィンスキー、ファリャほか数多くのバレエ音楽を初演したエルネスト・アンセルメ(1883-1969)の墓は、彼が結成したスイス・ロマンド管弦楽団の拠点である、ジュネーブの特別地区に位置するロワ墓地(Cimetiere des Rois)にある。“墓地”とはいうものの、200m四方の緑の空間に墓石が点在するのみで芝生の方が多く、ビル街の中の公園として憩いの場になっている。昼時に訪れるとそこかしこで小さなシートを敷いてサンドウィッチを食べていた。アンセルメの墓の左隣は20世紀を代表する南米の作曲家、アルゼンチン生まれのアルベルト・ヒナステラ(1916-1983)。アンセルメ他界の14年後にヒナステラはジュネーブで没している。代表作がバレエ『エスタンシア』であることから、「バレエ音楽の神様」の異名を持つアンセルメの側を希望したのかもしれない。ちなみにヒナステラの門下にタンゴ音楽の鬼才アストル・ピアソラがいる。ベートーヴェンから“クロイツェル・ソナタ”を献呈されたバイオリンの名手ロドルフ・クロイツェル(1766-1831)の墓石もある。



★ジュゼッペ・シノーポリ/Giuseppe Sinopoli 1946.11.2-2001.4.20 (イタリア、ローマ 54歳)2018
Cimitero Comunale Monumentale Campo Verano,Rome,Provincia di Roma,Lazio, Italy

  

イタリアの指揮者。精神医学者でもあり、曲の解釈が注目されたが54歳で没した。



★ヴィルヘルム・ケンプ/Wilhelm Kempff 1895.11.25-1991.5.23(ドイツ、マインロイス 95歳)2015
cemetery of Wernstein(near the Wernstein Castle),Mainleus, Landkreis Kulmbach, Bavaria (Bayern), Germany

  

ヴェルンシュタイン城の北側の森に墓所 車も馬も進入禁止、ここから歩き “本当に墓地なんかあるの?”不安に包まれる

しばらく進むと分かれ道が。左に行くと→ うおっ!何か柵がある!墓地なのか!? あった!ケンプの墓だーッ!やった!



苔むした墓石。石棺型だけど名前がプレート式
のように大きく、これまで見たことがないタイプ
朝陽が「WILHELM KEMPFF」の部分にだけ
ドラマチックに当たっている。なんかグッときた
ちなみにこの工事のオジサンがケンプの
墓への行き方を教えてくれた。偶然に感謝

ケンプの墓前で彼の演奏をiPadで奉納!曲は『コラール前奏曲 イエスよ、われ汝に呼ばわる』BWV639
筆者撮影→ https://www.youtube.com/watch?v=p5j0IA7YL6E (2分40秒)

ドイツ音楽の伝統をくむ代表的なピアニスト、作曲家。 1895年11月25日にドイツ中北部ユーターボクに生まれる。幼少時から教会オルガニストの父に音楽の手ほどきをうけ、ベルリン音楽大学に進む。
1930年代までオペラ作品など作曲活動が中心で、1917年、22歳のときにピアノ組曲の作曲でメンデルスゾーン賞を受賞している。
ピアニストとしての腕前も認められ、23歳でニキシュ指揮ベルリン・フィルとベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』を共演し、海外でもシベリウス(1865-1957)に高く評価された。ベルリン大聖堂合唱団のオルガン奏者としても活躍。
1924年(29歳)から若くしてシュトゥットガルト音楽大学の学長を務め、演奏活動に専念するため5年後に辞任。
1932年(37歳)にプロイセン芸術協会の正会員となってドイツ楽壇の中心的役割を担う。

1936年(41歳)、初来日。ケンプは自叙伝に「(日本に接して)最もすばらしかったのは、相互に愛情が生まれたことでした」と述べ、調律師に日本人を起用するなど大変な親日家で、以降、10回も日本を訪れた。
1939年(44歳)、第二次世界大戦が勃発。大戦中もナチス政権下のドイツで活動を続けたため、戦後は1950年代に戦犯容疑が解けるまでナチ協力者と疑われ演奏会が開けなかった。自作をムッソリーニに献呈したことを反省し、作曲活動の筆を置く。
1954年(59歳)、広島平和記念聖堂のオルガン除幕式で録音を行い、売り上げを被爆者のために全額寄付。
1956年(61歳)、ベートーヴェンのピアノソナタ全集のモノラル収録が完了。この全集でピアニストとして世界的名声を確立、
1961年(66歳)、来日公演でベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏を行う。
1965年(70歳)、ベートーヴェンのピアノソナタ全集のステレオ収録が完了。
1970年(75歳)、ベートーヴェン生誕200周年。ピアノソナタに加えて、ピアノ協奏曲の全曲演奏会も行った。
1975年(80歳)、バッハのオルガン作品をピアノ版に編曲し収録。透明感と静寂をたたえた独自の境地に至り、唯一無二のケンプ宇宙となった。
https://www.youtube.com/watch?v=xdD1pZz1Vt8
1991年5月23日、イタリア・ポジターノでパーキンソン病のため他界。享年95。老境に入るにつれ、技巧を超えた深い精神性により、人々の心を捉えていった。得意レパートリーはバッハからブラームスにいたるドイツ古典派、シューベルトやシューマンなどロマン派の演奏でも定評を得る。長寿したこともあり、生涯に4度ベートーヴェンのピアノソナタ全集に挑戦した。
アルフレート・ブレンデル「(ケンプは)まさしくそよ風で鳴るエオリアンハープのように、心の赴くままに演奏した」。

※1960年代にシューベルトのピアノソナタを世界で初めて全集として録音した。
※リストのピアノ曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」(1950年)をミスタッチなしで録音に成功した最初のピアニスト。
※ケンプの動画を見るまで、その音色から瞑想するように眼を閉じて没入して弾いていると思い込んでいたので、顔をあげてほとんど手元を見ず、ぱっちりと開いた目で遠くを見ながら弾いてる様子に驚いた。しかもポーカーフェイスで作曲家が胸中の苦悩を書いた部分でも、決して眉間にシワを寄せたりしない。つまり、旋律と表情がまったく一致していない。それなのに、精神性のある音色が指先から生まれるのが不思議。
『月光』を弾いてるけど、他のことをしているみたいな表情→
※ポルトガル出身の女性ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ/1944-)を指導した。
※ケンプの名演、ベートーヴェン『テンペスト』
https://www.youtube.com/watch?v=RyCmm7m2mwo

〔墓巡礼〕
ケンプの演奏と最初に出会ったのは、彼がピアノ版に編曲したバッハのオルガン曲だった。巨匠タルコフスキー監督の傑作SF『惑星ソラリス』で彼岸の調べのように流れていたバッハ『コラール前奏曲:われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ(BWV639)』のピアノ版が、学生時代に購入したポリドール社のオムニバスCDに入っており、それまで曲名を知らずに“ソラリスの良い曲”と思っていた僕は、ケンプの指が奏でる天国的な響きに包み込まれスピーカーの前で爆涙した。それからすぐにケンプによるバッハ作品集を購入、以降30年以上も人生で打ちのめされた時に悲しみを癒してくれる“救命ロープ”のような役割を果たしてくれている。ケンプが明確にナチを批判しなかったことは残念だけど、後年の演奏、あのただならぬ深遠な精神性には贖罪の想いが入っているように感じる。
“鍵盤の獅子王”バックハウスの11歳年下だが、10回も来日したこともあって、日本ではドイツ音楽を語る時にバックハウスと並び欠かせない名となっている。父性的なバックハウスに対し母性的なケンプの音色は多くの人に求め愛された。

ケンプの墓巡礼は、本当にたどり着けるかまったく確証のないものだった。理由は都会の管理人がいるような公共墓地ではなく、ネット情報に出ていたのは「ヴェルンシュタイン(Wernstein)城の周囲の森林にある小さな墓地」だったからだ。聞いたこともないお城で、調べてみるとバイロイトの北西25kmの場所にあった。地名はマインロイス。朝7時にレンタカーでヴェルンシュタイン城に到着し、村の中心でもあり、とにかく通行人に墓地を聞こう、そう思ったものの、肝心の通行人が村にはいない。お城の庭に子どもの遊具があったので、誰かが住んでるかと思い、城の入口や中庭で「ハロー!ハロー!」と叫んでみたけど反応なし。レンタカーに戻って城の周囲を走ってみたけど車道から墓地は見えず。うーむ。8時になり、もう一度村の中心部に行くと、男性6人が街路樹の整備をしていた。“初めてのヒトだ!”。僕は車を降り、「グーテン・モルゲン!(おはようございます!)」と叫びながらダッシュした。以前、大ピアニストのバックハウスのことを墓地管理人が知らなかったことがあり、正直、四半世紀前に他界したケンプのことを、っていうかケンプの墓を、樹木整備の人が知っている可能性は低いと、ダメ元で聞きに行った部分はある。するとマリオと似た口ヒゲのある一人の中年男性が「おお、ケンプか。墓の場所を知ってるぞ」と、作業の手を止めて「この道を200mほど進んで右折し、また200mほど進んだら車を降り、歩いて城の北にある森を目指せ。そうすれば左側に小さな墓地がある」。うおおお!具体的な情報をありがとうございます!かくして、指示通りに車を停めて森の林道に入っていった。5分ほど歩いていると、左手に柵が見え、その向こうに墓石らしきものが点在しているのが見えた。跳ねるように駆けて墓地に入り、「ヴィルヘルム・ケンプ」の名を探す。墓石は10基あるかないかの小さな墓地だ。墓地に入って左側の墓石に彼の名を発見、木洩れ陽の中にその苔むした墓があった。iPadを取り出し日本から持ってきたケンプ演奏の『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』を再生&奉納。朝の森にケンプのバッハが響き、小鳥たちの声や木々の葉ずれの音と溶け合った。苦しい時に何度もその演奏で助けてくれた、彼の優しいバッハ演奏に感謝した。そして道を教えてくれたマリオさんにも御礼。マリオさんに出会わなければ永遠に墓にたどり着けなかった。ダンケ・シェーン!
※ケンプの墓前にて『コラール前奏曲 イエスよ、われ汝に呼ばわる』
https://www.youtube.com/watch?v=p5j0IA7YL6E (2分40秒)



★ヘルムート・ヴァルヒャ/Helmut Walcha 1907.10.27-1991.8.11 (ドイツ、フランクフルト 83歳)2015
Sudfriedhof,Frankfurt am Main




盲目の天才オルガン奏者

大都市フランクフルトの墓地

墓地職員「ヴァルヒャ?う〜ん、
初耳だわ。場所は奥の方ね」

正門から入って、ずっと右斜め奥に墓 墓前には花もあり綺麗に整備されていた 墓地の職員にヴァルヒャの偉大さを語りたかった

幼児期に天然痘で視力を奪われ、一時期やや回復するも16歳の時に角膜炎が悪化し完全に失明した。ライプチヒ音楽学校に通い、1924年に17歳でオルガン演奏家としてデビュー。コンサートは好評だったが、目が見えないことで同情されぬよう、新聞には盲目について触れないよう頼んだ。20歳の時に最優秀の成績でオルガニスト資格試験に合格し、音楽院を卒業。1938年(31歳)、フランクフルト音大の教会音楽家教授に任命される。翌年に結婚。
楽譜が見えないヴァルヒャは、母や妻に両手と足のパートを別個に弾いてもらい、それを絶対音感で記憶したという。生涯においてバッハの全オルガン曲を2度録音している。1977年(70歳)に引退し、1991年に83歳で他界。

「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」(ヴァルヒャ)

僕はヴァルヒャのパイプオルガンで感電。まさに天からの響き!
〔ヴァルヒャのバッハ名演シリーズ〕
『トッカータとフーガ ニ短調』BWV 565(9分36秒)他のオルガン奏者の演奏を聴けなくなるほどの大名演。
『小フーガ ト短調』BWV 578(4分12秒)短い曲ながらも深い感動。
『パッサカリアとフーガ』BWV 582(14分)堂々たる大曲。ゴシック建築のごとき威容。全体に宿命感。



●アルマ・ロゼ/Alma Rose 1906.11.3-1944.4.4 (ポーランド、アウシュヴィッツ 37歳)2015
Auschwitz Death Camp Oswiecim, Malopolskie, Poland

通称「死の門」 引き込み線。この門をくぐることは死を意味する 高圧電流の有刺鉄線

墓がない犠牲者のための国際慰霊碑 様々な言語で150万人を弔うと記す(これは英語) 150万人の墓石。アルマ・ロゼの墓ともいえる

オーストリアのバイオリン奏者。アウシュヴィッツで囚人オーケストラを編成・指揮し、ユダヤ人音楽家が少しでも生き延びられるように図った。死因は食中毒。彼女の在職中はオーケストラのメンバーに死者がいなかった。母親はマーラーの妹ユスティーネ。
※オーケストラは朝と夕方にゲートにて演奏で囚人を送迎。囚人とSSのために週末コンサートを開いた。ロゼはメンゲレやクラマーに尊敬され、個室を与えられ、団員が病気になると診察してもらえた。1944年に食中毒で死亡したと推定されている。戦前の1932年に女性楽団員のみのオーケストラを結成している。

※ウィーンのGrinzinger Friedhofにもがある。マーラーと同じ墓地。



★ヴィルヘルム・バックハウス/Wilhelm Backhaus 1884.3.26-1969.7.5(ドイツ、ケルン 85歳)2015
Melaten-Friedhof,Woensamstrase 50931 Koln//Flur 20 in E

 
夫人の実家ヘルツベルク家の墓に入っている

格調高いスケールの大きな演奏で「鍵盤の獅子王」と称された20世紀前半を代表するピアニスト。1884年3月26日、ドイツ・ライプツィヒに生まれる。幼少時より母にピアノを習い、7歳でライプツィヒ音楽院(1843年メンデルスゾーン設立)に入学。1897年、13歳でフランツ・リストの直弟子オイゲン・ダルベールに師事、つまりベートーヴェン、ツェルニー、リストに連なるベートーヴェン直系の弟子にあたる。当時ダルベールは一人も弟子をとっていなかったが、少年バックハウスの才能を見抜き例外とした。
1900年に16歳でデビューし、コンサート・ツアーを開始。翌年、ニキシュ指揮のゲバントハウス管弦楽団と共演。
1905年、21歳のときにパリで開催された「アントン・ルビンシテイン・コンクール」のピアノ部門で優勝し、一躍注目を集める。第2位になったハンガリーのバルトークはコンサート・ピアニストの夢を諦めて作曲家の道を進み、作曲で才能を開花させる。ある意味、バックハウスが大バルトークを作ったことになる。バックハウスは同年からイギリスのマンチェスター王立音楽大学教授となり、7年間教壇に立つ。
1909年(25歳)、最古のクラシック音楽レコードレーベル、ドイツ・グラモフォン社がグリーグのピアノ協奏曲のソリストに25歳のバックハウスに白羽の矢を立て、世界で初めて協奏曲をSPレコードに録音した。指揮はランドン・ロナルド、オケは新交響楽団(現ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団)。
https://www.youtube.com/watch?v=CSlVtGcODWE (6分)
1912年(28歳)1月5日、ニューヨークでベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番“皇帝”』を弾きアメリカ・デビューを果たし、センセーションを巻き起こした。以後、世界で引っ張りだこになる。
1914年(30歳)、第1次世界大戦中が勃発し従軍する。
1928年(44歳)、世界で最初にショパンのエチュード全曲を録音。
1930年(46歳)、スイス南部ルガーノに移住。台頭するヒトラーがバックハウスのファンでナチスの宣伝に利用された。
1946年(62歳)、第2次世界大戦後、スイスに帰化。アメリカではナチ協力者として来演拒否の動きが起こった。
1954年(70歳)、アメリカ入国禁止が解除され、カーネギー・ホールの舞台に立つ。来日公演も実現し、宮内庁や日比谷公会堂で演奏。
1966年(82歳)、オーストリア共和国芸術名誉十字勲章を受章。ベーゼンドルファー社から20世紀最大のピアニストとしての意味を持つ指環を贈られ、ウィーン国立音楽院の教壇にも立っている。
1969年6月28日、オーストリア・オシアッハの修道院教会再建記念コンサートで、ベートーヴェン『ピアノソナタ第18番』の第3楽章の途中で心臓発作を起こし演奏を中断する。控室で医者から当日の演奏を制止されたが、バックハウスは再びピアノに戻り、曲目をシューマン『幻想小曲集』から「夕べに」と「なぜに」に変更し、最後にシューベルト『即興曲 作品142-2』を弾いてコンサートを終えた。その後、意識を失って病院に搬送され、一週間後の7月5日にオーストリア南部フィラッハで他界する。享年85。生涯で4000回以上のコンサートに出演した。
ベートーベンとブラームスを得意とし、重心の低い安定感のある演奏と、質実剛健な構築美で聴衆を魅了した。男性的魅力に富む一方でその音色には温かみがあった。

※ピアノメーカーはベーゼンドルファーに固執した。
※バックハウスといえばやはり『皇帝』。ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルとの共演!
https://www.youtube.com/watch?v=zSnwEFDgVSE (37分)
※ソロ演奏を重視してアンサンブルなど室内合奏と距離を置いた。
※ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第3楽章のカデンツァを好んで演奏したという。
※誕生地のライプツィヒ市の紋章がライオンであり、獅子王の異名になったとも。
※ラストコンサートは『バックハウス:最後の演奏会』としてCD化されている。
https://www.youtube.com/watch?v=EUeQ28Hl5Iw

〔墓巡礼〕
ヴィルヘルム・バックハウスは僕が初めて名前を覚えたピアニストだ。高校時代に読んだ池田理代子さんの漫画『オルフェウスの窓』第5巻で、バックハウスはベートーヴェンの皇帝を華麗に弾き、音楽表現に行き詰まった主人公(ピアニスト)の手を取り、こう励ました。「確かなことは、きっと君も僕も共に美しい音楽に満ちて生涯をおくれるということです」。この台詞に主人公は泣き、こちらも落涙…。
バックハウスはベートーヴェンの生誕地ボンの北30kmに位置するケルンのMelaten墓地に眠る。事前調査により墓地内の20区にお墓があると分かっていたし、何と言っても「鍵盤の獅子王」だし、墓地に着きさえすれば5分で墓前に立てると思っていた。ところが!墓地内の案内地図(看板)で20区を探そうと思ったら、なぜか16区〜23区までが数字表記されていない!墓地を訪れる人にバックハウスの墓を尋ねるも誰も知らない。っていうか、僕の発音も悪かったようで、「バックハウス」よりも「バクハウス」が正しかったようだ。管理人事務所を探して30代後半っぽい男性職員に質問すると「誰?バックハウス?有名な人?」との返答、思わずのけぞった。こちらは20世紀を代表する大ピアニストのつもりで墓参しているため、ドイツ人でも若い世代は知らないのかと驚愕。ただの偶然と信じたい。15分ほど職員が地図を調べ、正確な位置を記した拡大地図をくれた。バックハウスが眠る20区は11区と26区の間にあった!ついに墓前にたどり着き、イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルと共演した『皇帝』を愛聴していること、彼が与えてくれた感動の御礼を伝えた。墓石の中央部分に自筆サインが入っているが、夫人の実家ヘルツベルク家の墓であるため、パッと見はわかりにくい。



★ユーディ・メニューイン/Yehudi Menuhin 1916.4.22-1999.3.12 (イギリス、グレート・ブッカム 82歳)2015
Yehudi Menuhin International School, Stoke D'Abernon, Elmbridge Borough,Surrey, England

1963年に設立された寄宿制の「ユーディ・メニューイン音楽学校」。
8歳から18歳までの約60人の生徒が在籍している。敷地にお墓!
ダイアナ夫人のお墓が手前にあった



2m半ほどある縦長の墓石 「彼はこの世で音楽を生み出し、来世でも音楽を生み出す」

アメリカ生まれのイギリスのバイオリニスト。正確な技巧、美しい音色を持ちつつ、テクニックに走らず解釈は情熱的。20世紀を代表する名手のひとり。1916年4月22日にニューヨークで生まれる。両親はユダヤ系ロシア人。5歳でバイオリンの手ほどきを受け、7歳からサンフランシスコで音楽活動を開始、1926年に10歳でサンフランスコ交響楽団とラロの『スペイン交響曲』で共演しソリストとしてデビュー。続いて12歳でベルリン・フィルと共演するなど、神童とうたわれる。その後ヨーロッパへ留学し、ドイツやフランスで学んだ。
1939年(23歳)、第二次世界大戦が勃発。連合軍のために慰問活動に取り組む。また米国に亡命してきたハンガリーの作曲家バルトークの生活を援助し、無伴奏ヴァイオリン・ソナタの作曲を依頼する。バルトークは同作をメニューインに献呈した。
1945年(29歳)、4月にドイツ解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所(アンネ・フランクが絶命した収容所)でベンジャミン・ブリテンと慰問演奏を開く。同年、終戦。戦後は坐禅、ヨーガ、菜食主義を実践。
1947年(31歳)、ドイツで大指揮者フルトヴェングラーと共演、メニューインは「ヒトラーのドイツは滅びたのです」と和解を呼びかけ、これにユダヤ人社会が猛反発した。アメリカ楽壇の重鎮にはユダヤ系音楽家が多く、メニューインは「裏切り者」として事実上の追放に遭い、活動拠点を英国に移していく。
1951年(35歳)、アメリカの親善大使として来日公演。以降も数回訪日している。
1952年(36歳)、初めてインドを訪れ、インド音楽に衝撃を受ける。シタール奏者ラビ・シャンカル(32歳/1920-2012)と親交を結ぶ。
1953年(37歳)、他界前年のフルトヴェングラーと、バルトーク『ヴァイオリン協奏曲第2番』を収録。
※バルトーク『ヴァイオリン協奏曲第2番』 https://www.youtube.com/watch?v=W5eypfL4iG0 (37分51秒)
1955年(39歳)、メニューインは共産主義体制下のユダヤ系ソ連音楽家がアメリカで公演できるよう尽力し、ダヴィッド・オイストラフ(47歳/1908ー1974)の初訪米を実現するため国務省の友人に協力を依頼。この年、オイストラフのアメリカ公演が実現した。また、ロストロポーヴィチが出国できるようソ連当局に圧力をかけた。
1958年(42歳)、メニューインとオイストラフでバッハ『2つのヴァイオリンのための協奏曲』を共演。この年から10年間はイギリスのバス音楽祭(現メニューイン音楽祭)で指揮、芸術監督をつとめる。
※バッハ『2つのヴァイオリンのための協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=DJh6i-t_I1Q (18分)
1959年(43歳)、ロンドンに移住。
1963年(47歳)、ロンドン郊外に寄宿制のユーディ・メニューイン音楽学校を設立し、後進の指導にも力を注いだ。英国の人気ヴァイオリニスト、ナイジェル・ケネディはここの卒業生で、メニューインの弟子だった。
1965年(49歳)、ナイトの称号を認められたが、20年後にイギリスに帰化するまで受けなかった。
1966年(50歳)、インドのラビ・シャンカルがメニューインのために『プラブハティ(朝のうちに)』を作曲。
1967年(51歳)、ラヴィ・シャンカルと共演したアルバム『ウェスト・ミーツ・イースト』がグラミー賞を受賞。シャンカルのシタールとメニューインのヴァイオリンが絶妙に絡み合う。最高の緊張感。
※『ウェスト・ミーツ・イースト』 https://www.youtube.com/watch?v=IZRqu3vJMA0 (39分)マジ素晴らしい
1977年(61歳)、自叙伝「はてしなき旅」を執筆。
1980年代になるとジャンルを超えてジャズ・ヴァイオリニストのステファン・グラッペリ(ジャンゴ・ラインハルトの相方)のジャズ・アルバム制作に参加。
※メニューインとグラッペリの『エイプリル・イン・パリ』『枯葉』などスタンダード4曲 https://www.youtube.com/watch?v=FnJSiRtSbfw (15分)
1985年(69歳)、イギリス国籍を取得、正式にサーの勲位を授与され、メニューイン男爵となった。晩年はおもに指揮者として活躍。
1999年3月12日、気管支炎が悪化しベルリンで他界。享年82歳。

〔墓巡礼〕
メニューインの墓は、彼が1963年にロンドンから約20km南西のサリー郡グレート・ブッカムに創立した音楽学校「Yehudi Menuhin International School」のメニューインホール前の芝生にある。メニューインが没して30年が経った現在も、8歳から18歳までの約60人の生徒が在籍している。2m半ほどある縦長の彼の墓石には「He  who makes music in this life makes music in the next」(彼はこの世で音楽を生み出し、来世でも音楽を生み出す)と刻まれており、手前にはダイアナ・メニューイン夫人の墓石があった。僕が墓参したときは放課後で、生徒たちが墓石の周囲の芝生で談笑し、くつろいでいた。おそらくこれが、メニューインの望んだものだろう。お墓をどこか遠くの墓地に建てるのではなく、自らが創立した音楽学校の広場に建てたのは、いつまでも生徒たちを側で見守りたかったのだと思う。若手音楽家たちと墓石が同じ空間にある…なんとも暖かな光景だった。墓前で草の上に腰を下ろし、しばしメニューインと対話した。

※愛器は1742年製のグァルネリ「ロード・ウィルトン」。
※武満徹が映画監督アンドレイ・タルコフスキーを追悼して作曲した弦楽合奏曲「ノスタルジア」を絶賛し、自身のレパートリーとした。
武満徹『ノスタルジア』 https://www.youtube.com/watch?v=CoKHj1-fFF8 (11分)
※ちなみに音楽家ではベンジャミン・ブリテン、アンドリュー・ロイド・ウェバーらがロードの称号を授与されている。



★ヘンリク・シェリング/Henryk Szeryng 1918.9.22-1988.3.3 (モナコ 69歳)2018
Cimetiere de Monaco, Monaco

早朝のモナコ墓地。なかなかシェリングの墓がわからず、地元のベロニカさんに質問。携帯でお墓に詳しい友人に聞いて下さった!

  
弦楽器のようなブラウンの墓石に刻まれた楽譜は、バッハ『シャコンヌ』の最後の部分!さすがシェリング!

ポーランド生まれのメキシコのヴァイオリン奏者。バッハのすぐれた解釈で知られる。ユダヤ系ポーランド人。
1918年9月22日、 ワルシャワ近郊ジェラゾバウォラに生まれる。5歳から母親にピアノを学び、7歳でバイオリンに転じ、1929年(11歳)から3年間のベルリン留学を経て、パリ音楽院でジャック・ティボーらに師事した。
1933年に15歳でソリスト・デビュー。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
1937年(19歳)、パリ音楽院を首席で卒業。
1939年、21歳のときに第二次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツのポーランド侵攻を受け、7カ国語を話せたシェリングはポーランド亡命政府のスタッフとして活躍し、ポーランド難民の避難先をメキシコに探すなど尽力した。また、連合国軍のために慰問演奏を行った。
1946年(28歳)、戦時中にメキシコで慰問演奏を行った縁でメキシコ大学音楽学部の教授職を得て、後進の指導を開始、演奏活動を一時中断する。同年、メキシコに帰化。
1954年(36歳)、メキシコを訪れたポーランド出身の大ピアニスト、31歳年上のアルトゥール・ルービンシュタイン(67歳/1887-1982)から現役復帰を勧められ、ニューヨークでデビュー。洗練された正確無比な演奏が聴衆を感嘆させ、演奏後、シェリング本人も驚くような高い評価を得たことで、世界各地で演奏活動を行うようになる。シェリングとルービンシュタインは生涯共演し続けた。
1960年(42歳)、ブラームス『ヴァイオリン・ソナタ 第1番 雨の歌』をルービンシュタインと収録、高く評価される。
※ブラームス『雨の歌』 https://www.youtube.com/watch?v=HVpz5KEwDxQ (27分50秒)柔らかな音がたまらない。
1964年(46歳)、初来日。
1965年(47歳)、シベリウス『ヴァイオリン協奏曲番』をロジェストヴェンスキー指揮ロンドン・フィルと収録、名盤と讃えられる。
※シベリウス『ヴァイオリン協奏曲番』https://www.youtube.com/watch?v=hb2IE5o4Ics (30分)
1967年(49歳)、バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』を収録、ミルシテインの演奏と並ぶ名盤に。
※パルティータ第2番シャコンヌ https://www.youtube.com/watch?v=1ZGrCrR8CJw (14分30秒)静謐で気品あふれる演奏
※ミルシティン演奏のシャコンヌ https://www.youtube.com/watch?v=JLsK769KxMc (13分58秒)みなぎる緊張感
※ギドン・クレーメル演奏のシャコンヌ動画!https://www.youtube.com/watch?v=00GcQVveMnQ (13分59秒)ギコギコ系
※イザベル・ファウスト演奏のシャコンヌ https://www.youtube.com/watch?v=keYt34rSfks#t=16m04s(12分32秒)音が光ってる!有望若手
※シギスヴァルト・クイケン演奏の古楽器版シャコンヌ https://www.youtube.com/watch?v=LCZ_FoBcuco(12分10秒)THE最速!!
1969年(51歳)、盲目の天才チェンバロ奏者ヴァルヒャとバッハ『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』を収録、名盤に。
※バッハ『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』6曲 https://www.youtube.com/watch?v=k1__pVSGoec (全曲98分)
1971年(53歳)、アルバン・ベルク『ヴァイオリン協奏曲』をクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団と収録。現代音楽にも名演を残す。
※ベルク『ヴァイオリン協奏曲』 https://www.youtube.com/watch?v=qSOAys1SWzA (24分47秒)
1975年(57歳)、パガニーニ『ヴァイオリン協奏曲第1番』をギブソン指揮ロンドン・フィルと収録。
1976年(58歳)、バッハ『ヴァイオリン協奏曲集』をネビル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団と収録、名盤に。
※『ヴァイオリン協奏曲集』 https://www.youtube.com/watch?v=qSOAys1SWzA (54分)
1982年(64歳)、敬愛するルービンシュタインが95歳で他界。
1988年3月3日、ドイツのカッセルで客死。享年69歳。亡骸は当時拠点にしていたモナコ公国に埋葬された。
バイオリン曲と室内楽曲の作曲も手がけ、晩年は指揮にもたずさわった。
レパートリーはバッハのように古典的な作品だけでなく、近現代作品にも意欲的にとり組んだ。

〔墓巡礼〕
シェリングは地中海を望むモナコ公国のモナコ墓地(Cimetiere de Monaco)に眠っている。モナコはヴァチカンに次いで世界で2番目に小さな国であり、面積はわずか2平方キロメートルしかない。人口は約3万2千人。墓地の西側はもうフランスだ。僕がシェリングを墓参したのは没後30年となる2018年の夏。レンタカーでイタリアから向かっていたが、イタリアとフランスの国境で交通渋滞に巻き込まれて、モナコに入国したのは午後8時。墓地は1時間前に閉まっていた。「仕方ない、宿に泊まって翌朝に出直すか」。旅行アプリで周辺の宿を検索して気絶しかけた。モナコが物価高と知ってはいたが、最安で4万5千円!「…無理」。一緒に巡礼している小学3年の息子に事情を話し、墓地の門前で車中泊することにした。墓地案内板によると開門は朝8時。実は前日も車中泊だったので、この日は泊まる気まんまんだった。2日連続は想定外。物陰に入って、ペットボトルに入れた噴水の水を使って父子で頭を洗い、歯磨きを済ませる。
翌朝7時、何やら騒がしくて目が覚めた。工事車両が通るのに、僕の車が邪魔らしい。そして墓地の門を見て驚いた。7時の段階でもう開門していた!急いで中に入り、子どもにシェリングの墓の写真を渡し、二手に分かれて探し始める。墓地は斜面に沿って造られており、段々畑のように墓石が並んでいた。「お〜い、見つかったか?」「お父さん、似ている墓はあるけど、どれも微妙に違うよう!」。

管理人事務所はまだ無人。ただ、自動案内マシーンがあり、故人の名前を入力すればお墓の場所を示した地図がプリントアウトされる仕組みになっていた。「この機械はオランダの墓地にあったな。よかった、これで何とかなる」。ところがフランス語しか対応しておらず、何が何だかサッパリ。7時半を過ぎるとモナコ人がお墓参りに来始めたので、順番に「シェリングさんの墓を知りませんか」と聞いてみた。“巨匠シェリングだし、すぐに分かるだろう”、そう思っていたが甘かった。1時間で7人に質問したけど誰も知らなかった…。うち3人に、自動案内マシーンを操作してもらったけど、モナコ人でさえうまく検索できなかった。案内マシーンの役割を果たせていな〜い!息子は探し疲れて、石ころや小枝で遊んでいた。
窮地を助けてくれたのは8人目のモナコ人、中年女性のヴェロニカさん。「知り合いにこの墓地に詳しい人がいる」と携帯電話で連絡してくれ、ついにシェリングが眠るブロックが判明、8時10分、カジポン父子はヴェロニカさんの案内で墓前にたどり着けた!すべての区画を調査したつもりが、中心付近の一角が抜け落ちていて、シェリングはそこに永眠していた。墓石にはバッハ作品の楽譜が彫られていたが、その場では何の曲か分からなかった。帰国後、写真を見ながらピアノで音符をなぞると、指先からシャコンヌの最後の3小節が立ち現れた!思わず鳥肌!これまでも故人が愛する曲の冒頭数小節を刻んだ墓を見たことがあるけど、“最後”の数小節というのは初めて。墓石には、フランス語で「“善”と彼の芸術は同じ価値だった」とも刻まれていた。

※愛器は1743年製グァルネリ「ル・デューク」。
※シェリングがパガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第3番』を発掘、初演した。
※繊細な演奏で知られるシゲティの後継者といわれる。



★ロドルフ・クロイツェル(クレゼール)/Rudolphe Kreutzer 1766.11.16-1831.1.6(スイス、ジュネーブ 64歳)2015
Cimetiere des Rois, Geneva, Geneve, Switzerland/Plot:Section 7, Wall of Memories

ジュネーブの公園の壁際 「RUDOLPHE KREUTZER」とある

バイオリンの名手、作曲家。ベルサイユ出身。ベートーヴェンから“クロイツェル・ソナタ”を献呈された。マリー・アントワネットのお気に入り。



★“ファリネッリ”カルロ・ブロスキ/Farinelli 1705.1.24-1785.7.15 (イタリア、ボローニャ 77歳)2015
Cimitero Monumentale della Certosa di Bologna, Bologna, Provincia di Bologna, Emilia-Romagna, Italy//Plot: Campo Maggiore a Levante.Arco 2

映画『カストラート』の主人公 事務所で地図をもらうように





工事現場みたいな墓地。柱に墓標 一番上に本名のカルロ・ブロスキ 情緒がなさ過ぎるぜ…

僕が墓参した声楽家の中で、最も古い時代に活躍した人物は“ファリネッリ”ことカルロ・ブロスキ。“3オクターブ半”もの声域を誇った伝説の名歌手ファリネッリは、1705年1月24日にイタリア南部アンドリアで生まれた。まだモーツァルトは生まれておらずバッハが20歳の頃だ。ブロスキ家はナポリの音楽一族で、父は大聖堂の楽長かつ市長経験者。7歳年上の兄リッカルド・ブロスキ(1698-1756)は作曲家。
この時代、女性が教会や舞台で歌うことは禁じられていた。新約聖書『コリントの信徒への手紙1』に「女性は教会で黙っていなければならない。教会で語ることは女性にとっては恥ずべきことである」とパウロが書いており、ボーイ・ソプラノが聖歌の高音を担当していた。1686年、ヴァチカンは教皇領内の女性に対する音楽教育そのものを禁じている。だが、少年では声量が弱く力強さに欠け、表現力も乏しい。そのため、変声期前に去勢して声変わりを抑えたカストラートが登場した。睾丸がないと男性ホルモンのテストステロンの分泌が抑制され喉仏ができず、声帯は肥大せず声が低くならない。
ヴァチカン礼拝堂の記録では、教皇シクストゥス5世(1521-1590)がカストラートに門戸を開き、1562年に初めてスペイン出身のカストラートが登場している。カストラートは日々の訓練で高度な呼吸法を身に付け、大きな肺活量で息の長いフレーズを歌いこなし、声には輝くような張りがあった。
やがてカストラートは教会からオペラ界に進出、17〜18世紀イタリア・オペラでもてはやされた。全盛期は1650年頃からの1世紀。人気のあるカストラート歌手は、年にわずか2、3カ月のステージで一国の首相の年俸以上のギャラを得たといい、富を夢見た親により一時期は年間4000人以上の7〜11歳男児が去勢された。手術後の感染症で死ぬ子どもがいたにもかかわらず、最盛期を過ぎた1759年の段階でも哲学者ヴォルテールが「ナポリでは年間2、3千人の子どもが去勢されている」と記録している。カストラートの高く官能的な歌声は、聴衆の女性を数多く失神させたという。

1597年にイタリア・フィレンツェでオペラが誕生し、1637年にヴェネツィアで市民向けの初の公開オペラ劇場が完成すると、空前のオペラブームが到来した。この時代、ナポリはパリ、ロンドンについで欧州3番目の大都市であり、1707年にナポリにもオペラ劇場が完成すると、同地がオペラの中心地となった。数年後には「ナポリは世界の音楽の首都」(シャルル・ド・ブロス/1739)と讃えられている。
1711年、音楽一家のブロスキ家もファリネッリが6歳のときにナポリに出た。9歳で同地の音楽院に入り、1715年(10歳)から優れた声楽教師で作曲家のニコラ・ポルポラに師事した。ポルポラはハイドンの作曲の師匠でもある。そんな折、12歳で父が急死。この頃、多くのカストラートがナポリで修業しており、ファリネッリも去勢手術を受けて、1720年に15歳でナポリの貴族の家でデビューした。翌年舞台デビューを果たし、1722年(17歳)にローマでもデビュー。2年後にはウィーンでデビューするなど各地で活躍した後、1734年(29歳)、イギリスの反ヘンデル派に招かれてロンドン入りし、ヨーロッパ随一の澄んだ響きの美声と圧倒的な歌唱力(コロラトゥーラ技法)で人々を驚嘆させた。ファリネッリは無呼吸で150個の音譜を歌えたという。
3年後の1737年(32歳)にスペイン・マドリードに招かれて王室専属の歌手となり、フェリペ5世(1683-1746/太陽王ルイ14世の孫)の寵愛を受け、毎夜、王がリクエストする4曲を寝室で歌いあげ年に5万フランを受け取った。王のお抱え歌手となってからは声を劣化させないため一般の舞台に立たず、事実上、絶頂期に引退した形になった。重いうつ病を患っていたフェリペ5世は、ファリネッリの歌声で症状が癒された。ファリネッリは紳士的かつ温厚な性格で知られる。ある日、町の仕立て屋が服をファリネッリに届けた際、代金のかわりに生きながら伝説となった彼の歌声を聴かせてほしいと懇願した。ファリネッリは切実な訴えに折れて美声を披露し、さらには仕立て屋に2倍の服代を渡したという。
9年後、1746年(41歳)にフェリペ5世が他界。続くフェルナンド6世からも厚遇され、イタリアから台本作家や歌手をマドリードに呼び寄せ、同地でイタリア・オペラのブームを作った。1756年(51歳)、兄リッカルドがマドリードで他界(享年58歳)。
1759年(54歳)、フェルナンド6世が没しフェリペ3世の時代になると、政治に影響力を持つようになったファリネッリはうとまれて宮廷を追われ、22年間暮らしたスペインに別れを告げる。同年もしくは1761年にイタリアに戻り、ボローニャで静かに余生を送った。
1769年にローマ教皇となったクレメンス14世は非人道的ともいえるカストラートの養成を止めさせるため(カストラートは結婚も禁じられていた)、女性が教会で歌うことを認め、後日、舞台に女性が出演することを許可したが、お膝元のヴァチカンの聖歌隊はカストラートを採用し続けた。
隠居後のファリネッリはスペイン王室から多額の年金を受け、不自由なく20年強を過ごし、1782年9月16日に77歳で生涯を閉じた。若きモーツァルトは父に連れられてファリネッリ邸を訪問している。死後、212年を経た1994年に生涯が映画化された。

カストラートはファリネッリの死後どうなったか。1806年ナポリはナポレオンに征服され、統治者であるナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトは、カストラートの養成機関となっていたナポリの音楽学校に去勢された少年の入学を禁止した(1815年のナポレオン失脚後に制度が戻ったかは資料がなく不明)。そして1870年、新たな刑法が施行され少年の去勢手術が法的に禁止された。去勢反対の声を受け、1878年(1870?1902?)に聡明と讃えられたローマ教皇レオ13世(1810-1903)はカストラート禁止令に署名する。だがソプラノの不足は聖歌から輝きを失わせたことから、ヴァチカン・システィーナ礼拝堂聖歌隊の6人いたカストラートをさらに補充するため、1882年に新たに24歳の若者と契約している。1898年、システィーナ礼拝堂聖歌隊の新たな指導者として着任した人物は「チェチリアニズム」(教会音楽の原理主義)を信奉、ソロよりもコーラスを重視したグレゴリオ聖歌を好み、感情に訴えるカストラートの劇場様式の歌唱より、素朴で清楚な歌唱を求めた。この時点で3人になっていたカストラートはいっそう肩身が狭くなった。
1903年にレオ13世が没し、後継となった教皇ピウス10世(1835-1914)はチェチリアニズム支持者であり、現代音楽の演奏を禁じ、カストラートの新規採用を公式に禁止、少年(ボーイ・ソプラノ)を雇うよう定めた。このように“改革”は断行されたが、ヴァチカンは30年間の長期契約で歌手を採用していたので、一番最後の1882年に採用されたカストラートの任期はまだ残っていた。その“最後のカストラート”ことアレッサンドロ・モレスキ(1858―1922)は、1902年と04年に発明から間もないレコードに「システィーナ礼拝堂のソプラノ歌手」として声が記録されている。1913年、モレスキは55歳のときに30年間の恩給を約束され、システィーナ礼拝堂聖歌隊を引退した。彼は1922年に63歳で世を去り、これで350年以上にわたったカストラートの歴史は終わった。その後、しばらくはカウンターテナーも影が薄くなっていたが、第二次世界大戦後、イギリスの声楽家アルフレッド・デラー(1912- 1979)がカウンターテナーを復興させた。

−−僕が初めてファリネッリの存在を知ったのは1994年の映画『カストラート』。主人公のファリネッリが舞台セットの空飛ぶ馬車でステージに降り立ち、紅白歌合戦の小林幸子さんのような派手な衣装を身にまとい、兄リッカルドの歌劇『イダスペ』からアリア「忠実な霊よ、我もまた」を歌った。アリアのクライマックスで超音波のような高音を「26秒間」も息継ぎせずに歌いあげ、聴衆の女性を次々と失神させる光景に度肝を抜かれた。映画の後半にはヘンデルの歌劇『リナルド』から「私を泣かせてください」を劇場で歌い、客席で聴いていたヘンデルが感動のあまりカツラをずり落として失神、聴衆が総立ちになって「神は唯一の存在!ファリネッリもただ1人!」と大喝采を贈る。映画制作の際、現代はカストラートがいないためソプラノ歌手とカウンターテナーの声を合成して約250年前のファリネッリの声を再現したとのこと。
映画を観てから20年後に、僕はファリネッリの墓参のため終焉の地ボローニャを訪れた。作曲家レスピーギも眠る広大なチェルトーザ記念墓地の門をくぐり、管理人のおじさんにどこに墓があるのか教えてもらった。管理人さんはまったく英語が話せないけど、「ファリネッリ」の名前だけで地図を用意してくれたので、巡礼に来る人が多いと思う。墓は壁沿いにあった。日本には古い音楽家の墓があまりないため、こうして多くの人が目にする回廊の側面に歌手のお墓があることに感動した。
そして墓前で言おうと決めていたロンドンの聴衆の喝采「One GOD!One Farinelli!」を彼に捧げた。墓碑が壁面の石板ゆえ、どこに身体があるか分からず、「もしかすると墓というより記念碑に近いのかな?」と思っていたら、過去の報道で2006年7月に医学研究のためファリネッリの墓から遺骨が取り出され、カストラートの身体の成長が科学的に分析されたとあった。やはり墓石付近にファリネッリは眠っていたんだ。墓参できて良かった。

※リッカルド・ブロスキ:歌劇『イダスペ』から「忠実な影よ、私も」(Idaspe:Ombra fedele anch'io)https://www.youtube.com/watch?v=GIPQtelKN28
※ヘンデル:『私を泣かせてください 』(Lascia ch'io pianga)https://www.youtube.com/watch?v=u7rsigVubUI
※墓前の紅白の鉄柵は日本人には違和感があるが、イタリアでは工事現場でよく見るカラーリングだ
※ファリネッリがスペインにわたった1737年、ナポリに現役の劇場としては世界最古のサン・カルロ劇場が開場している。
※金谷めぐみ氏(西南女学院大学)の論文『カストラートの光と陰』によると、17世紀中頃は男性オペラ歌手の実に70%(!)がカストラートであったという。
※カウンターテナーは変声期を経た男性が裏声(ファルセット)で女声のアルトからメゾソプラノに匹敵する音域を歌うもの。
※ソプラニスタはソプラノ音域で歌う男性歌手のこと。通常はファルセットだが、内分泌器官の関係で声変わりせず地声で歌うケースがある。
※モーツァルトのオペラ『イドメネオ』『ティトゥス帝の慈悲』にはカストラートのための役がある。
※フランスはカストラートに否定的で、ナポレオンは禁止令を出した。
※ベートーヴェンは優れたボーイ・ソプラノであったため人々はカストラートを勧めたが、父親が反対し後に作曲家となった。
※“最後のカストラート”アレッサンドロ・モレスキについての最も詳しい研究サイト  http://moreschi.biroudo.jp/life_list.html



★カルーソー/Enrico Caruso 1873.2.25-1921.8.2 (イタリア、ナポリ 48歳)2000 テノール歌手
Del Pianto Cemetery, Naples, Campania, Italy

霊廟が丸ごとカルーソーの墓 ガラスの向こうに彼の石棺。鍵に供花が カルーソーの肖像写真が墓前にあった

20世紀初頭のオペラ黄金時代を築いた伝説的ドラマティック・テノール歌手、エンリコ・カルーソー(伊語カルーゾ)は1873年2月25日にイタリアのナポリで生まれた。ちなみに同時代の人気バス歌手フョードル・シャリアピンは12日早い同年2月13日生まれ。カルーソーの父は機械工で家は貧しく、彼は義務教育をほとんど受けられなかった。9才から教会の少年聖歌隊に入り音楽の基礎を学ぶ。
15歳で母を亡くし、カルーソーは家計を助けるためにナポリの店先で歌った。
声には自信があったため、18歳からナポリの声楽教師に出世払いで教えを受ける。当初はボイス・コントロールで苦闘したが、訓練して滑らかなベルカント唱法を習得。生まれながらの美声、テノールの幅広い声量、陰のある音色のバリトンも出せるなど、その表情豊かな演技で一世をふうびした。
1895年(22歳)、3月15日ナポリのヌオーボ劇場でプロ声楽家としてデビューを果たす。(デビューは「1894年にナポリのベリーニ劇場」という資料もある)。その後、地方の劇場で2年ほど経験を積む。
1898年(25歳)、ミラノにてジョルダーノの悲劇『フェードラ』初演に抜擢され、正当防衛で人を殺めてしまった逃亡犯ロリス伯爵を歌い、初の大成功を収める。この頃、ソプラノ歌手のアダ・ジアチェッティと結ばれ子をもうける。
1899年(26歳)、世界各地で精力的に公演し、ロシア、アルゼンチン、モナコ、英国、フランスなどで観客を魅了する。
1900年(27歳)、12月ミラノ・スカラ座にてプッチーニの『ラ・ボエーム』ロドルフォ役でデビュー。指揮はトスカニーニ。(スカラ座の初主役は1897年のジョルダーノ『誓い(イル・ヴォート)』説もあり)
1901年(28歳)、ヴェルディが他界し追悼コンサートに出演。年の暮れに故郷ナポリのサン・カルロ劇場でドニゼッティ『愛の妙薬』に出演したところ、観衆や批評家に受け入れられず、翌日の新聞に厳しい酷評が掲載された。ショックを受けたカルーソーは、故郷では歌わぬことを誓った。同年、シャリアピンがレコードに録音し話題を集める。
1902年(29歳)、ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場の舞台に立ち、豪州出身の人気ソプラノ歌手ネリー・メルバ(1861-1931)と共演。ヴェルディ『リゴレット』の成功で世界的名声を獲得した。同劇場ではプッチーニの『ラ・ボエーム』もヒットする。
同年、イギリス・グラモフォン社のプロデューサーはスカラ座で聴いたカルーソーの高音域に感動し、声を録音するよう説得。ホテルの自室でピアノ伴奏による録音を行い、カルーソーは「自分の歌声を初めて録音したテノール歌手」となった。曲目は「道化師“衣装をつけろ”」「トスカ“星は光りぬ”」「愛の妙薬“人知れぬ涙”」「アイーダ“浄きアイーダ”」「リゴレット“あれかこれか”」など20曲(初回の録音は10曲との説もある。残りの10曲は後日録音?)。レコードのおかげで、オペラはチケットが買える富裕層だけの芸術ではなくなった。
1903年(30歳)、ヴェルディの『リゴレット』でニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にデビューを飾る。それから17年間、同歌劇場の看板スターとして多くのシーズンに登場し、6歳年上の指揮者トスカニーニ(1867-1957)のもとで黄金時代を築いた。渡米にあわせて発売されたレコードはシャリアピン以上に大ヒットし、世界で初めてレコードの売上げで富豪となった。カルーソーはオペラ歌手による声楽録音の全盛時代をもたらし、シャリアピンと共に20世紀初頭に最初期のレコード録音を行った歌手となった。同年、ビクター社と契約してさらに数多くの曲をレコーディングしていく。
1904年(31歳)、アメリカで録音した十八番のレオンカヴァッロ『道化師』の「衣装をつけろ」が大ヒットし、世界初のミリオン・セラーとなる。同年フィレンツエ近郊に家を購入。毎年のように欧米の各地で歌を披露する。
1906年(33歳)、ニューヨークのセントラル・パーク動物園で、当時のナポリっ子がやっていたように若い女性のお尻をつねったところ悲鳴があがり逮捕される。裁判で有罪となり罰金10ドルを科せられた。この年、サンフランシスコ滞在中に大地震に遭遇。
1909年(36歳)、咽頭の手術を受けて高域の輝きを失うが、中低域を充実させて力強さを手に入れた。同年1月、ニューヨークのホテルでカルーソは別居中の妻と大喧嘩をする。
1910年(37歳)、プッチーニ『西部の娘』の世界初演で主役ディック・ジョンソンを演じる。指揮はトスカニーニ。
1914年(41歳)、7月に第一次世界大戦が勃発。カルーソは戦争慈善団体のチャリティーに協力した。
1917年(44歳)、本格的な南米ツアーを敢行。
1918年(46歳)、ハリウッドのサイレント映画『My Cousin』(50分)で主役を演じ、劇中でレオンカヴァッロ『道化師』のアリア「衣装つけろ」を歌う(無声)。ギャラは10万ドル。この年、4人の子をもうけたアダ夫人と正式に別れ、9月にドロシー・パーク・ベンジャミンと再婚。11月に第一次世界大戦が休戦。
1919年(47歳)、メトロポリタン歌劇場の開場25周年記念のガラ・コンサートに出演、メキシコの闘牛場で2万5千人を前に美声を披露する。
1920年(48歳)、この頃カルーソーの一晩のギャラは1万ドルに達する。9月最後のレコーディングを終えて全米ツアーに出発。12月3日に『サムソンとデリラ』のリハで、セットの柱が背中に当たってしまう(クライマックスの神殿倒壊シーン?)。12月11日、ドニゼッティ『愛の妙薬』の本番中に喉から出血。12月24日、メトロポリタン歌劇場でアレヴィ『ユダヤの女』に出演し、最後の舞台となる。翌日、胸の激痛に襲われ、胸膜が炎症を起こし胸膜内にうみがたまっていることがわかる。メトロポリタン歌劇場ではデビュー以来37作品608回の舞台に立った。
1921年、7度の手術を経て5月に故郷ナポリに戻り療養生活を送る。手術のためにローマへ向かう途中、彼が“ナポリの我が家”と呼ぶナポリ湾に面したホテル「イル・グランドホテル・ヴェスヴィオ」に一泊。翌日の8月2日朝、腹膜炎と副腎膿瘍により48歳で他界した(死因は“喉頭癌”という説もある)。イタリア王ビクター・エマニエル3世は偉大なるカルーソーの葬儀に多くの市民が参列できるよう、ナポリ王宮前のプレビシート広場に面したサン・フランチェスコ・ディ・ポオラ聖堂の王室教会堂を開放した。葬儀後、亡骸はナポリ中心部から6km北東にあるデル・ピアント墓地の霊廟に安置された。
1938年、シャリアピンは65歳で他界。
1951年、カルーソーの生涯を描いた映画『歌劇王カルーソ』がマリオ・ランツァ主演で制作される。
1986年、作曲家ルチオ・ダッラがカルーソーに捧げた歌『caruso』を作曲した。
※『caruso』 https://www.youtube.com/watch?v=iDEdZfnULIg (5分34秒)パヴァロッティ
1987年、国立録音芸術科学アカデミーはカルーソーにグラミー賞生涯業績賞を授与した。

柔らかい絹のような美声で滑らかに歌うベルカント唱法の名手であると同時に、バリトンと間違えられるほどの暗い声質を活かし、カルーソーは様々な役をこなした。叙情的なオペラからドラマチックなオペラまでレパートリーは約60作にのぼり、ヴェルディやプッチーニ作品のほか、サンサーンス「サムソンとデリラ」、マイアベーア「予言者」、アレヴィ「ユダヤの女」なども得意とした。中でもレオンカヴァッロ『道化師』のカニオ役でオペラ・ファンの涙を搾り取った。カルーソーはオペラだけでなく、イタリア民謡「オー・ソレ・ミオ」「帰れソレントへ」やポピュラーソングまで約500曲もの歌曲をレパートリーとしており、庶民からも愛される歌手となった。
また。レコード録音を積極的に行った最初のスター歌手であったことから、蓄音機の普及がカルーソーの知名度を高めたと同時に、カルーソーの人気が蓄音機の普及に貢献した。

※カルーソーは美男ではなく労働者出身の武骨な男だったが、音域の広さは驚異的で、ある時は本番中に声がでなくなった友人のバス歌手に「僕が歌ってあげる」と耳打ちし、聴衆に背を向けて友人のパートを歌い窮地を救ったという(その間、友人は口を動かしていた)。テノールの彼がバスを歌っているのに観客は誰も気づかなかったらしい。
※カルーソーは料理が好きでパスタ(ブカティーニ)のアレンジが得意だった。また有名店の料理を再現して友人たちにふるまい、こう言ったという。「下手なテノール歌手と言ってもいいけど、下手なコックとだけは言わないでくれ」。
※戯画の名手としても知られ、当時の音楽家を描いた似顔絵等を集めた本が出版されている。
※1902年以後はニューヨークのメトロポリタン歌劇場を中心に、欧米各地の主要オペラ・ハウスに出演したが、イタリアではトラウマから2回の慈善公演で歌っただけであった。
※カルーソーの音源はCDとして再発売されており、声を聴くことができる。
※メトロポリタン歌劇場は1883年10月22日にグノーの「ファウスト」で開場。マーラーらの名指揮者の活躍により世界有数の歌劇場となった。1908年にトスカニーニが指揮者に迎えられ、プッチーニ「西部の娘」、チャイコフスキー「スペードの女王」、ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」、リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」などのアメリカ初演がおこなわれた。カルーソーのほか、ジェラルディン・ファーラー、ジュゼッペ・デ・ルーカ、ローザ・ポンセルらが活躍した。
※映画でカルーソーを演じたマリオ・ランツァ(1921-1959)の墓はカリフォルニア州カルバーシティーのホーリー・クロス墓地にある。享年38歳。
※フィレンツェ近郊のラストラ・ア・シーニャに「エンリコ・カルーソー博物館」がある。
※声は劇的な表現も可能なリリック・テノールで、純粋にドラマティック・テノールのための役柄は、舞台上では歌わなかった。
※こちら( https://plaza.rakuten.co.jp/predudio/diary/200608020000/ )のサイト情報によると、カルーソーの美しい妻がオペラ『道化師』のように他の男と駆け落ちし、ちょうどその日のカルーソーは『道化師』の舞台があり、本番のアリア「衣装を着けろ」は凄まじい迫力だったとのエピソードが。「駆け落ちした妻」は先妻アダ?それとも後妻ドロシー?手元の文献に記述がなく裏がとれない。ドロシーに以下の言葉を語ったというから、駆け落ちしたのはアダっぽい。カルーソー「私の人生はとても苦しかった。私の歌で感動してお客が泣いてくれるのはそのためなんだ。私のように苦しみの経験がなければ、この歌の本質を歌えない。苦しみを味わったその夜から、新しい声が出てきた。そして単なる歌手以上のものになった」。うーむ、アダは子持ちなのに駆け落ちするかな。ほんと、いつのことなんだろ…。
※こちら( https://allabout.co.jp/gm/gc/456859/all/ )のサイトにはカルーソーの開幕前の奇妙な癖として「まず温かい塩水でうがいをした後に、鼻から直接吸い込む煙草を吸い、ウィスキーを少し口に含み、炭酸水を飲み、最後にリンゴを食べていました。その後、彼が9歳の時に他界した母親に祈りを捧げていました」と紹介されている。

〔墓巡礼〕
イタリアが生んだ最高の名テノール、死後も20世紀最高のテナーと多くの人から称されているカルーソー。僕がカルーソーのことを知ったのもファリネッリと同じく映画からだった。名画座で1982年の西ドイツ映画『フィツカラルド』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)を鑑賞し、主人公フィツカラルドが熱狂的なカルーソー・ファンでその情熱に感化された。彼はカルーソーのブラジル公演を聴いて感激し、アマゾンの奥地イキトスにオペラ劇場を建てるという野望を抱く。人々に変人扱いされると「私は多数派だ」とやり返し、アマゾンを蒸気船でさかのぼった。川岸から先住民(いわゆる首狩り族)に攻撃されかけると、彼は船の屋根に蓄音機を置き「カルーソーで行く」とレコードに針を降ろした。次の瞬間、ジャングルにマスネの 歌劇『マノン』第2幕の「夢の歌」が響き渡る。その後もヴェルディ『リゴレット』の四重唱「美しい乙女よ」などレコードをかけ続けていると、先住民の小舟に包囲されて彼らが船に乗り込んできた。だが戦闘は起きなかった。カルーソーの輝かしいテノールが起こした奇跡だ!あまりにこのシーンが素晴らしく、カルーソーは僕の中で神格化された。

僕がカルーソーを墓参したのは2000年。彼が眠るナポリは人情味にあふれた街だけど、一方で治安はお世辞にも良いと言えない。友人は同じ年にナポリの港でナイフを突きつけられ、別の知り合いは写真を撮っているさなかにバイクの2人組にデジカメをもぎ取られた。ナポリは広い街だけど、ナポリ駅は街の東側にあり、幸いにもカルーソーが眠る墓地「Cimitero di Santa Maria del Pianto」も東側と近い。駅からは3km、徒歩45分で行ける。バスも走っているけど、路線番号も停留所も分からないし、バス停の名前が分かったところでイタリア語をパッと読めない。歩いた方が確実だ。治安の悪い土地は朝一番に移動するに限る。悪党は夜通し悪さをしているので、午前中は寝ているからだ。墓地の開門は8時。途中で道を尋ねながら向かうことになるので、あまり早朝すぎても通行人がいないので駄目。そういうわけで7時すぎに歩き始め、開店準備をしている店の人や通勤中の人に尋ねながら、早歩きで一目散に墓地を目指した。少し迷ったけど開門直後に到着し、管理人さんの案内で彼の墓前に無事に立つことができた。高さ7mはあろうかという小さな城のような霊廟で、内部にカルーソーの大きな白い石棺が見え、墓前に彼の写真があった。霊廟の扉には一輪の可愛らしい花が挿してある。造花でなく本物の花であり、僕より早く朝一番にここに来たファンが捧げたようだ。1921年に没しているのに、現在進行形でナポリっ子に愛されていることが分かって泣きそうに。カルーソーも喜んでいるだろう。



★マリア・カラス/Maria Callas 1923.12.2-1977.9.16 (パリ、ペール・ラシェーズ 53歳)2002 ソプラノ歌手
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France

旧墓。ここに遺灰があったことを示す
ファンクラブの金文字の銘板が設置されている
エーゲ海。散骨されたため、いわば海全体が墓所。
遺灰はオナシスの眠る島に流れ着いているだろう

「私の表現はいつも変わるので、二つと同じ舞台はありません。でも、それはいつも“マリア・カラス”なのです」。従来のオペラ歌手にはなかった迫真の演技、劇的表現により、「カラス以前・以後」という言い方が生まれるほどオペラの歌唱様式に革命的な変化をもたらしたソプラノ歌手マリア・カラス。
彼女は1923年12月2日に、アメリカ・ニューヨークで生まれた(カラスは12月生まれなので本稿の出来事は大半が誕生日前に起きている点に留意)。本名マリア・アンナ・カロゲロプーロスで、後にカロゲロプーロスをカラスとした。両親はこの年にギリシアから移民し、米国で薬屋を営んだ。オペラ歌手を志望していた母はカラスに歌を、姉にピアノを習わせた。店の経営は順調だったが、1929年の世界恐慌で父は破産し店を手放す。母は図書館で娘に歌曲のレコードをたくさん聴かせ、カラスはアメリカの最も偉大なソプラノの一人ローザ・ポンセル(1897-1981)のレコードに感動する。
1935年(12歳)、母はカラスの才能に気づき、のど自慢番組に出演させ2等に選ばれる。
1936年(13歳)、ラジオ番組でプッチーニ『蝶々夫人』のアリア「ある晴れた日に」を歌った。
1937年(14歳)、両親は離婚し母は生まれ故郷ギリシアに娘たちを連れ帰り、父はNYに残った。母は13歳のカラスを17歳と偽ってアテネ音楽院に入学させようとしたがうまくいかず(入学資格は17歳以上)、ギリシャ国立音楽院の教師にカラスの声を聞いてもらった。カラスの声に暖かさ、激しさ、叙情性が同居していることに驚いた教師は、家庭教師として無料で指導すると約束してくれた。カラスは美声ではないため、音色を明るくするため連日6時間トレーニングした。後にカラスは初期の声を「音色は暗く、ほとんど黒、濃い糖蜜のよう」と回想している。
1938年(15歳)、再び年齢を偽ってアテネ音楽院を受験し、スペイン出身の世界的コロラトゥーラ・ソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴがカラスの天賦(てんぷ)の才に感嘆、指導を受けられることになった。だが、家計が苦しく、母はカラスに仕事をさせるため1年間の猶予を求めた。
1939年(16歳)、4月2日アテネ王立歌劇場の学生オペラでマスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァを歌って初舞台を踏む。同年秋から約束通りアテネ音楽院でイダルゴから学ぶ。カラスは美しい歌い方=ベルカント唱法を身に付けるため、“ガリ勉”とあだ名がつくほど熱心に鍛練を積んだ。朝10時に音楽院に行き、10時間レッスンして20時に最後の生徒と一緒に帰る日々を送った。一方、ストレスのため過食症となってしまい、後に体重は108kgにまで達した。9月に第二次世界大戦が勃発。母は失職するが、カラスの姉ジャッキーの彼氏が母娘の生活を支援してくれた。
1941年(18歳)、2月アテネ王立歌劇場にてスッペの喜歌劇『ボッカチオ』のベアトリーチェ役でプロの声楽家としてデビュー。同年、アテネ歌劇場でプッチーニ『トスカ』の主役を演じ好評を得る。この年、アテネにドイツ軍、イタリア軍が侵攻し戦場となった。混乱により父は米国から仕送りが出来なくなる。ギリシア国民30万人が餓死するという状況の中、カラスは食べていくために師イダルゴの紹介でアテネを占領したイタリア軍の集会所イタリアンハウスで歌う。そして2人のイタリア兵に恋をした。
※小学館『日本大百科全書』はこの年のアテネ歌劇場の『トスカ』を正式デビューとしている。ドキュメンタリー『マリア・カラス 歌と愛の生涯』も『トスカ』をデビュー作とする。でも、
英語版ウィキペディアにはアテネ歌劇場のカラスの『トスカ』公演は翌年8月27日になっており、情報が錯綜している。

1942年(19歳)、4月アテネ王立歌劇場にてダルベール『低地』のギリシア初演で主役を演じ、批評家から「劇的で音楽的な才能を持つ非常にダイナミックな芸術家」と称えられる。
1944年(21歳)、10月にアテネは解放されるが12月に内戦が始まる。同年『カヴァレリア・ルスティカーナ』で主役に抜擢された。舞台は大成功を収め、続いてベートーヴェン『フィデリオ』のレオノーレを歌う。カラスは大戦中に7つのオペラで56回舞台に立ちキャリアを積んだ。
1945年(22歳)、第2次世界大戦が終結。カラスは戦争中にイタリア兵と親しかったことが問題となり、アテネ歌劇場から契約を切られ、奨学金も打ち切られ、9月に父が住むアメリカに単身戻る。メトロポリタン歌劇場のオーディションを受け、『蝶々夫人』の出演を打診されたが、カラスは自分が太りすぎて役柄に合わないことを懸念し断った。2年間の下積み生活が続く。
1947年(24歳)、ついにチャンスを掴む。8月2日、北イタリア・ベローナの野外オペラ(ヴェローナ音楽祭)でポンキエッリ『ラ・ジョコンダ』の主役を歌ってイタリア・デビューを果たし、国際的に有名となった。この出演はニューヨークで同フェスティバル芸術監督と出会ったことが縁となり招かれたもの。『ラ・ジョコンダ』はカラスの私生活にも転機を与えた。客席にいたオペラ好きの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニ(51歳 1896-1981)が、公演後にヴェローナのレストランで食事していた
カラスに一目惚れしたのだ。28歳年上で既婚者のメネギーニはパトロンとなったが、やがてレンガ工場の経営をやめて彼女の愛人兼マネージャーとなり、2人はヴェローナの「ホテル・アカデミア」で共に暮らすようになった。
カラスは『ラ・ジョコンダ』が成功したものの次の出演依頼が数か月なかった。指揮者トゥリオ・セラフィンは彼女にワーグナー歌手の素質を見出し助言を与え、カラスは12月にヴェネツィア・フェニーチェ劇場でワーグナー『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデを歌った。
1948年(25歳)、フィレンツェ五月音楽祭でカラスの代名詞となるベルカント・オペラ、ベッリーニ『ノルマ』を初めて歌い絶賛される。この成功で彼女は以後も同音楽祭の顔となった。『ノルマ』はソプラノにとって最も難易度が高い作品だが、カラスは生涯で91回もノルマを演じ、十八番とした。「カラスなくしてノルマなし」と言われるほど最大の当たり役となったが、ノルマは声への負担が大きい難役であり、結果的に引退を早める要因のひとつになる。この年は他にも、1月にプッチーニ『トゥーランドット』、4月にヴェルディ『運命の力』、9月にヴェルディ『アイーダ』を歌っており、強烈なドラマティコとしても存在感を発揮している。
1949年(26歳)、1月8日、力強い声を求められるワーグナー『ワルキューレ』のブリュンヒルデをヴェネツィア・フェニーチェ劇場で歌う。同劇場は次回公演で別の歌手がセラフィン指揮でベッリーニ『清教徒』のエルヴィーラを歌う予定だったが、公演数日前に風邪で倒れ、代役としてカラスが抜擢された。カラス「“1週間後に清教徒を歌え”と言われたの。“まだワルキューレの公演が3回残っている”と訴えたのですが、セラフィンは“君なら出来る”と譲りませんでした」。セラフィンはカラスなら6日間でエルヴィーラを歌えると確信していた。同月19日、カラスは舞台でエルヴィーラを歌った。重厚でドラマチックな歌唱の『ワルキューレ』と、軽やかで繊細な装飾唱法を要する『清教徒』のヒロインという、まったく異なるタイプを短期間で歌い分け世界を驚嘆させた。しかも翌月には再びワーグナー『パルシファル』に出演している。カラスと同い年の演出家フランコ・ゼフィレッリは「彼女がヴェネツィアでやったことは本当にすごかった」と興奮し、ある批評家は「最も懐疑的な人でさえ、マリア・カラスが成し遂げた奇跡を認識しなければならなかった…彼女の澄んだ、美しい声の柔軟性に注目せざるを得ない」と書き記した。
セラフィンはカラスの魅力をさらに引き出すべく、19世紀初頭にイタリアの作曲家が当時の偉大な歌姫のために書き、その後音楽史に眠ったままのベルカント・オペラに注目。カラスの実力なら上演できると見込み、忘れられていたケルビーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ロッシーニらのオペラ作品に次々と光を当てた。カラスより10歳年下のスペイン人ソプラノ歌手モンセラート・カバリェ(1933-2018)いわく「彼女は私たちのために、世界中のすべての歌手のために、閉じられていたドアを開けました。 その背後には素晴らしい音楽だけでなく、
解釈の素晴らしいアイデアが眠っていました」。
同年4月にカラスとメネギーニは結婚。カラスは美しい髪をいつもまとめあげていた理由を「私は若いから彼に釣り合うよう老けて見せたいの」と語っている。年末にナポリでヴェルディ『ナブッコ』を歌い、初めて録音テープで自分の声を聴き、美声と呼べず好きなタイプの声でなかったため、思わず叫んでしまう。歌を諦めたいとまで思ったが、徐々に自分の声が好きでなくても、受け入れて客観的に捉えることができるようになったという。

1950年(27歳)、代役としてイタリア歌劇場の最高峰ミラノ・スカラ座に『アイーダ』でデビュー。6月、メキシコでヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』を歌う。このメキシコ公演に母を呼んだところ金の無心をされ、カラスは少女時代から家計のため母に利用されてきたと憤り、母と訣別し2度と会わなかった。怒った母はマスコミに薄情な娘と悪口を言いふらしスキャンダルとなった。
1951年(28歳)、1月フィレンツェでヴェルディ『椿姫』のヴィオレッタを初めて歌う。同年、ミラノ・スカラ座のオーディションでトスカニーニに認められ、12月にヴェルディ『シチリア島の夕べの祈り』で正式にスカラ座デビューを飾る。名誉あるシーズン初日を任され、カラスは世界の歌姫(ディーバ)となった。スカラ座はカラスを全面的に支援し、彼女のために新作を用意していく。ルキノ・ビスコンティはカラスのためだけにオペラを監督し始めた。

1952年(29歳)、1月16日、ミラノ・スカラ座でベッリーニ『ノルマ』のアリア「清らかな女神よ」を世界一の精度で歌いあげ、聴衆は大喝采した。マスコミは「ミス・カラスの完璧な至芸」「彼女の存在は聴衆を金縛りにする」と賞賛した。4月モーツァルト『後宮からの誘拐』を歌いさらにレパートリーを増やす。6月“狂乱の場”で知られるドニゼッティの『ランメルモールのルチア』の難役ルチアを演じた。従来はソプラノ歌手のサーカス的な聴かせどころだったルチアの「狂乱の場」は、カラスによってヒロインの悲劇を強調するための重要なエピソードとなった。1週間後、ヴェルディ『リゴレット』のジルダを歌う。この年から、夏場は世界から隠れるようにヴェローナ近郊のガルダ湖の保養地シルミオーネの別荘で過ごすようになる。同年、ロンドンのコベント・ガーデン(王立歌劇場)に『ノルマ』でデビュー。
1953年(30歳)、この頃人々の娯楽の中心が映画となり、太った歌手が棒立ちで歌うオペラは人気を失いつつあった。「オペラの世界はもはや死に絶えました。だからこそ本気を出さねば。甘えてはいられません」。カラスはオペラ歌手も映画女優のように見た目も美しくなければならないと決意、猛烈なダイエットを開始する。そしてわずか1年半で約100kgの体重を63kgに、実に約40kgもの減量を実現した(108kgから56kgにという約50kg減量説もある)。細身で優美な身体に生まれ変わったカラスはサラダとチキンの低カロリー食で体重が減ったと言ったが、サナダムシの卵を飲み込んだとの噂も流れた。この年、フィレンツェでケルビーニ『メディア』の復活公演。カラスが音楽史に埋もれていた作品を掘り起こした例のひとつ。
1954年(31歳)、ヴェルディ『ドン・カルロ』を歌う。同年、レオン・カヴァルロ『道化師』をレコーディング収録。カラスは当たり役を次々と録音しオペラの普及に務めた。鬼気迫る声、カラスのエネルギーがレコードから伝わり、劇場に行けない人も凄味に圧倒された。
1955年(32歳)、カラス絶頂期。ミラノ・スカラ座でカルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ルキノ・ヴィスコンティ演出による『椿姫』が上演され、スカラ座史上に刻まれる空前のヒットとなった。この伝説の舞台でカラスは脱いだ靴を客席に投げ入れるといった斬新な演技を見せた。同年、スカラ座でジョルダーノ『アンドレ・シェニエ』を、米シカゴでプッチーニ『蝶々夫人』を歌う。
この頃の『トスカ』のドラマティックな演技を見た聴衆は「オペラの基になった実際の話を見ていたよう」と息を呑み、カラスはエキゾチックな美貌と舞台映えのする容姿、力強い圧倒的な歌声で時代のカリスマとなった。客席はモナコ公妃グレース・ケリーをはじめ王族や大統領らセレブが集う社交場となった。
1956年(33歳)、ミラノ・スカラ座でロッシーニ『セビリャの理髪師』を歌い、プッチーニ『ラ・ボエーム』をレコーディング。同年、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場に『ノルマ』でデビューし、センセーショナルな成功を収めた。この年、カラスはタイム誌の表紙を飾り、世界一のプリマドンナと讃えられた。
1957年(34歳)、ミラノ・スカラ座でドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』、プッチーニ『マノン・レスコー』を歌う。同年、エディンバラ音楽祭でベッリーニ『夢遊病の娘』を歌うが、公演が1回増やされていたため、最後の公演を歌わずに去り非難を浴びる。この年、ヴェネツィアのパーティーでギリシアの海運王アリストテレス・オナシス(51歳 1906-1975)と出会った。
1958年(35歳)、今や世界で最も有名なオペラ歌手となったカラス。ギャラは一晩100万リラに高騰した。だが人生は暗転していく。1月、ローマ歌劇場のベッリーニ『ノルマ』上演に際し、イタリア大統領が臨席していたにもかかわらず、のどの不調を理由に第1幕第2場以降の出演を拒否。この日はライバルのテバルディ派のファンが天井桟敷に陣取っており、カラスは緊張して音を少し外してしまい、「それが100万リラか。ミラノ(スカラ座)に帰れ」と野次をとばされたからだ。幕間に喉を診断したスカラ座の専属医師は歌える状態と判断。この日は代役がおらず劇場幹部らは1時間以上も彼女を説得したが、ついに首を縦に振らなかった。場内は怒号の渦巻く大混乱に陥り国家的スキャンダルとなった。イタリア政府は国内の主要劇場にカラスを使わぬよう通達を出した。
カラスはこの騒ぎから逃れるようにパリ・オペラ座と契約し、同年暮れにパリ・デビューを飾った。これは仏大統領天覧のチャリティーで、アリアの歌唱とトスカ第2幕を披露し大成功を収めた。カトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・バルドーらセレブが観劇したステージはテレビで生中継され、後に映画『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』となった。公演後の
晩餐会にはチャールズ・チャップリン、ジャン・コクトーらが招かれた。
1959年(36歳)、オナシスはカラスとメネギーニを豪華な地中海クルーズに招待し、5千人を呼んだパーティーを開き、会場の床にバラの花を敷き詰めた。このクルーズでカラスはオナシスと恋に落ちる。カラスにとって、自分の意思で人を愛した、生涯で唯一の本当の恋だった。オナシスはカラスのすべての滞在先に赤いバラの花籠を送り、「ギリシア人より」と書いたカードを添えた。「私が女になるのは彼の目の中でだけ」。カラスはメネギーニを捨て、オナシスとモンテカルロのカジノに繰り出し、シャンパンやキャビアに舌をうつリッチな生活に明け暮れる。このとき、オナシスは53歳、メネギーニは63歳。メネギーニはオナシスに呪いをかけたという。まもなくカラスはオナシスの子を身ごもるが流産となる。
※オナシスは17歳年上。メネギーニは約30歳も年上だ。カラスは14歳の時に母子家庭になったため父性愛を求める気持ちがあったのかも知れない。

1960年(37歳)、カラスの声の劣化が顕著になる。急激なダイエットは声に影響を与え、歌声が揺れ始めた。身体が細くなると声を支えにくく、音程をキープできなくなった。後年、カラスは「横隔膜の力を失った」と語っている。ソプラノの聴かせどころである高音域が次第に不安定となり、楽譜どおりに音域をカバーできない曲が増えた。声に変調をきたすことが多くなり、公演キャンセルも目立った。
リアリティを重視した演技にこだわるカラスは、たとえ喉に負担がかかっても、『トスカ』では地声で喉に力を入れて「人殺し」と吐き出し、真実性を追求した。『アイーダ』や『トゥーランドット』のように喉にプレッシャーがかかる作品に挑戦し、ドラマチックなヴェルディ作品から、華麗なベルカント・オペラまで、多彩な役柄で聴衆を魅了したが、その身を削るようなステージは歌手生命の短さと引き換えになった。難役を歌い続け、喉を酷使した為に、カラスが誇っていた輝かしい高音と深い陰影を帯びた低音は急速に失われてしまう。
同年、オナシスはカラスと結婚するために離婚。一方、メネギーニはカトリックということもあり、カラスとの離婚に同意しなかった。
1963年(40歳)、カラスの優れた表現力でもカバーできないほど、声がますます不安定になる。大きな揺れはコントロール困難なレベルに達していく。高音域の声は次第に出にくくなり、40歳にして終わった声楽家となった。同年、ケネディ大統領暗殺。
1964年(41歳)、パリでビゼー『カルメン』、NYでプッチーニ『トスカ』を歌う。
1965年(42歳)、7月5日ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場で『トスカ』を歌い、声の衰えを隠しきれずオペラの舞台から引退する。
1966年(43歳)、カラスは正式に離婚し、オナシスと結婚するつもりでギリシア国籍を取得する。
1968年(45歳)、オナシスは9年間のカラスとの関係に終止符を打ち、故ケネディ大統領の未亡人、ジャクリーン・ケネディとの結婚を発表。ジャクリーンは夫の弟ロバート・ケネディまで暗殺されたことで怯えきっており、これ以上アメリカで暮らすと子どもたちが危険と判断し、ロバート暗殺の4カ月後、オナシスと籍を入れてギリシアの島で生活する。2人の関係を何も知らず、新聞記事で事態を知ったカラスは打ちのめされた。カラス「9年も育んだ愛の裏切りを新聞で知るなんて息も出来ないほどよ」「9年間もキャリアを放棄したの、そして全てを失った」。カラスは絶望し舞台に立てなくなった。
1969年(46歳)、エウリピデスのギリシア悲劇、映画『王女メディア』(パゾリーニ監督)に出演。カラスはパゾリーニに愛されていると勘違いしたうえ、興行的にも大失敗する。カラスはパリの自邸で大量の睡眠薬を飲んで自殺を試み、倒れているところを発見され一命を取り留める。
1971年(48歳)、10月から翌年3月までNYのジュリアード音楽院で公開マスタークラスを23回行い若手の歌唱指導を行った。約300人の応募者から25人の受講者が選ばれた。カラスは彼らにこう語りかけた「歌い手というのは大変な仕事。勇気を持つことが大切です。安易な拍手を求めず言葉の真意を表現して下さい。花火のように儚いものではなく、あなたの真実の気持ちで」。
1973年(50歳)、ロンドンのフェスティバルホールで特別公演を行うが、輝きを失った声に聴衆は戸惑い失望した。同年、トリノ王立劇場の?落とし公演『シチリア島の夕べの祈り』の演出を担当する(最初で最後の演出)。
この年、かつての共演相手、テノールのジュゼッペ・ディ・ステファーノから「一緒に世界各地でリサイタルをしよう」と説得される。ディ・ステファーノの娘は難病でお金が必要だった。2人はワールドツアーに出発し、最初にヨーロッパを巡った。カラスは妻のいるディ・ステファーノに人生最後の恋をした。ディ・ステファーノ夫人「マリアは与える喜びを知らなかったのでしょう。何でも受け入れはするが、与えることはけっしてしなかったのです」。同年、オナシスの息子が飛行機事故で他界し、オナシスは心労から情緒不安定になる。
1974年(51歳)、ディ・ステファーノと、アメリカ、韓国で公演し、最後に来日して、東京、福岡、広島、大阪、札幌の5箇所でピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この札幌のステージがワールドツアーの千秋楽を飾るものであり、同時にカラスにとって生涯最後の公式リサイタルとなった。フジテレビ『スター千一夜』にゲスト出演。
1975年(52歳)、オナシスが気管支肺炎で他界。享年69歳。オナシスは結婚から2年ほどでジャクリーンと不仲になり、パリのカラスによく会いに来ていた。晩年はカラスと暮らすため離婚を考えていたという。
1976年(53歳)、12月末にステファーノとの関係が終わる。
1977年、カラスはフランス・パリ16区の自宅に引きこもり、ほとんど誰とも会わず、2人の使用人、2匹のプードルと暮らすようになる。そして9月16日13時半、浴室で倒れているところをドスンという物音に気づいた家政婦に発見される。心臓発作だった。享年53歳。4日後にギリシア正教会で葬儀が行われた。近親者だけが立ち合い、遺体はショパンやビゼーが眠るパリのペール・ラシェーズ墓地で荼毘に付された。遺産を横領した人物による毒殺説を唱える者もいる。ペール・ラシェーズ墓地で火葬され同地の霊廟に納骨されたが後に盗難され、2日後にパリの路上で発見された。他界1年半後の1979年6月3日に、カラスの生前の希望により出身地ギリシャ沖のエーゲ海に散骨された(フランスでは骨が灰になるまで焼くとのこと)。通常、納骨堂が空になるとその区画に誰かが入るが、ペール・ラシェーズ墓地はカラス追悼のために墓所を保存している。 歌姫の遺灰が納められていたことを
示す銘板を置いて大切に守っている。カラスの博物館を作る計画もあったが、実現前に全ての遺品がオークションで売られてしまった。
他界4年後の1981年、メネギーニが『わが妻 マリア・カラス』を執筆し、同年に75歳で他界。メネギーニは離婚後もカラスを大切に思い続けた。彼は「生前のカラスは火を恐れており火葬を希望するはずがない、散骨の遺言書は存在が怪しい」と疑っている。
1991年、それまで「M・C」としか入っていなかったカラスの最初の墓に、彼女の名前と生没年が金文字で刻まれた銘板を「マリア・カラス国際クラブ」が設置した。
※命日は9月16日なのになんで15日と彫ったややこしい銘板を置いたのだろう?命日の前日に設置したという意味?

1994年、ジャクリーン・オナシスが64歳で他界。
2002年、カラスと親しかったフランコ・ゼフィレッリ監督(1923-2019)が映画『永遠のマリア・カラス』を制作。
2005年、カラスとオナシスの関係を描いた映画『マリア・カラス 最後の恋』公開。
2007年、ドキュメンタリー映画『マリア・カラスの真実』公開。
2008年、カラス生誕85周年を祝い、ギリシャとイタリアの当局者が生誕地のNYのフラワー病院(現テレンス枢機卿クックヘルスケアセンター)に銘板を設置した。碑文は「マリア・カラスは1923年12月2日にこの病院で生まれた。この建物は彼女の声の調べ、世界を征服した声を初めて聞いた。音楽という世界共通語の偉大な通訳者に感謝の意を表して」。
2017年、ドキュメンタリー『私は、マリア・カラス』公開。
2019年、フランコ・ゼフィレッリが96歳で他界。

後年、公開されたカラスの日記は他界4カ月前の5月15日で終わっている。「まだアリ(オナシス)が私の一番愛しい思い出の中に、もう、うんざりだわ!」「私への愛情も好意も知らない!私は果てしなく独り」。オナシスに対する未練がにじみ、常用していた覚醒剤、鎮痛剤、睡眠薬などに関する記載もあった。「私はもう私自身ではない。薬の奴隷になってしまった」「人生の終わりは私に歓びを与えるだろう。幸せも、友もなく、ドラッグしか持っていないのだから」。薬の多用が心臓に負荷を与え、早すぎる死に繋がった。最後の数カ月は筆跡も怪しく、もうろうとしていたようだ。
批評家から「たいした美声ではない」「金属的な声」「ガチョウの声」と叩かれながら、そして声楽家として十分な声力を持っていた時期は10年強と短かったのに、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われたマリア・カラス。声質の不利を訓練で得た2オクターブ半の音域と、低音から高音まで響かせるパーフェクトな発声技術、比類ない表現力で乗り越えた。カラスはこれ以上はないところまで表現の極限を目指した「骨の髄からの女優」だった。人物の深い心理表現を探究して全ての役に成りきり、喜び、悲しみ、怒りをそのまま客席にぶつけ、むき出しの魂で歌った。
完璧主義であったために公演のキャンセル騒動などで「気分屋」「傲慢」と言われたが、記者に「わがままなオペラ歌手とも言われていますが」と聞かれてこう答えている−−「芸術に従順なだけよ」。
隆盛する映画産業に負けないために、人物にリアリティを持たせてオペラを変えようと闘い続けた彼女が生涯で立った舞台は600以上。物語の人物に生命を与え、退屈に感じていたオペラを面白くする一方、感情過多になって自由に演じるのではなく、あくまでも楽譜に対する忠実さを重んじた。「楽譜の中にはあらゆる感情が書き込まれています。幸せ、不幸、不安、心配、それらすべてに理由があるのです」。そして作曲家が楽譜に込めた感情を忠実に表現し、オペラをよりドラマチックなものに高めようとした。修業時代はガリ勉と呼ばれるほど勉強し、自身の声質は好きでなかったものの、トレーニングに裏打ちされた自信が彼女を女王のごとく歌わせ、声は劇場の端から端まで貫いた。カラスは声を美しく響かせることよりも、作曲家が求めているものを200%出すことに集中した。「自分の声を操って役に色彩を与える作業は病みつきになるんです。それが観客に伝わったときこそ、まさに陶酔の極みです」。
カラスは忘れられたオペラ作品を掘り起こし再興に貢献した歌手としても特筆される。16世紀末にイタリアでオペラが誕生して以来、作曲家は特定の傑出した歌手の歌唱力を念頭にオペラを作曲することがしばしばあった。これらの曲は大歌手がいない時代は再演不能に陥った。現代にカラスという軽快な表現も可能な超人的ソプラノ・ドラマティコを得たことで、歌唱の困難さから長く上演されなかったベッリーニ『ノルマ』『夢遊病の女』、ケルビーニ『メディア』、ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』など技巧的なオペラが復活上演され、本来の姿で劇的によみがえった。
カラスは「私は演じられる歌手ではなく、歌える女優」と言い、オペラの登場人物に血肉を与え、ありきたりな村娘まで強い存在感を見せつけた。『ランメルモールのルチア』のルチア、『椿姫』のヴィオレッタ、ノルマ、トスカなどのカラスの歌唱は、技術はもちろんのこと役柄の心理描写が真に迫っており、聴衆を魅了すると共に後輩の歌手にも影響を与えた。彗星の如く現れ、オペラに自分の生命をすべて与えて去って行った。

〔墓巡礼〕
カラスが最初に埋葬されたパリのペール・ラシェーズ墓地はメトロ3号線のペール・ラシェーズ駅から地上に出てすぐ。このパリ最大の墓地は、ブルボン王朝の最盛期を築いた“太陽王”ルイ14世の専属司祭、ラ・シェーズ神父の名を冠しており1804年に開設された。面積は43ヘクタール、実に甲子園球場の約11倍にあたる。この広い敷地に約7万基の墓が建ち、年間数十万人が訪れており、世界で最も訪問者の多い墓地と言われている。付近の売店は詳細な墓地マップを販売しており、墓参者の必需品だ。地図には同墓地に眠る作曲家ビゼー、画家モジリアニやドラクロワ、作家オスカー・ワイルド、プルースト、バルザック、シャンソンのエディット・ピアフやロックのジム・モリソンなど、そうそうたる名前が並んでいる。カラスの墓を擁する第87区画は火葬場と霊廟(納骨堂)がある特別区。アパート型の墓所に墓が並んでおり、各々に番号が彫られている。カラスは16528番で地下にある。付近には交響詩『魔法使いの弟子』で知られるポール・デュカス(1865-1935)も眠っている。
声楽家としてのキャリアを捨ててまで、オナシスとの愛に生きることを選んだが9年の交際は悲恋に終わった。オナシスが眠るのはギリシア西岸イオニア海のスコルピオス島。カラスが散骨されたのは東岸のエーゲ海。国の東西で分かれているが、どちらも同じギリシア沿岸の海だ。カラスの両親はギリシア人だが、自身はNYで生まれており、ギリシアには青春時代に8年しか住んいない。最後はギリシアを追放されるような形で出国しており良い思い出は少ないはず。それなのに、後半生を過ごしたパリではなく、ギリシアの海で眠ることを望んだのは、オナシスの墓に寄り添うことができると思ったからでは。元夫メネギーニが「カラスは火を恐れており火葬を希望するはずがない」と証言しているが、それにもかかわらず遺言書で海への散骨を希望したならば、そうとしか思えない。一方、カラスの恋敵だったジャクリーン・オナシスは、没後にオナシスの墓の隣ではなく、ワシントンDCのアーリントン国立墓地で元夫ジョン・F ・ケネディの隣りに埋葬された。オナシス家ではなくケネディ家として旅立つことを選んだ。晩年のオナシスはカラスとよりを戻したがっていたといい、あの世で2人が再会していることを願う。

※声楽家の声質は大きく4つに分かれ、レッジェーロ(軽い・優美)、リリコ(叙情的)、スピント(情熱的・強い声)、ドラマティコ(超重い)になる。
※スカラ座の黄金期に活躍したソプラノ歌手レナータ・テバルディ(1922-2004)は美声であり、カラスと人気を二分した。カラスとテバルディは互いに敬意を持っていたが、ファンは激しく対立し、カラスのファンは「テバルディの椿姫を聞け」と説教された。商業的にはカラスがEMIレーベル、テバルディが英デッカというレコード会社の違いもあった。ただ、役柄の範囲はドラマティコまで含めたカラスの方が比較にならないほど広く、テバルディはプッチーニやヴェルディ中期以降のリリコ・スピントが中心だった。
※トゥリオ・セラフィン「カラスは女性の声のために書かれたものなら何でも歌うことができる」
※レナード・バーンスタイン「(カラスは)オペラの聖書」。
※最後のラジオ・インタビュー「若手の指導をしたいけれど、誰も門戸を叩かない。誰も私を必要としていないの」。
※マリア・カラスが住んでいたアパートの住所はParis, Avenue George mandel 36。エッフェル塔の対岸、パッシー墓地の西300m。
※マリア・カラスはバラの名前にもなっている。大輪、濃いローズピンクの花をつける。

〔参考資料〕『オペラ名歌手201』(新書館)、ドキュメンタリー『マリア・カラス伝説 その光と影』(フジテレビ)、『ららら♪クラシック 解剖!伝説の名演奏家・永遠の歌姫マリア・カラス』(NHK)、『日本大百科全書』(小学館)、ドキュメンタリー『マリア・カラス 歌と愛の生涯』、『エンカルタ総合大百科』(マイクロソフト)、『ブリタニカ国際大百科事典』(ブリタニカ)。



★エリーザベト・シュワルツコップ/Elisabeth Schwarzkopf 1915.12.9-2006.8.3 (スイス、チューリヒ 90歳)2015
Zumikon Friedhof, Zurich, Zurich, Switzerland

『ばらの騎士』にちなんだ薔薇のモニュメントが設置されており、ファンは胸が熱くなること間違いなし!

戦後のドイツを代表する名ソプラノ歌手エリーザベト(エリザベート)・シュワルツコップは1915年12月9日にポーランドのヤロチン(当時プロイセン王国)に生まれた。ベルリン音楽院で当初はアルトとして声楽を学び、往年の名ソプラノ、マリア・イボーギンの門下となってからコロラトゥーラ・ソプラノに転向した。
1933年(18歳)、ナチスが政権を握った後、学校の校長だったシュワルツコップの父親は、学校をナチス党の集会所として使用させず当局に解雇される。シュワルツコップは医学の道に進む予定だったが、問題を起こした父親の娘として大学の入学許可が降りず、ベルリンで音楽の勉強を始めた。
1938年(23歳)、ベルリン市立歌劇場でワーグナー『パルジファル』の花の乙女役(6人のうちの1人)でデビュー。脇役からスタートし、しばらくは『ラ・ボエーム』のムゼッタ、『リゴレット』のジルダなど華麗な旋律を駆使するコロラトゥーラ・ソプラノのレパートリーをうたっていた。
1939年(24歳)、第二次世界大戦が勃発。
1940年(25歳)、ベルリン市立歌劇場と正式に契約を結ぶが、その条件としてナチス党に入党せねばならなかった。ナチスはシュワルツコップの声を宣伝に使い、連合軍の士気を削ぐために戦場で彼女の美しい歌を拡声器で流した。その結果、ナチスの思惑とは逆に、連合軍の兵士は「あの歌姫を我らのものに」と士気が上がったという。彼女は政治と芸術を切り離して生きたが、戦後に「ナチスのディーバ(歌姫)」と一部からバッシングされる要因になった。
1942年(27歳)、ウィーンで開いたリサイタルでウィーン国立歌劇場の総監督だったカール・ベーム(1894-1981)に認められ、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ナクソス島のアリアドネ』でウィーン国立歌劇場にデビューを果たす。翌年同劇場と契約。このころからモーツァルトのオペラを中心に抒情的な性格をもつリリック・ソプラノの役柄が中心的レパートリーとなった。
1945年(30歳)、ドイツが降伏。ウィーン国立歌劇場で歌うためオーストリアの市民権を得る。
1947年(32歳)、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コベント・ガーデン)にデビュー。同年、カラヤン指揮のブラームス『ドイツレクイエム』録音に参加。
1948年(33歳)、ミラノ・スカラ座にデビュー。
1949年(34歳)、ザルツブルク音楽祭に初出演。
1951年(36歳)、バイロイト音楽祭に初出演し、巨匠フルトヴェングラーの指揮でベートーヴェン『交響曲第9番』を歌う。この演奏は歴史的名演となり、ソプラノ歌手として貴重なキャリアとなった。同年、ベネツィアでストラビンスキーのオペラ『道楽者のなりゆき』の初演に参加。
1952年(37歳)、ミラノ・スカラ座で演じたカラヤン指揮リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』の元帥夫人(マルシャリン)役が大絶賛をあび、シュワルツコップの最大の当たり役となった。その後はリート(歌曲)歌手として活躍し、フーゴ・ヴォルフなどドイツ・リートに深い情感をたたえた名唱を披露。この分野でバリトン歌手フィッシャー=ディスカウと並ぶ名声を獲得した。
1953年(38歳)、イギリス国籍を取得し、EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグと結婚。かつてレッグはレコード録音のオーディションで、シュワルツコップにヴォルフの同じ歌曲を1時間以上も繰り返し歌わせ、その場にいたカラヤンがレッグに「あなたは余りにもサディスティックだ」と怒り立ち去ったという。
1954年(39歳)、フルトヴェングラーが68歳で波乱の生涯を閉じる。
1960年(45歳)、カラヤンと組んだ『ばらの騎士』が映画化され、日本でもシュワルツコップは広く親しまれた。
1964年(49歳)、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に『ばらの騎士』でデビュー。
1965年(50歳)、ジョージ・セル指揮ベルリン放送交響楽団とリヒャルト・シュトラウスの歌曲『4つの最後の歌』を録音。
※最後の「夕映えに」が実に素晴らしい!(頭出し済)
https://www.youtube.com/watch?v=qCK9srHcfok#t=14m34s
1968年(53歳)、初来日。以後、日本で3回公演。
1971年(56歳)、大晦日にブリュッセルのラ・モネ劇場で『ばらの騎士』を歌い、オペラから引退する(注・ウィキペディアは1976年オペラ引退になっている)。以後、ドイツ・リートのリサイタルに専念する。
1976年(61歳)、ケンブリッジ大学で音楽の博士号を取得。
1979年(64歳)、3月にチューリッヒで最後のリサイタルを行う。その2日前に夫レッグは心臓発作を起こし安静命令が出ていた。無理を押して妻のラストコンサートに出席し、3日後に他界する。その後、ニューヨークのジュリアード音楽院でマスタークラスを教えた。
1983年(68歳)、草津国際音楽祭にて日本で初めてマスタークラスを開催。
1992年(77歳)、女王エリザベス2世からDBEの称号(女性のナイト爵)を授与される。
2006年8月3日、オーストリア西部のフォアアールベルク州シュルンスの自宅で他界。享年90歳。引退後、かつてナチスに関与した過去を認め、歌手生活を続けるためだったと説明した。

叙情的な美声と知性的な歌唱により、マリア・カラスやテバルディと並ぶ20世紀の偉大なソプラノ歌手の一人と讃えられたシュワルツコップ。彼女はその美声だけでなく、歌詞の情感を深く読み込んだドイツ歌曲の解釈者として高く評価され、モーツァルト、シューベルト、シューマンからウォルフ、リヒャルト・シュトラウスに至る歌曲に特に優れた録音を残している。ドイツ語に誇りとこだわりを持ち、表現力に富みつつ情緒に流されない歌唱でこの分野の完成者となった。母国語がドイツ語でない歌手のドイツ・リートに懐疑的であり、自身も外国語の歌を積極的に歌うことはしなかった。最も美しい声を持つモーツァルトの最高の歌手の一人。
ドイツ・リートの名手シュワルツコップは、バリトンのフィッシャー=ディースカウを「神のような存在」と讃えている。両者は幅広いレパートリー、理知的で洗練された歌唱、発声技術の高さ、ドイツ声楽界の先導者として男女の双璧といわれる。

〔墓巡礼〕
シュワルツコップは他界8日後の2006年8月11日に、スイス最大の都市チューリヒから南東10kmに位置するツミコン(Zumikon)の福音教会の墓地に埋葬された。僕は2015年にチューリヒからレンタカーで向かった。直行すると約20分、近隣の地域には作家トーマス・マンや精神医学者ユング、指揮者カール・リヒターが眠っている。ツミコンの墓地はこぢんまりとしていて、シュヴァルツコップ家の墓所はすぐに見つかった。墓は石ではなく巨大な金属板が斜めに設置され、そこに両親のほか、27年前に先立った夫レッグの名が刻まれ、一番下にエリーザベトの名があった。上部には大きな一輪の薔薇のモニュメントがあり、彼女の代表作となった『ばらの騎士』の元帥夫人を思いだし、なんて粋なお墓なんだろうと見入った。

※シュヴァルツコップは”無人島へ持っていきたい一枚”にフリッツ・ライナーが指揮するウィンナ・ワルツを選んでいる。
※門下に白井光子がいる。
※伝統を守ることに厳しかった。「私たちがザルツブルク音楽祭で長年培った伝統をアーノンクールはすべて破壊した」。



★フィッシャー=ディースカウ/Dietrich Fischer-Dieskau 1925.5.28-2012.5.18 (ドイツ、ベルリン郊外 86歳)2015
Waldfriedhof Heerstrasse Charlottenburg, Charlottenburg-Wilmersdorf, Berlin, Germany

墓地の入口。中はけっこう広い
レパートリーはバロックから現代曲まで約3000曲。「8C」というエリアの52番目が彼の墓

20世紀が生んだ最大のリート(歌曲)歌手、ドイツのバリトン歌手フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日にベルリン近郊ツェーレンドルフで生まれた。フィッシャーは父方、ディースカウは母方の姓。父はベルリンの学校長、母は教師。幼少からピアノを習い、歌をよく歌った。
1934年(9歳)、父親は「ディースカウ」を姓に追加した。バッハの『農民カンタータ』は新領主カール・ハインリヒ・フォン・ディースカウの着任祝宴の楽曲で、母方の祖先という。
バッハ『農民カンタータ』https://www.youtube.com/watch?v=USLMODbcg8o
1939年(14歳)、第2次世界大戦勃発。ディースカウの病弱な兄弟はナチスの手で施設に送られ飢死した。
1941年(16歳)、ベルリン音楽院に入り、正式に声楽の勉強を始める。※「17歳でベルリン音楽高等学校に入学」という資料もある。
1943年(18歳)、1月に空襲の中でシューベルトを歌い始めるが、音楽院在籍中に兵役に召集される。
1944年(19歳)、ドイツ国防軍第65歩兵師団の擲弾兵連隊としてイタリア・ボローニャに送られる。
1945年(20歳)、ドイツ降伏。ディースカウはイタリア戦線で連合軍にとらえられ、イタリアにあるアメリカの捕虜収容所で2年を過ごし、ホームシックになったドイツ兵にシューベルトを歌った。
1947年(22歳)、2年間の捕虜生活の後、ドイツに帰国し南部フライブルク近郊(バーデンヴァイラー)でブラームス『ドイツ・レクイエム』を歌う。彼は病気の歌手の代役でリハーサルなしで歌いきり、これがプロ・デビューとなった。秋にライプツィヒで初めてリサイタルを行う。
1948年(23歳)、ベルリン国立歌劇場の第一リリックバリトン歌手となり、ヴェルディ『ドン・カルロ』のポーザ公爵ロドリーゴでオペラ歌手としてデビュー。続いて『タンホイザー』のタングステンを歌う。同年、シューベルト『冬の旅』を歌う。
1949年(24歳)、チェロ奏者のイルムガルト・ポッペンと結婚。3人の息子を授かる。同年、最初のレコーディングを行いヘルムート・クルストのピアノでブラームス『4つの最後の歌』を収録。以後、生涯にリリースしたレコードは400枚を超える。また、ウィーンとミュンヘンの歌劇場にも客演する。
1951年(26歳)、ザルツブルク音楽祭にマーラー『さすらう若者の歌』でデビュー。指揮は巨匠フルトヴェングラー。同年、エディンバラ音楽祭にもブラームスの歌曲でデビュー。この年からピアノ伴奏はジェラルド・ムーアがベスト・パートナーとなる。
※『さすらう若者の歌』 https://www.youtube.com/watch?v=3i-diwXFP2g (18分)
1952年(27歳)、アメリカで初めてツアーを行う。※最初の米国ツアーは1953年説、1954年説もある。
1954年(29歳)、バイロイト音楽祭にワーグナー『タンホイザー』のヴォルフラム役でデビュー。以後、1961年にかけて毎年出演する。
1955年(30歳)、米国へ演奏旅行(これが初めて?)。シンシナティで公演。ジェラルド・ムーアも同行し、『冬の旅』をNYで演奏した。
1956年(31歳)から1970年代初頭にかけてザルツブルク音楽祭の常連出演者となる。
1961年(36歳)、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェがディースカウの存在を前提にオペラ『若い恋人たちへのエレジー』を作曲。
1962年(37歳)、ベンジャミン・ブリテン『戦争レクイエム』の初演に参加。
1963年(38歳)、ベルリン・ドイツ・オペラと初来日。以後、10度に渡って来日を重ねる。同年、妻が3男出産後に合併症で他界。
1964年(39歳)、ニューヨークのカーネギー・ホールで初めての歌曲リサイタルを開く。
1965年(40歳)、20世紀最高のオペラとも言われるアルバン・ベルク『ヴォツェック』をベーム指揮で録音。同年、女優のルート・ロイヴェリクと再婚。
1966年(41歳)、シューベルトの歌曲全集をジェラルド・ムーアとレコーディング開始(6年を要する)。
1967年(42歳)、ルートと離婚。同年、相棒のピアノ伴奏者ジェラルド・ムーアが公演から引退し、レコーディングのみ行う。
1968年(43歳)、ベーム指揮のモーツァルト『フィガロの結婚』でアルマヴィーア伯爵を歌う。同年、米国のクリスティーナ・プーゲル・シューレと再々婚。
1969年(44歳)、最初のグラミー賞を受賞。以後、1971年、1976年、1983年、1988年と計5回同賞に輝いている。
1971年(46歳)、著書『シューベルトの歌曲をたどって』を執筆。
1972年(47歳)、シューベルトの最後の歌曲集『白鳥の歌』をレコーディング(この曲は3度目の録音)。シューベルトのすべての歌曲をレコーディングする大規模プロジェクトを完了し、ジェラルド・ムーアは完全に引退する。
1973年(48歳)、指揮者としても活動を開始。ブラームス『交響曲第4番』、ベートーヴェン『運命』、シューベルト『未完成』などを振ったが、腰に負担がかかるため数年でタクトを置いた。
1974年(48歳)、著書『ワーグナーとニーチェ』を執筆。
1975年(50歳)、クリスティーナと離婚。
1976年(51歳)、カーネギーホール創立85周年記念のコンサートで、ホロヴィッツ(当時73歳/1903-1989)のピアノ伴奏でシューマン『詩人の恋』を歌う。
※ホロヴィッツとのシューマン『詩人の恋』 https://www.youtube.com/watch?v=0p0f_g4PMwc (29分)
1977年(52歳)、ソプラノ歌手ユリア・ヴァラディと4度目の結婚、添い遂げる。
1978年(53歳)、ピアノの巨人リヒテル(当時63歳/1915-1997)とシューベルトの歌曲を収録。同年、アリベルト・ライマンがディースカウの存在を前提にオペラ『リア王』を作曲。
※リヒテルとのシューベルト歌曲集 https://www.youtube.com/watch?v=IpteIfoeDTs (31分)
1981年(56歳)、ベルリン芸術大学の教授に就任しリートのマスター・クラスを持つ(教授就任は1983年説あり)。同年、『シューマンの歌曲をたどって』を執筆。
1982年(57歳)、オペラの舞台から引退。最後に『リア王』を演じた。※オペラ引退は1978年とする資料あり。
1987年(62歳)、盟友ジェラルド・ムーアが87歳で他界。
1992年(67歳)、大晦日にミュンヘン・バイエルン国立歌劇場のガラ・コンサートでヴェルディ『ファルスタッフ』を歌い、45年続けてきたプロの声楽家を引退。以後は詩の朗読や本の執筆を行う。
2003年(78歳)、テニスンの詩にリヒャルト・シュトラウスが曲をつけた「イノック・アーデン」を朗読。運命のいたずらのような三角関係を描き出す。
2012年5月18日、シュタルンベルク湖に近いバイエルン州ベルクの別荘(自宅はベルリン)で他界。享年86歳。あと10日で誕生日だった。

シルクのように艶やかな美声と精密な発声法、滑らかなスラー、歌詩の深い解釈と凄まじい集中力、舞台映えのする長身により大きな存在感を放ったディースカウ。訃報記事で新聞は「百年に1人の声楽家」と讃えた。
シューベルト、シューマン、リスト、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどドイツ・リート(歌曲)の全集を様々な伴奏者と録音し、特にシューベルトとシューマンの歌曲に名録音を残した。ディースカウのレパートリーは約3000曲に達する。バロックから現代の作品まで歌い、ドイツ語だけでなく、フランス語、ロシア語、ヘブライ語 、ラテン語 、ハンガリー 語でも録音した。また、ブリテン、バーバーなど現代音楽の紹介に尽力し、「20世紀の最高の声楽家の一人」「20世紀の最も影響力のある歌手」と評された。ドイツ・リートの名手エリーザベト・シュワルツコップは、ディースカウを「神のような存在」と讃えている。両者は幅広いレパートリー、理知的で洗練された歌唱、発声技術の高さ、ドイツ声楽界の先導者として男女の双璧といわれる。

〔墓巡礼〕
ディースカウはベルリン西端、シャルロッテンブルグ宮殿の先のオリンピック・スタジアム手前にある「ヘーア通り森林墓地」(Waldfriedhof Heerstrasse)に眠っている。ディースカウが生まれたツェーレンドルフのすぐ近くだ。ドイツには都会でも緑が多く、森林墓地に眠る芸術家が多い。墓地の敷地は広いが入口に案内地図と著名人の墓所の一覧表があり、「8C」というエリアの52番目に彼の墓があるとわかり、10分ほどで墓前に立つことができた。手を合わせていると「冬の旅」や「詩人の恋」で聴いた、ビロードのように艶のある声が脳内で再生された。若い頃、失恋の度にシューベルト『白鳥の歌』の「影法師」をディースカウの声で聴いて、「ここにも孤独な同志がいる」と慰められたもの。旧友に再会した感覚になり、夕暮れの墓地でしばし時を過ごした。
※シューベルト『白鳥の歌〜影法師』 https://www.youtube.com/watch?v=j24i8-kx8-c



★ルチアーノ・パヴァロッティ/Luciano Pavarotti 1935.10.12-2007.9.6 (イタリア、モデナ 71歳)2015
Cimitero di Montale(Montale Rangone Cemetery), Montale, Provincia di Modena, Emilia-Romagna, Italy

左から3番目がパヴァロッティ家 下段にマエストロは眠っている 墓前に墓参者のメッセージ・ノート






ローマではなく故郷に永眠 なんとノートは譜面台に! 人懐っこい笑顔に癒される イケメン時代のもある

20世紀後半を代表するイタリアのテノール歌手(リリック・テノール)。「キング・オブ・ハイC(2オクターブ上の「ド」の王様)」「神に祝福された声」と讃えられ、輝かしい高音、大海のごとき声量が生む力強い声、ドラマティックな役柄から、伝説のテノール歌手カルーソーに匹敵するスーパースターとして最高の栄誉を得た。明晰な発音も特長。イタリア人らしい陽気な人柄も愛された。3大テノールの仲間プラシド・ドミンゴ(1941-)が6歳年下、ホセ・カレーラス(1946-)が11歳年下にあたる。
1935年10月12日、北イタリアのモデナに生まれる。父はパン焼き職人だが、声が良いため地元のコーラスでアマチュア・テノール歌手として活躍し、パヴァロッティも少年時代からコーラスで一緒に歌っていた。母はタバコ工場勤め。同郷で同い年の名ソプラノ、ミレッラ・フレーニとは同じ乳母に育てられた仲。フレーニとは後に『ラ・ボエーム』のロドルフォ役とミミ役で名コンビになる。少年時代の夢はサッカー選手だった。
1941年(6歳)、プラシド・ドミンゴがスペイン・マドリードで生まれる。ドミンゴ家は劇団一座を経営、子役として舞台に立つ。8歳のときに一家はメキシコに移住し、14歳からメキシコの音楽院でピアノ、歌唱、指揮を学ぶ。豊かに響く伸びのあるな声を天が与えた。
1946年(11歳)、ホセ・カレーラスがスペイン・バルセロナに生まれる。カレーラスはバルセロナ高等音楽院に進学、17歳から声楽レッスンを受け、濁りのない澄んだ声と、叙情的な歌唱法を磨いていく。
1947年(12歳)、伝染病で命を落としかける。同年、モデナで名テノール歌手ベニャミーノ・ジーリ(当時57歳/1890-1957)の歌声に感動し声楽家に憧れるようになる。ジーリはカルーソー亡き後の最も有名なイタリア人テノール。
1955年(20歳)、小学校の先生になるため進学していたモデナの師範学校を卒業し、2年間小学校の教壇に立つ。同年、父と参加していたモデナの男声合唱団が、ウェールズの国際合唱コンクールで1位に輝き、これを機に本格的に声楽家を志す。アマチュア声楽家の父から反対されたが、母親は父の声にはない美しさを見出し応援してくれた。
1960年(25歳)、ドミンゴが19歳で初めて大きな役に抜擢され、ヴェルディ『椿姫』のアルフレードを歌う。
1961年(26歳)、6年間の声楽勉強を経て、北イタリアのレッジョ・エミリアで開催された国際声楽コンクールで優勝。同地にて4月28日、のちに当たり役となるプッチーニ『ラ・ボエーム』のロドルフォ役でオペラ歌手としてデビューする。彼の才能を見抜いた敏腕エージェントと契約する。同年、生活の目処がついたことから、数年前から婚約していたアドゥア・ヴェローニと結婚、3人の娘を授かる。
1963年(28歳)、アムステルダムで最初の海外公演を体験した後、ウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で『ラ・ボエーム』ロドルフォを歌い、美声に加えて叙情あふれる卓越した演技にも人々は魅了された。オーストラリア出身のソプラノ歌手、“ネリー・メルバの再来”ジョーン・サザランドから高く評価されたお陰で海外公演の機会が増えた。 同年、バルセロナで『蝶々夫人』ピンカートンを歌う。
1964年(29歳)、オペラ・アリア集を録音し、デッカ・レコードからレコード・デビューを果たす。以降、同社の看板歌手となる。
1965年(30歳)、12月9日ミラノ・スカラ座にヴェルディ『リゴレット』のマントヴァ公爵役でデビュー。同年、ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』のエドガルド役でアメリカ・デビュー。ルチア役はジョーン・サザーランド。
※パヴァロッティのスカラ座デビューの状況をめぐって、ネットでは大混乱が起きている。英語版・伊語版のウィキは「1965年に『ラ・ボエーム』でデビュー」としているが、僕はスカラ座公式サイトから公演の日付や舞台監督名が記載されている『リゴレット』説をとります。訃報時の毎日新聞の記事もリゴレット。ただ、詳しくパヴァロッティの生涯を記した日本のブログ(https://keyaki.blog.so-net.ne.jp/2007-09-20 )に「1965年4月28日 ミラノ・スカラ座デビュー《ボエーム》」とあり、日付が入っているためこちらにも説得力を感じています。でも「4月28日ボエームでデビュー」は1961年のプロデビューと被るのでその情報が混じっている可能性も?手元の『オペラ名歌手201』(新書館)も1965年ボエーム説。
1967年(32歳)、スカラ座のトスカニーニ生誕100年記念コンサートにて、カラヤン指揮ヴェルディ『レクイエム』の独唱者に抜擢され大成功を収める。
1968年(33歳)、『ラ・ボエーム』ロドルフォ役(ミミはフレーニ)でニューヨークのメトロポリタン歌劇場のデビューを果たし、1971年から同歌劇場の専属歌手として活躍する。同年、ドミンゴ(27歳)もこの歌劇場にデビューしている。また、この年はカレーラス(22歳)がバルセロナで歌手デビューを果たしている。
1969年(34歳)、ドミンゴ(28歳)がミラノ・スカラ座にデビュー。
1970年(35歳)、それまで声質に合う流麗なベルカント・オペラを中心に歌ってきたが、レパートリーの幅を広げるべく、重厚な性格描写と劇的な歌唱を要求されるスピント系の役柄にも挑戦を開始。ヴェルディ『仮面舞踏会』のリッカルドを歌い、これを皮切りにヴェルディの中・後期作品などにも取り組んでいく。
1971年(36歳)、イタリア・オペラ団の一員として初来日し、『リゴレット』マントヴァ公爵を歌う。その際、観客の1人が感動のあまり舞台にあがって抱きついたという。同年、カレーラス(25歳)がヴェルディ国際声楽コンクール第1位を獲得。
1972年(37歳)、2月17日は生涯を変える一夜となった。この日、メトロポリタン歌劇場でドニゼッティ『連隊の娘』の難役トニオを演じ、高音が連続するアリアでハイC(ツェー/2オクターブ上のド)を9回連続で見事に歌いあげ、聴衆は熱狂し、パヴァロッティは世界的名声を不動のものとした。そして、アリア集のレコード題名から「キング・オブ・ハイC」と呼ばれるようになった。
1974年(38歳)、『ラ・ボエーム』ロドルフォ役でパリ・オペラ座デビュー。
1975年(40歳)、カレーラス(29歳)がメトロポリタン歌劇場にデビュー。
1977年(42歳)、テレビ番組『ライブ・フロム・メト』に初出演してロドルフォを歌い、オペラ中継の視聴者数記録を塗り替えた。同年、単身で来日してリサイタルを開催。
1981年(46歳)、メトロポリタン歌劇場で『アイーダ』のラダメスを歌い、初めてドラマティックな役柄に挑む。
1985年(50歳)、ドミンゴ(44歳)がラテン・ソングのアルバム『オールウェーズ・イン・マイ・ハート』(1983)でグラミー賞に輝く。同年、カレーラス(39歳)もオペラ以外に挑戦を開始、ソプラノ歌手キリ・テ・カナワとミュージカル『ウェスト・サイド物語』を録音する。
1987年(52歳)、カレーラス(41歳)が映画版『ラ・ボエーム』撮影中に白血病で倒れ、アメリカで骨髄移植手術を受ける。医師から快復の可能性はわずか10%と宣告を受けた。
1988年(53歳)、カレーラス(42歳)が奇跡的に回復し、バルセロナやウィーンでリサイタルを開き話題となる。後日「ホセ・カレーラス国際白血病財団」を設立、白血病治療や研究のための募金活動に尽力していく。
1989年(54歳)、メトロポリタン・オペラ、サンフランシスコ・オペラと並ぶ、アメリカ3大オペラ・ハウスの一つリリック・オペラ・オブ・シカゴから、パヴァロッティは「終身出入り禁止」を言い渡される。完璧さを求めるあまりに公演キャンセルを繰り返し、リリック・オペラ・オブ・シカゴでは8年間41回の公演のうち26回がキャンセルとなったことから支配人が激怒した。同年、東京ドームと大阪城ホールで公演。
1990年(55歳)、カレーラスの復帰を祝い、サッカー・ワールドカップ・イタリア大会の決勝戦前夜、パヴァロッティはローマのカラカラ浴場跡で、ドミンゴ(49歳)、カレーラス(44歳)と3大テノール・コンサートを開催する。各々が高い人気を誇る3人のテノール歌手が初競演したことで世界的に話題となり、空前の成功を収めた。以降、世界各地で催されるようになる。
1991年(56歳)、オペラファン拡大のためロンドンのハイド・パークでコンサートを開催、チャールズ皇太子やダイアナ妃など15万人もの聴衆が集まった。以後、野外コンサートを積極的に行うようになる。同年、オペラ作品の中でも特に重厚な歌唱を要求されるヴェルディ『オテロ』(演奏会形式)を歌い、レパートリーを開拓する。声楽家は年齢と共に声質が重く変化していくため、スピント系の役を増やしていった。
1992年(57歳)、故郷モデナにて他ジャンルのアーティストとのチャリティー・コンサート「パヴァロッティ&フレンズ」を開催、スティングやスザンヌ・ヴェガらが参加する。同年、スカラ座で準備不足から『ドン・カルロ』の高音を外してしまい大ブーイングを受けてしまう。この年、ドミンゴ(51歳)がドイツ・バイロイト音楽祭に登場し、ワーグナー『パルジファル』のタイトル・ロール(主人公役)を歌う。
1993年(58歳)、6月にニューヨークのセントラル・パークでコンサートを行い50万人を集め、9月にはパリのエッフェル塔の下でコンサートを開催し30万人を集めた。
1994年(59歳)、ワールドカップ・アメリカ大会にあわせて三大テノールのコンサートをロサンゼルス(ドジャーズ・スタジアム)で行う。同年、ブライアン・アダムスと「パヴァロッティ&フレンズ」で共演。
1995年(60歳)、内戦のボスニア紛争(1992-1995)で苦しむボスニアの子供たちのために「パヴァロッティ&フレンズ」を開催、ボノ(U2)、ドロレス(クランベリーズ)、マイケル・ボルトンらが参加。
1996年(61歳)、6月から東京を皮切りに『3大テノール・ワールド・ツアー』を実施。国立競技場で6万人が美声に酔いしれた。ただしS席は7万5千円!この年、36年間結婚生活を送ったアドゥア夫人と離婚し、秘書のニコレッタ・マントヴァーニ(27歳)と交際。戦災児のための「パヴァロッティ&フレンズ」をエリック・クラプトンと開催。
1997年(62歳)、ボスニア・ヘルツェゴビナに子どものための音楽センター「パヴァロッティ・センター」を設立。
1998年(63歳)、ワールドカップ・フランス大会にあわせて三大テノールのコンサートをパリで開催。同年、アフリカ西部リベリアの子供たちのために「パヴァロッティ&フレンズ」をボン・ジョヴィと開催。
1999年(64歳)、1月に東京ドームで三大テノールのコンサート。同年、グアテマラとコソボの子供たちのため「パヴァロッティ&フレンズ」をマライア・キャリーと開催。
2000年(65歳)、カンボジアとチベットの子供たちのため「パヴァロッティ&フレンズ」をフリオ・イグレシアスと開催。
2002年(67歳)、ワールドカップ・日韓大会にあわせて最後の三大テノールのコンサートを6月に横浜アリーナで行う。
2003年(68歳)、秘書のニコレッタ・マントヴァーニと結婚(いわゆる、できちゃった婚)。娘アリーチェをもうける。ニコレッタは後にフィレンツェ市副市長になっている。
2004年(69歳)、3月にメトロポリタン歌劇場で『トスカ』のカバラドッシを演じたのを最後にオペラ公演から引退。同年、世界中を巡る引退コンサート・ツアーを東京から開始。
2005年(70歳)、声楽アカデミーを故郷モデナに開き、自身が直接指導を行った。12月に引退コンサートが台北で終了。
2006年(71歳)2月、トリノ冬季オリンピックの開会式でプッチーニ『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌いあげ、これが最後のステージとなった(ただし2月の寒空の下であり五輪委の提案で“録音になった”と指揮者が証言)。同年6月、すい臓癌で倒れる。7月、癌の摘出手術に成功。
2007年9月6日、故郷モデナの自宅で容体が急変し、腎不全で他界。享年71歳。妻と4歳の娘が看取った。葬儀はモデナの大聖堂で行われ、プローディ首相、アナン前国連事務総長、ボノ(U2)、アンドレア・ボチェッリ、フランコ・ゼフィレッリ監督など多数の著名人が参列した。葬儀はテレビで生中継され、2台の大型スクリーンが設置された。遺体はタキシード姿で棺に納められ、周囲は故人が好んだヒマワリで覆われ、ヴェルディ『オテロ』の「アヴェ・マリア」が流された。没後3日間で約10万人もの市民が弔問し、出棺時に「ブラボー!」の声で見送った。モデナ郊外の両親が眠るモンターレ・ランゴーネ墓地に埋葬された。パヴァロッティの遺産は2億5千万ポンド(約350億円)で、遺書は先妻の娘達によく配慮されたものという。
ドミンゴの追悼コメント「彼の声とユーモアのセンスは愛すべきものだった」。親交のあった指揮者ズービン・メータ「彼の声と顔は永く記憶されるだろう。一緒に仕事ができたことをうれしく思う」。小澤征爾「彼とは何十年来の友人です。スカラ座での私のデビューは「トスカ」でしたが、パヴァロッティさんの強い勧めがあり実現したのです。彼の声はレストランなどで流れていてもすぐに分かる、とても特徴のあるテノールでした。その声がもう聴けなくなるのは大変残念です」。

明るく華やかな声質で、最高音域でも声の輝きが失われなかったパヴァロッティ。大きな体格に反して声質は細く甘美であり、他人にはない渋みをたたえた美声で当代最高のテノールとして名声を確立した。
声楽家の声質は大きく4つに分かれ、レッジェーロ(軽い・優美)、リリコ(叙情的)、スピント(情熱的・強い声)、ドラマティコ(超重い)になる。元来、パヴァロッティの声質はリリコ・レッジェーロ(叙情的で軽快な表現にあう声質)であり、当初は高音が非常に映えるドニゼッティ、ベッリーニなどのベルカント(滑らかに美しく歌う歌い方)・オペラを十八番にして名声を確立したが、1970年代から劇的なスピント系の役に進出していく。アクセントを強調することで声に不足していたドラマ性を補い、『仮面舞踏会』のリッカルドや、『トロヴァトーレ』のマンリーコ、『アイーダ』のラダメス、『オテロ』のオテロ、『ドン・カルロ』のドン・カルロに挑戦、ヴェルディ作品の役柄を13に増やした。体型の恰幅の良さを最大限に活かし、『リゴレット』マントヴァ公爵や『仮面舞踏会』リッカルドのような権力者の存在感、『愛の妙薬』の純朴な農夫ネモリーノのコミカルさに反映させた。レパートリーには唯一のドイツオペラとして『ばらの騎士』の“テノール歌手”役がある。最も優れたベルカント唱法のオペラ歌手の一人。

※2019年時点でドミンゴは78歳、カレーラスは73歳。
※モデナ郊外の私邸がパヴァロッティ博物館として公開されている(https://raniyjp.exblog.jp/27670615/ )。近くには元夫人が経営するレストラン「EUROPA 92」がある。( http://www.ristoranteuropa92.com/
※グラミー賞に5回輝く。パヴァロッティはローリング・ストーンズやボブ・ディランと並び、生涯に1億枚のレコードを売り上げた数少ないアーティストの1人。演奏会のCDやビデオの売上げはプレスリーを超えている。
※コンサートでは左手に縁起のいい白いハンカチを持っていた。
※パヴァロッティは弟子からレッスン代をまったく受け取らなかったという。
※故郷モデナはフェラーリの本拠地であり、パヴァロッティも購入している。創業者エンツォ・フェラーリら一家の墓所はモデナ中心部から北西1kmの「Cimitero di San Cataldo」。
※故ダイアナ妃と親しく、世界の地雷除去のための寄付もした。
※メトロポリタン歌劇場の出演料は最高で1万5000ドルと決まっているため、スター歌手はコンサートで稼ぐとのこと。3大テノールのギャラは一晩に約1.5〜2億だとか。
※ポスト・三大テノールの候補は、“オテロ”も歌える一番人気のアルゼンチン出身ホセ・クーラ(1962-)、演技力も優れるフランスのロベルト・アラーニャ(1963-)、ペルーの“超高音”ファン・ディエゴ・フローレス(1973-)、ドイツの“いぶし銀”ヨナス・カウフマン(1969-)、トップクラスの1人アルゼンチンのマルセロ・アルバレス(1962-)など。

〔墓巡礼〕
パヴァロッティの墓巡礼は手探りの旅だった。2007年に他界した後、どの墓地に埋葬されたか一向に情報が出ず、2015年の段階で「モンターレにある墓地」までしか分からなかった。地図で調べると、北イタリアの都市モデナの南10kmに同名の町がある。ところが航空写真で墓地を探しても、それらしい場所が見つからない。可能性があるのは教会の近く。「町で一番大きなサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会なら情報が得られるかもしれない」、たったそれだけの心細い情報を頼りに、ボローニャからレンタカーで向かった。途中で事故渋滞につかまったり、スコールのような雷雨にあって足止めされ、教会に着いたのは16時40分、閉門ギリギリになった。パヴァロッティの墓の手掛かりを得るため中に入ると、広い礼拝堂に1人だけ中年の女性がいた。さっそく尋ねると「この教会には墓がないと思うわ。100mくらい北にある墓地じゃないかしら。17時で閉まるから急いだ方がいい」「ハ、ハイ!」。大急ぎで近所の墓地に向かった。ところが、教えられた場所はだだっ広い野原に古代人の住居のようなものがあるだけ。看板を翻訳すると「考古学公園と野外博物館」とあった。3500年前の集落跡らしく、まったく墓地と関係がない。
時計は16時50分。立ちすくんでいると、案内看板に空白地帯があることに気づいた。「もしやここが墓地のエリア?」。レンガの塀に囲まれた場所に行ってみると、奥の方に霊廟が見えた。門の看板は「Cimitero  Comunale di Montale Rangone(モンターレ・ランゴーネ市営墓地)」。「うおっ!この中は墓地じゃないか!」。ネット上に1枚だけあった彼の墓写真を手掛かりに、画像の風景と近い場所を探し、付近の墓を一つずつ調べた。そして発見した、マエストロの墓を!「FAMIGLIA PAVAROTTI(パヴァロッティ家)」と刻まれた一画があり、壁面の一番下に笑顔の彼の写真が!墓前には譜面台があり、その上に墓参者用の記帳ノートがあった。そこにはいろんな国籍の人がパヴァロッティに「あなたは永遠にマエストロだ!」「感動をありがとう!」など感謝の言葉を綴っていた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、いろんな国の人がパヴァロッティに言葉を綴っていた。写真を見つめながら記帳していると、彼がそこに立っているような感覚になった。世界のファンと感謝の思いを共有できる喜びに包まれ、忘れ難い墓参となった。

〔参考サイト〕
https://gakuyuu.exblog.jp/6124018/ 葬儀の様子が詳しくレポートされています。
https://keyaki.blog.so-net.ne.jp/2007-09-20 年表が充実



★ペーター・ホフマン/Peter Hofmann 1944.8.22-2010.11.29(ドイツ、ヴンジーデル 66歳)2015
Friedhof Wunsiedel, Wunsiedel, Wunsiedel im Fichtelgebirge Landkreis, Bavaria (Bayern), Germany





ロックスターでもあった 墓石の上に写真入りの植木鉢 本職はオペラ歌手







ドイツ中部の教会 墓標とベンチのセット ト音記号が音楽家を象徴

ベンチ前にペーターの足跡。彼がいるようだ キングサイズの足

ワーグナー・オペラに欠かせぬヘルデン・テノール(独語ヘルデンは英雄の意。ワーグナーの英雄向きのテノール)のスーパースター、ドイツのテノール歌手ペーター・ホフマンは1944年8月22日にチェコ(当時ナチス・ドイツの保護領)のマリエンバートで生まれた。一家はチェコ人の反ドイツ感情の高まりを危惧し、ドイツ・フランクフルト南方のダルムシュタットに転居する。
1945年(1歳)、ドイツが敗戦。ペーターは廃墟の中で遊びを見つけながら育っていった。
1951年(7歳)、バイロイト音楽祭が再開され、戦後最大のヘルデン・テノール、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(当時37歳/1914-1974)がワーグナー『パルジファル』を歌う。
ペーターが12歳のときに両親が離婚、母は再婚した。高校時代はスポーツとロックに夢中になった。陸上競技では棒高跳びのヘッセン州青少年チャンピオンになり、十種競技でもヘッセン州青少年チャンピオンになった。
ラジオで聴いたアメリカのロックに心酔し、毎朝学校へ行く前に新聞配達をやってお金を貯め自分のギターを買った。独学でギターを身に付け、スクール・バンドを結成してヴォーカルとギターを担当した。人気が出てアメリカ軍のクラブでも演奏した。
「ロックとは、革命的な感覚、まさに単なる音楽以上のもの。社会的な束縛に対する若者の反抗を告げるものだ。エルビス、ローリング・ストーンズ、ビートルズ…それは単なる音楽ではなく、新しい人生哲学だった」。

1963年(19歳)、徴兵されて落下傘部隊を志望する。軍隊のしごきは陸上選手にとって自主トレみたいなもので、まったく苦にならなかったという。女友達アンネカトリンと結婚。妻の両親は二人ともオペラ歌手で、ペーターは次第にオペラを聴くようになった。
1964年(20歳)、長男ペーターが生まれ、翌年にヨハンネスが生まれる。家族を養うため、給料がもらえる軍隊に残る。軍隊のシャワールームはとても“音響効果”が良かったため、いつも長時間そこで歌っていた。やがてオペラ中毒になり、軍務の合間を縫って近隣の都市へ公演を観に行くように。ペーターの美声を聴いた妻の父(バス歌手)から、声楽の専門教育を受けるよう説得され、部隊に近い街の声楽教師の門下となる。その教師はペーターの『さまよえるオランダ人』(ワーグナー)を聴いて、お金がない彼のために無料で教えてくれることになった。
1967年(23歳)、ワーグナーの聖地のバイロイト音楽祭で、彼の声楽教師の門下だったアメリカ人テノール歌手ジェス・トーマス(40歳/1927-1993)と親交を持つ。ジェスはワーグナー歌手として知られ、この時はローエングリンを歌っていた。ペーターの声を聞いたジェスは「声域を広げてテノール歌手を目指すべき」とアドバイスし、自分の声がバリトン向きと思っていたペーターは大いに発奮した。バイロイト音楽祭でローエングリンを歌うことが彼の夢になった。
7年間の軍隊生活を終えた後、カールスルーエの国立音楽学校で声楽を学んだ。ウィーンで参加した声楽コンクールはエリーザベト・シュワルツコップが審査員にいた。
1972年(28歳)、ドイツのリューベック市立歌劇場でモーツァルト『魔笛』のタミーノ役でデビュー。ワーグナー歌手を目指すが、モーツァルトも歌えることを示すため『魔笛』を選んだ。オーディション当日、年季の入った車が故障しヒッチハイクで約600kmも北のリューベックに向かったという。収入が少ない新人歌手のペーターを、ジェス・トーマスが経済的に援助してくれた。
1973年(29歳)、バイロイト音楽祭のオーディションを受け、パルジファルとローエングリンを歌う。結果は2年後に出る。
1974年(30歳)、デュッセルドルフ近郊のヴッパータールで、初めてワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の主役ジークムント(ジークフリートの父)を歌う。5年前からこの役に備えて勉強をしており、実力を発揮できた。批評家は絶賛し、客演依頼が大量に届き、シュトットガルト歌劇場から5年契約を提示された。この頃、イタリアで大テノール、マリオ・デル・モナコ(1915-1982)の邸宅を訪問している。
1975年(31歳)、ドルトムントでワーグナー『ラインの黄金』のローゲを初めて歌う。大成功を収め、音楽誌は雄大な声と輝かしい技量をセンセーショナルに伝えた。シュツットガルトでも『ワルキューレ』に出演し、ジークリンデ役がビルギット・ニルソン(当時57歳/1918-2005)だったことにペーターは大興奮したという。
1976年(32歳)、バイロイト音楽祭100年にあたる記念すべき年に、ペーターは同音楽祭にデビューし、『ワルキューレ』ジークムントと『バルジファル』タイトルロール(標題役)を歌って喝采を浴びる。バイロイトの歴史で最年少(32歳)のパルジファル役だった。以後、様々なワーグナー作品の英雄を歌って高く評価された。ちなみに、ペーターがジークムントを歌ったこの年、ジェス・トーマスはジークフリートを歌っている。第100回バイロイトは新演出が論争を呼んだ。音楽監督ピエール・ブーレーズ、演出パトリス・シェローの前衛的な舞台であったが歌手の名唱が保守派への衝撃を和らげた。
1977年(33歳)、パリ・オペラ座にジークムントでデビュー。同年6月、バイクで走行中に一方通行を逆走してきた警察車両と衝突し重傷を負う。この大事故で9カ月舞台から離れた。
1978年(34歳)、リハビリを経て2月に『魔弾の射手』でオペラに復帰。同年、バイロイトで2度目の『バルジファル』を歌う。また、最初のレコード録音(モーツァルト『魔笛』)を行う。
1979年(35歳)、バイロイトで『ローエングリン』を歌う。
1980年(36歳)、小澤征爾指揮の演奏会形式『ワルキューレ』でアメリカにデビュー。同年、『ローエングリン』でNYのメトロポリタン歌劇場にデビュー。ゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ響とベートーヴェン『フィデリオ』をレコード録音。
1981年(37歳)、カラヤン指揮ベルリン・フィルの『パルジファル』がグラミー賞に輝き、ペーターはこれを誇りに感じ非常に喜ぶ。同年、レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送響と『トリスタンとイゾルデ』をレコード収録。最年少のトリスタン役となった。もともとトリスタンは「殺人的に難しい役」であったが、バーンスタインの指揮は極端に遅いテンポゆえ、ペーターは長い弱音のフレーズの息継ぎに苦労し、目玉が飛び出しそうになったという。
1982年(38歳)、バイロイトで2度目の『ローエングリン』を歌う。一方、少年時代から大好きだったロックの音楽活動を再開。この年のアルバム『ロック・クラシック』はミリオン・セラーになった。曲目は「イエスタディ」「明日に架ける橋」「セイリング」「朝日のあたる家」「スカボロー・フェア」など10曲。
※『朝日のあたる家』ペーターの雄叫びあり https://www.youtube.com/watch?v=SXUzJgCYZws (3分49秒)
1983年(39歳)、ワーグナー没後百年を記念して『ローエングリン』がテレビ放映され多くの人に視聴される。
1984年(40歳)、「レット・イット・ビー」や「アンチェインド・メロディ」をカバーした『ペーター・ホフマン2』をリリース。
1986年(42歳)、バイロイトで『トリスタンとイゾルデ』のトリスタンを歌う。
1987年(43歳)、アルバム『ロック・クラシック2』をリリース。
※『煙が目に染みる』 https://www.youtube.com/watch?v=r-wrV6sMD7c (3分34秒)

※『すべては風の中に』 https://www.youtube.com/watch?v=1ujDed7TQT4 (3分30秒)
1988年(44歳)、バイロイトで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のウォルターを歌う。
ペーターは、7歳年上のルネ・コロ(1937-)、4歳年上のジークフリート・イェルザレム(1940-)と共に、20世紀後半を代表するヘルデン・テノールとして活躍したが、1980年代の終わり頃から歌唱が不安定なものとなり、評論家は「ロックを歌って発声を崩した」と批判したが、パーキンソン病の兆候が出始めていた。
1989年(45歳)、オペラの舞台から引退し、ポピュラー音楽を追求する。同年カラヤンが81歳で他界。
1990年(46歳)から翌年にかけてハンブルクでミュージカル『オペラ座の怪人』のファントムを300回演じた。同年バーンスタインが72歳で他界。
1992年(48歳)、プレスリーのカバー・アルバム『SINGT ELVIS』をリリース。
※『ラブ・ミー・テンダー』 https://www.youtube.com/watch?v=UOYaE0Y_vDo (3分10秒)
1993年(49歳)、ジェス・トーマスが66歳で他界。
1994年(50歳)、カントリーの名曲をカバーしたアルバム『カントリー・ロード』発売。同年、パーキンソン病と診断される。
1999年(55歳)、健康上の理由で引退する。
2010年11月30日、10年以上の闘病生活を経て、ドイツ南東部のゼルプにて肺炎で他界した。享年66歳。ゼルブはチェコと国境で接しており、国境を越えるとすぐ(約50km)にペーターの生誕地マリエンバードがある。車を使えば45分。ペーターがゼルブで旅立ったのは、自身がこの世に現れた土地への特別な思いがあったのかもしれない。ペーター・ホフマン「声楽家は声の響きと音色で感情をより深く伝えられる分、俳優をしのぐ可能性を持っている」。

〔墓巡礼〕
陸上競技で鍛えたスマートな体型で長身・金髪の巻き毛、神話の若き英雄そのものだったペーター・ホフマン。彼の墓はバイロイトに近いドイツ東南部ウンジーデル(バイエルン州)の「ウンジーデル墓地」にある。ウンジーデルなんて聞いたこともない街、どうしてここに墓を作ったのか疑問に思いながらレンタカーで墓地へ。そして地図を見ていて気づいた。生まれ故郷のチェコ・マリエンバードとバイロイトのちょうど中間あたりにウンジーデルがあった!どちらも車で45分ほどの距離。マリエンバードで生まれ、ワーグナー歌手としてバイロイトで成功を掴み、音楽史に名を刻んだペーター。その意味で両者の中間にあるこの土地は、墓を作る場所として相応しい。墓所には彼のポートレートと1人用の椅子があり、その手前には実物大であろうペーターの大きな足跡が2つあった。それゆえ椅子にペーターが座っているようだった。彼が健康なら年輪を重ねたヘンデルテノールを聴け、ロックやポップスの優れたカバーをさらに聴けたので、残念でならない。

〔参考資料〕『20世紀西洋人名事典』(日外アソシエーツ)、『オペラ名歌手201』(新書館)、『英語版ウィキペディア』。
https://euridiceneeds.blog.so-net.ne.jp/2018-11-25  これほど詳しいペーター・ホフマンの伝記の解説はネット上に存在しないと思う。このサイトがなければ半分も書けませんでした。超大感謝、労作に脱帽。



★瓜生 繁子/Shigeko Uryu 1862年(文久2年)4月18日-1928年11月3日 (東京都、港区、青山霊園 66歳)2012

左から瓜生外吉、繁子、長男・武雄 十字架と従五位

日本における西洋音楽の歴史は、幕末に生まれ日本初のピアニストとして音楽教育に尽力した瓜生繁子(うりゅう・しげこ)から始まる。彼女は1862年(文久2年)4月18日に江戸本郷(現・文京区)に生まれた。ドビュッシーと同い年であり、欧州ではロッシーニ、ベルリオーズ、リスト、ワーグナー、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス2世、ブラームスがまだ存命だった。数年後にR・シュトラウス、シベリウス、サティが生まれている。父は佐渡奉行属役・益田孝義であり、兄は実業家で三井物産の創立者益田孝(ますだ・たかし)。姉たちがみな幼くして亡くなっており、益田家で女子は育ちにくいと判断した親によって、5歳のときに幕府軍医・永井玄栄の養女“永井繁子”となる。
1868年(6歳)、維新による徳川第16代・徳川家達(いえさと)の駿河国移封に伴い、一家で沼津に移る。

1871年11月、繁子はわずか9歳にして新政府の第一回海外女子留学生の5人に選ばれる。正確に言うと国費留学にもかかわらず応募者は5名だけだった。アメリカは南北戦争(1861-1865)が終わってまだ6年、当時の常識ではそれほど女子留学は非現実的で、初回募集は応募者0人、再募集でようやく5人が集まった(アメリカ大使館に勤めていた兄が勝手に応募)。他の女子は、父が幕府の通訳だった津田梅子(1864-1929※12月生まれなので渡米時は6歳!)、会津藩士の娘・山川捨松(1860-1919※11歳)、そして15歳の少女2名。彼女らは、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら岩倉使節団の船に乗船し、1カ月の航海でサンフランシスコに上陸した。5人のうち年長者2名はホームシックにかかってすぐに帰国したが、繁子、梅子、捨松の3名は米国に残り10年を過ごす。
1872年(10歳)、コネティカット州でホームステイしながら初等・中等教育を受ける。他の2人もそれぞれのホームステイ先で同様に教育を受け、全員がキリスト教に入信した。
1876年(14歳)、この頃、後に夫となる19歳の海軍武官・瓜生外吉(そときち/1857-1937※石川県出身)と出会う。外吉は前年に渡米し、メリーランド州のアナポリス海軍兵学校に入学すべく英語を勉強中だった。同年9月11日に外吉は繁子のサイン帳に「真に貴女の友人たる瓜生外吉」と英語で記している。
1878年(16歳)、繁子はニューヨーク州の名門女子大ヴァッサー・カレッジの音楽学校に入学(3年制音楽科)、捨松は同校の通常科に進み、卒業後に看護学を学ぶ(捨松はアメリカの大学を卒業した初の日本人女性となる。成績は学年3番)。
1879年6月14日、17歳の繁子はヴァッサー・カレッジの学内コンサート「音楽の夕べ」にて、音楽科に入って初めて演奏を行う。出演順は4番目、曲目はシューベルトの『4つの即興曲(作品90)第4番』。講評では「ミス・ナガイは非常な繊細さと表現力でシューベルトを演奏し、音楽的に正しい理解を示した。我々はまた彼女の演奏を聴けることを願っている」と称えられた。
※シューベルト『4つの即興曲(作品90)第4番』演奏ブレンデル、楽譜付き
https://www.youtube.com/watch?v=V0z7mUV5rSc (7分)

1881年(19歳)、6月20日に学内コンサート「音楽の夕べ」が催され、繁子にとって留学生活最後となるこのコンサートでショパンの『華麗なるワルツ変イ長調作品34-1』を演奏。音楽学校時代、繁子は人前で計7回演奏した。同月22日の卒業式には捨松、梅子、外吉らが参列してくれた。外吉もこの年に兵学校を卒業し、以後海軍有数のアメリカ通として知られる。外吉は繁子の卒業証書を持って一足先に帰国し、益田孝のもとを訪れて妹との結婚を申し込んだ。繁子は10月30日に帰国。
1882年(20歳)、3月ピアノ教師として文部省音楽取調掛(のち東京音楽学校、現東京芸術大学)に採用され、またお雇い外国人アメリカ人メーソンの助手を担当する。求められれば鹿鳴館の舞踏会でもピアノを弾いた。
11月に梅子と捨松が帰国、繁子は横浜港で出迎えた。12月1日に繁子は瓜生外吉と結婚。結婚パーティで捨松は「ベニスの商人」を演じ、その美しさに薩摩の陸軍中将大山巌が惚れ込み結婚を申し込んだ。会津生まれの捨松にとって、大山は戊辰戦争では鶴ヶ城(会津城)を砲撃した仇敵。周囲から猛反対されたが、ジュネーブに留学経験のある大山は、英語、仏語、独語に通じ、ユーモアもあったことから捨松は気持ちを受け入れていく。
同年、音楽取調掛伝習生として12歳の幸田延(のぶ)が入学、繁子がピアノを教える。

1883年(21歳)、長女が生まれ、繁子は生涯に7人の子をもうける。同年、捨松と大山巌が結婚。捨松は「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれるようになる(「鹿鳴館の華」は陸奥亮子)。また、梅子は伊藤博文妻子の家庭教師となる。
1885年(23歳)、音楽取調掛で第1回の卒業式。幸田延が卒業。
1886年(24歳)、音楽取調掛と並行して東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)で音楽と英語の教壇に立つ。繁子はただ一人の女性教授だった。
1887年(25歳)10月、取調掛が改組され、日本唯一の音楽の専門教育機関「東京音楽学校」が設立される。
1889年(27歳)、6月上野華族会館にて『音楽同好会』のコンサートに出演、ウェーバーのピアノ独奏曲『舞踏への勧誘』を演奏する。7月東京音楽学校で初の卒業式で再び同曲を披露。
繁子らの渡米から18年後のこの年、幸田延が19歳で日本初の文部省“音楽留学生”となり出国。アメリカ・ボストンのニューイングランド音楽院に1年、オーストリアのウィーン音楽院に5年、計6年留学し、作曲法、ヴァイオリン、ピアノを学ぶ。
1892年(30歳)、有能な音楽教育者が育ってきており、後進に道を譲るため東京音楽学校のピアノ教授を辞職する(翌年、公式に免官)。外吉が4年間欧州に赴任。
1893年(31歳)、国家財政の経費削減のため東京音楽学校が縮小される。
1894年(32歳)、日清戦争が勃発、翌年に終戦。
1900年(38歳)、繁子と捨松の支援を受け、津田梅子が日本で最初の女子高等教育機関、女子英学塾(現・津田塾大学)を創立。
1902年(40歳)、東京女子高等師範学校の英語教授を辞職。20年に及ぶ教師生活を終え、家庭に入る。
1903年(41歳)、瀧廉太郎が23歳で早逝。
1904年(42歳)、外吉が日露戦争に第2艦隊司令官として出征、開戦時の仁川沖海戦にて巡洋艦からなる瓜生艦隊(第4戦隊)を率い勝利を収める。
1907年(45歳)、梅子の女子英学塾の社員になる。同年、外吉が男爵を授けられる。
1908年(46歳)、長男で海軍少尉の武雄が乗った軍艦が弾薬庫の爆発事故で沈没、23歳で殉職。
1909年(47歳)、外吉の米国出張に同行し28年ぶりに渡米、懐かしの母校ヴァッサー・カレッジの卒業式で祝辞を述べる。
1912年(50歳)、外吉が55歳で最終階級となる海軍大将に昇級。翌年、予備役に編入される。
1914年(52歳)、外吉がパナマ運河開通記念サンフランシスコ博覧会に日本代表として派遣され、繁子も同行。同年、第一次世界大戦が勃発、4年後に終戦。
1919年(57歳)、大山捨松がスペイン風邪により58歳で他界。かつての留学生3人が揃ったときは楽しげに英語でおしゃべりしたといい、繁子と梅子は寂しかっただろう。捨松が急逝する直前、作家の徳冨蘆花は小説『不如帰』で捨松を鬼母のように描いて世間に誤解を与えたことを直接詫びた。
1922年(60歳)、外吉が貴族院男爵議員になり3年間務める。同年、外吉は日米親善を願ってアナポリス海軍兵学校の同期会を東京で主催。
1923年(61歳)、関東大震災。
1927年(65歳)、外吉が退役。悪化する日米関係に夫婦で胸を痛める。
1928年11月3日、繁子は癌のため66歳で永眠。
翌1929年、津田梅子が他界。享年64歳。
1937年11月11日、外吉が80歳で他界。

〔墓巡礼〕
大久保利通や伊藤博文を直接知っているだけでも凄いのに、1870年代からアメリカに10年暮らし、日本人として初めて西洋で正規の音楽教育を受けた瓜生繁子。アメリカでも日本でも人前でピアノを演奏している記録があり、しかも曲目がシューベルトの『4つの即興曲』、ウェーバーの『舞踏への勧誘』などハッキリと分かっている。日本人の最初のピアニストが誰かは諸説あるけれど、僕は瓜生繁子を推したい。
墓所は東京都港区の青山霊園、1種イ22号5側。墓域はバラに囲まれており、5月に墓参するとバラ園のようだった。墓の形は和墓だが、キリスト教徒ゆえ名前の上に十字架が彫ってある。墓は3基並んでおり、左から瓜生外吉、繁子、軍で殉職した長男・武雄が並ぶ。
〔参考資料〕『瓜生繁子: もう一人の女子留学生』(生田澄江/22世紀アート)



★斎藤 秀雄/Hideo Saito 1902.5.23-1974.9.18 (東京都、府中市、多磨霊園 72歳)2015

 

「優れた音楽家を育てるには子ども時代からの教育が欠かせない」小澤征爾、秋山和慶、岩城宏之、山本直純、堤剛、バイオリンの前橋汀子(ていこ)、岩崎洸、藤原真理など多くの音楽家を育成した。を育てるなど、戦後を代表する音楽教育者で、指揮者、チェロ奏者の斎藤秀雄は、1902年5月23日に東京で生まれた。父は英語学者。
1915年(13歳)、中学でマンドリン演奏団に所属。
1918年、16歳でチェロをはじめる。宮内省雅楽部のチェロ通の職員に師事。
1923年(21歳)、音楽に専念するために上智大学を中退し、4歳年上の近衛秀麿(25歳/1898-1973)の助言で秀麿に随伴してドイツに留学、ライプツィヒ音楽院でユリウス・クレンゲル(ゲヴァントハウス管弦楽団首席チェリスト)に4年間チェロを学ぶ。1927年(25歳)、帰国するとその夜に近衛秀麿が訪ねて来て新交響楽団(現NHK交響楽団)に勧誘され、以降、留学を挟みながら14年にわたり首席チェロ奏者をつとめる。
1928年(26歳)、新交響楽団の第30回定期公演で指揮者デビュー。ただし基本はチェロ奏者。
1929年(27歳)、最初のチェロ独奏会を開催、成功を収める。
1930年(28歳)、再びドイツに赴きベルリン音楽院で2年間世界的チェロ奏者のエマヌエル・フォイアマン(1902-1942)に師事。斎藤とフォイアマンは同い年だが、フォイアマンはカザルスに次ぐチェロの巨匠とうたわれた(12年後に39歳で病死)。
※フォイアマンのバッハ『G線上のアリア』https://www.youtube.com/watch?v=xkvGpmbpuZA (3分33秒)
※フォイアマンのバッハ、Adagio(3Versions) https://www.youtube.com/watch?v=E3sdbyWjPkk (10分27秒)
※チェロ奏者ダニイル・シャフラン「カザルスは神様だが、フォイアーマンはそれ以上だ」
1932年(30歳)、春にベルリン音楽院修了、のち帰国。秋から新交響楽団の首席チェロ奏者に復帰。
1936年(34歳)、新交響楽団にポーランド出身の指揮者ヨーゼフ・ローゼンシュトックが招かれ、斎藤はローゼンシュトックの音楽観や指導方法に感銘を受ける。同年、斎藤が作曲した管弦楽『お才』がNHK日本現代作曲祭で初演される。
1938年(36歳)、ヴェルディのレクイエム練習中に舞台から転落して大怪我をする。
1939年(37歳)、新交響楽団初の海外公演(京城/ソウル)に同行する。
1941年(39歳)、新交響楽団を退団し、本格的に指揮者に転じて独立する。
1942年(40歳)、松竹交響楽団の指揮者に一年間就く。新交響楽団と日本放送協会を設立者として、日本交響楽団(現NHK交響楽団)が設立される。
1943年(41歳)、日本放送管弦楽団の指揮者に就く。ピアニストの井口基成とベートーヴェンの「皇帝」を録音する。
1944年(42歳)、巌本真理とベートーヴェンのロマンス第1番、第2番を録音。
1945年(43歳)、敗戦。8月末、東京フィルハーモニー交響楽団の専任指揮者に就く。

1946年(44歳)、戦争が終わり未来を見据え、指揮よりも音楽教育に心を惹かれるようになり、東京フィルを辞任。また室内楽の普及に乗り出し、森正、巌本真理、河野俊達らと東京室内楽協会を結成。
1948年(46歳)、9月音楽の早期教育を目ざした「子供のための音楽教室」(のちの桐朋学園大学)を吉田秀和、井口基成(もとなり/ピアノ)、伊藤武雄(声楽家)らと発足させ、拡大させていく。自身は弦楽部門を担当。一期生に小澤征爾(指揮者)、中村紘子(ピアニスト)、堤剛(チェリスト)など。
1951年(49歳)、指揮者・作曲家の尾高尚忠が過労のため39歳で急逝。これがきっかけとなり日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組。
1952年(50歳)、「子供のための音楽教室」が桐朋(とうほう)学園高等音楽科に発展。
1955年(53歳)、桐朋学園高等音楽科が桐朋学園短期大学(学長井口基成)として開校し、同時に教授に就く。ついで学長に就任。
1956年(54歳)、指揮者ジョゼフ・ローゼンストックの指導を得て、名著として名高い『指揮法教程』を出版。斎藤が説いた合理的な指揮法は「斎藤メソード」と呼ばれ、レナード・バーンスタインからも賞賛される。同書は今も多くの指揮者に影響を与えている。
1961年(59歳)、桐朋学園短期大学が桐朋学園大学音楽学部に発展。その後も、数多くの弦楽器奏者や指揮者をそだてあげた。
1964年(62歳)、桐朋学園弦楽合奏団を結成、渡米公演を行い喝采を浴びた。
1965年(63歳)、山田耕筰が79歳で他界。
1966年(64歳)、桐朋学園で記録映像を撮影。自分の身銭を切って生徒を指導するが「ぶん殴るぞコイツ!」も出る。※少年時代の尾高忠明に指揮を指導する斎藤の貴重映像https://www.youtube.com/watch?v=RrYHsP2ZF3w1967年(65歳)、日本指揮者協会の2代目会長に就任(初代は山田耕筰)。
1972年(70歳)、新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者団顧問となる。
1973年(71歳)、文化功労者。ロン=ティボー国際コンクールの審査員として渡仏。
1974年、8月に桐朋学園オーケストラ合宿に癌の病をおして参加し、9月18日に72歳で他界。
1984年、小澤征爾と秋山和慶が恩師の没後10年を記念した「齋藤秀雄メモリアルコンサート」を開催、これをきっかけに弟子達を中心にした「サイトウキネンオーケストラ」が組織される。
1992年から毎年 小沢征爾を中心とする斎藤秀雄門下生たちによって「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開催されている。「私は年がら年中攻撃されているが、男ってのは家を一歩出れば、必ず頭をひとつ叩かれるもんだ」(斎藤秀雄)※小澤征爾は高校時代、斎藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたり体罰を日常的に受け、ストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ大怪我をしたという。
※宮沢賢治は上京時に新交響楽団の練習を見学しており、その頃に「セロ弾きのゴーシュ」を書いていることから、作中の厳しい楽長(指揮者)のモデルを斎藤と考える説がある。演奏家や指揮者としてだけでなく、音楽教育者としてもよく知られた斎藤。自費を削ってでも後進の育成に力を注ぎ、多数の音楽家を育て上げ、日本音楽界の飛躍的発展の基礎を築いた。指揮法の大家になってからも、学生や子どもたちのオーケストラを指揮することが多かった。指導は厳しかったが、没後に門下生が自身を記念した音楽フェスティバルを四半世紀以上も続けており、師弟の絆の強さを伝えている。

〔墓巡礼〕
没後に自分の名前を冠した「サイトウキネンオーケストラ」が結成されるほど、多くの弟子を育て、また慕われた音楽教育者の斎藤秀雄は東京都府中市の多磨霊園に眠っている。日本初の公園墓地であり面積は東京ドーム27個分、岡本太郎、三島由紀夫、与謝野晶子、江戸川乱歩、向田邦子、長谷川町子など50万人が眠っている。斎藤家の墓域(2区1種4側4番)の正面には父親で明治・大正期を代表する英語学者の斎藤秀三郎の大きな墓があり、右手の木立の背後に「斎藤秀雄・秀子之墓」とだけ刻まれた板碑型の墓が建っている。この墓前には、小澤征爾、秋山和慶、岩城宏之、山本直純、堤剛、前橋汀子、岩崎洸、藤原真理など、かつての門下生たちが墓参りに来ているのだろう、命日や彼岸でなくともよく花が供えてある。



★番外編・ベルリン・フィルと指揮者たち

クラシック音楽を聴き始めた当初は、指揮者の個性やオーケストラの実力で曲の魅力が大きく変化することに気づかず、曲名と作曲家だけを記憶していた。やがて人々に絶賛される「名演」の存在を知り、フルトヴェングラーやカルロス・クライバーの指揮を積極的に聴くようになり、パブロ・カザルスやグレン・グールドの演奏に感嘆するようになった。僕の青春時代は“帝王”カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期であり、「カラヤンファンはミーハー」という批判を知りつつも、カラヤンが振った「アルビノーニのアダージョ」「花のワルツ(くるみ割り人形)」の美しさに骨抜きにされていた。そして数々の名指揮者と組んできたベルリン・フィルに興味を抱き、ゆかりのある指揮者の墓を墓参するようになった。
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ベルリンフィルハーモニー管弦楽団は1882年に50人の自主運営のオーケストラとして発足し、同年秋に49歳の初代常任指揮者ルートヴィヒ・フォン・ブレナー(1833-1902)を迎えて第1回定期演奏会が開かれた。ライプツィヒ出身のブレナーは5年間ベルリン・フィルを指揮し、14年後に68歳でベルリンにて他界したことは分かっているが、残念ながら海外サイトや諸文献を調査しても墓所の場所は不明だった。ちなみにブレナー時代の1884年にブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を自ら弾いている。ドボルザークも自作の演奏で指揮台にあがっていた。
1887年、当時は作曲家自身が指揮やオペラの演出を担当することが一般的だったが、初めて指揮だけを専門的に行う元祖“職業指揮者”のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)が第2代常任指揮者に就任した。ビューローはワーグナー(1813-1883)から革命的な指揮法を受け継いでいた。ワーグナーやビューロー以前の指揮者は、単純に拍子をとって指揮棒を振るだけの存在だった。だが、ワーグナーは指揮者が楽譜を読み込んで曲を解釈し、それを反映させた音楽表現を追求する指揮を行った。ベルリン・フィルはワーグナーから指揮を学んだビューローのもとで、演奏水準が飛躍的に向上した。
ビューローがベルリン・フィルから離れた後、マーラーが客演指揮者として招かれるなどしたが、1895年に20世紀初期の大指揮者の一人、アルトゥール・ニキシュ(1855-1922)が第3代常任指揮者に就任した。1913年(創立31年目)、ベルリン・フィルはニキシュのもとで初のレコーディングを行った。選ばれた曲はベートーヴェンの運命交響曲。ニキシュは魔術をかけるような指揮で自在に楽団を操ったという。
1922年にニキシュが66歳で他界し、後任に史上最高の指揮者とも言われるフルトウェングラー(1886-1954)が第4代常任指揮者に就任し、ベルリン・フィルの弦楽パートが強化され、楽団はさらに表現力を増していく。フルトヴェングラーはヨーロッパ各地で演奏活動を行い、ベルリン・フィルの豊かな響きに聴衆は酔いしれた。ヒトラーが台頭するとフルトヴェングラーは音楽仲間が外国へ亡命するなか、ドイツに残ってユダヤ人演奏家の援助に尽力し、ナチスによる音楽界への圧力を批判する声明を新聞に寄稿した。ベルリン・フィルは1944年1月に活動拠点のホール、旧フィルハーモニーが連合軍の爆撃で焼失、その後も空襲や停電が頻発するなか、ベルリン国立歌劇場や映画館に会場を移しながら演奏活動を続けた。1945年2月、ユダヤ人メンデルスゾーンの作品を演奏会のプログラムに入れるなど、ナチス政権に非協力的なフルトヴェングラーに逮捕状が出され、ゲシュタポに殺害される可能性が出てきた。フルトヴェングラーはスイスに亡命し、残された楽団員はベルリン陥落の2週間前までコンサートを開催した。
1945年5月のドイツ敗戦後、フルトヴェングラーは親ナチスの嫌疑(実際は真逆)で裁判にかけられ、判決が出るまで指揮活動を禁止された。かわってロシア出身のドイツ人指揮者レオ・ボルヒャルト(1899-1945)を第5代常任指揮者(代役という意味では暫定首席指揮者)に迎えベルリン・フィルは活動を再開する。大戦中、ボルヒャルトは地下に潜伏して反ナチスのビラを刷っていた。ところがそのわずか3カ月後、1945年8月23日にベルリンに進駐した米軍兵士の検問所で誤射を受け、ボルヒャルトは46歳で不慮の死を遂げた。
その6日後、ベルリン・フィルの野外コンサートでルーマニア生まれの33歳の若手指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)に白羽の矢を立てられた。彼は直前に現ベルリン・ドイツ交響楽団主催の指揮者コンクールに優勝していた。チェリビダッケは野外コンサートの成功で信頼を勝ち取り、翌年に首席指揮者に就任した。同時にチェリビダッケはフルトヴェングラーを尊敬していたことから無罪判決が出るよう奔走、1947年にフルトヴェングラーの無実は証明され、晴れてベルリン・フィルに復帰した。だが、ここで問題が起きた。チェリビダッケとベルリン・フィルのタッグは、聴衆からも批評家からも熱狂的に支持されており、チェリビダッケは首席指揮者として楽団をさらに自分色に染めることを願ったが、楽団員は復帰したフルトヴェングラーを本来の首席指揮者と考え、双方の間に温度差が生まれる。

1948年12月31日、ベルリン・フィルは大晦日の恒例となるジルヴェスターコンサートを開始。演奏の模様は1月1日のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートと共に全世界に中継された。
1952年にフルトヴェングラーが初の「終身首席指揮者」に就任したことで、チェリビダッケは活躍の場を各国の客演指揮者に移していく。
2年後の1954年にフルトヴェングラーが68歳で他界すると、後任にチェリビダッケが就くと思われたが、楽団員はかねてからリハーサルを延々と行うチェリビダッケのやり方に疑問を抱いており、次の終身指揮者・芸術監督に選ばれたのはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)だった。
カラヤンはオーケストラの音色をシルクのように滑らかに、美しく響かせることにこだわった。同時に低音パートを充実させて音に厚みをもたせ、ベルリン・フィルは室内楽的緻密さと、迫力あるサウンドの両方を手に入れた。そしてさらなる演奏技術の向上のため、カラヤンは楽団員に小編成の室内楽活動を奨励した。
ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツいわく「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」。
カラヤンとベルリン・フィルは膨大な数のレコーディングを行い、ウィーン・フィルと並ぶ世界最高のオーケストラとして人々を魅了した。また、楽団員の国際化を進め、実力があれば東洋人でも受け入れた。
1963年に現在本拠地としているホール、フィルハーモニーが完成。
1967年、カラヤンがオペラ上演を目的にザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、ベルリン・フィルが特別にオーケストラ・ピットに入って演奏するようになった。
1977年、ジルヴェスターコンサートでカラヤンが第九を指揮。歌手はアグネス・バルツァ、ルネ・コロなど。
1982年の『ベルリン・フィル100周年記念コンサート』ではカラヤンが英雄交響曲を指揮し、気迫の名演となった。
1983年、ベルリン・フィルは創立以来101年間、男性メンバーのみで構成されてきたが、空席となった首席クラリネット奏者にカラヤンが20代前半の女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーを採用しようとしたことから、これに反対する団員たちと初めて大きく衝突した。結局マイヤーはベルリン・フィル入団を諦めたが、このトラブルでカラヤンとベルリン・フィルに隙間風が生じて“黄金時代”は終わり、カラヤンはウィーン・フィルとの関係を強化していく。
マイヤーの一件はベルリン・フィルの保守性が問題視されるきっかけとなり、翌1984年、第一バイオリンにスイス出身のマデレーヌ・カルッツォ(当時26歳)が正式に入団し、約20名の女性団員(2010年時点)が所属するようになった。
1988年、ジルヴェスターコンサートで80歳のカラヤンと17歳のピアニスト、エフゲニー・キーシン(1971〜)が共演しチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』を指揮。これがベルリンでのカラヤンのラストコンサートとなった。

1989年にカラヤンが健康状態の悪化と楽団員との不和により辞任。その3カ月にカラヤンは心不全で81歳の生涯を閉じた。この年のジルヴェスターコンサートはカラヤンの愛弟子・小澤征爾がオルフ『カルミナ・ブラーナ』を指揮した。
同年、カラヤンの後任を選ぶ際、楽団員がベルリン市内に集まって非公開の会議を開き、自分たちで首席指揮者を選ぶことになった。これをメディアはローマ教皇を選ぶ会議にたとえ「音楽界のコンクラーヴェ」と伝えた。1990年、楽団員投票の結果、ミラノ出身のクラウディオ・アバド(1933-2014)が最有力候補のロリン・マゼール(1930-2014)を破って首席指揮者・芸術監督に就任した。マゼールはショックのあまり9年間ベルリン・フィルの指揮台に立たなかった。カラヤンからベルリン・フィルという世界最高の名器を受け継いだアバドは、切れのある引き締まった音を色彩豊かに奏でた。アバドは時代考証を取り入れ、古楽器的な奏法を採用する冒険も行った。
1991年、ベルリン・フィル創立日の5月1日を記念して欧州の名所で演奏する「ヨーロッパコンサート」を開始。
1999年のジルヴェスターコンサートは1000年代最後の夜ということで、名曲の終楽章などフィナーレばかりを集めた特別なプログラムとなった(ベートーヴェン「交響曲第7番終楽章」、マーラー「交響曲第5番終楽章」ほか)。
アバドは2000年に胃癌で倒れ、健康問題から2002年に在位12年でベルリン・フィルを辞任(2014年に他界、享年80)。音楽界最高の地位であるベルリン・フィルの次の首席指揮者が誰になるか世界が注目した。ハイティンク、メータ、小澤、レヴァイン、ヤンソンス、マゼール、エサ・ペッカ・サロネンらの名前が候補にあがり、最終的にイギリス人のサイモン・ラトル(1955〜)と、アルゼンチン出身のイスラエル人ダニエル・バレンボイム(1942〜)に絞られ、楽団員による投票で47歳のラトルが首席指揮者・芸術監督に選出された。ラトルはそれまでベルリン・フィルがあまり演奏しなかった現代音楽を積極的に取り上げ、表現の幅を広げた。
2006年のジルヴェスターコンサートにピアニストの内田光子が登場し、モーツァルト『ピアノ協奏曲第20番』を演奏。
2008年、カラヤン生誕100周年記念コンサートでカラヤンの愛弟子だった小澤征爾がベルリン・フィルの指揮台に立ち、チャイコフスキーの悲愴交響曲を演奏した。
2009年、演奏を中継する映像配信ポータルサイト「ベルリン・フィル デジタル・コンサートホール」のサービス開始。アクセス数が最も多い国は、本国ドイツ以外では日本がトップ。日本人のベルリン・フィル好きがよくわかる。
2010年、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに樫本大進が就任。他に第1ヴァイオリンに町田琴和、第2ヴァイオリンに伊藤マレーネ、ヴィオラ首席に清水直子が在籍。このように現在のベルリン・フィルは女性団員の姿が普通になり、また様々な国籍の団員が所属する国際的なオーケストラとして活動を続けている。2010年のジルヴェスターコンサートは当時まだ29歳の若手指揮者、ベネズエラ人のグスターボ・ドゥダメル(1981〜)を客演指揮者として迎えた。

サイモン・ラトルは2018年に引退し、2019年からロシア出身のキリル・ペトレンコ(1972〜)が首席指揮者・芸術監督に就任予定。首席指揮者=常任指揮者としてカウントした場合、ペトレンコは第11代常任指揮者となる。
※ベルリン・フィルは毎年6月の最終日曜日に、ベルリンっ子が憩う公園“ヴァルトビューネ”の野外音楽堂で野外コンサートを開催している。コンサートの最後に必ずパウル・リンケの「ベルリンの風」が演奏され、2万人の観客が手拍子、指笛、線香花火で演奏を盛り上げる。
※ラトルが指揮者に決まる過程を追った2003年の音楽ドキュメンタリー『マエストロ・イン・デモクラシー〜ベルリン・フィルの選択』(NHK/Euro Arts共同制作)の中で、ナレーターは「ベルリン・フィルの132年の歴史の中で、首席指揮者の重責を担ったのはアバドを含めて6人だけです」と語っている。ブレナー、ビューロー、ニキシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバドということだろう。レオ・ボルヒャルトは“暫定首席指揮者”だからカウントされないとしても、チェリビダッケは首席指揮者の扱いと思っているのだけれど、違うのだろうか?


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